ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「残夢整理」著:多田富雄

1934年生まれ、2010年没。
青年期に戦後を過ごして来たそうした人のエッセイである。

右派ではないが、日本は確かに
敗戦を経て接ぎ木をされたというのはある。
どのように切断されて、なにが残ったのか
今からでは見えないものも多い。

それにしても、感傷的な憂いを帯びてはいるものの
根本的なところで明るい感じがするのは
この著者自身が悔いはあれど、
生き続けて来たことに充足感を感じているのだと思える。

それだけ、死の匂いは濃厚で
しかし、それは特別な悲劇ではなかった。
そういう時代を経て接ぎ木された上に、
曲芸師よろしく私たちは座っている。

残夢整理―昭和の青春

残夢整理―昭和の青春

何かを発見しようとするなら、文献なんか読むな。そんなものにはなにも書いてない。自分の目で見たことだけを信じろ。わしの言うことを、ゆめゆめ疑うことなかれ(p.173)

医学の道での師匠のキャラクターもなかなか印象的です。

RE/PLAY Dance Edit

最近、舞台というものを観ていなかったのもあって、
ダンスというものを観に行った。

スタートの立つスタンスの取り方がかかとをつけていたり、
肩幅に広げていたり、内股気味であったり、最初から差異が強調されている。

8人のダンサーのうち3人は関西だが、残りは
東京1、シンガポール1、カンボジア2、だからまぁ、
こういう展開は想像はしていた。

音楽が流れ出すと動きは見え始める。
しかし、止まっていても動いている。
動かない時には横になって倒れている。

おおむね、木偶のようではあるけれど、
能動的な木偶であり、ドラクエに出てくる
不思議な踊りを踊るアレをもう少し自由にした感じ。

音楽は繰り返される。
これが、リプレイたる所以だろうと思うが、その度に踊りも
やや違ってやり直される。
ボリュームが上がるのに合わせて踊りの強度を上げているように見せてある。

この「見せてある」というのは文字通り
彼らは木偶でなくて、踊りを踊っているだけだからなのだけど
それは音楽を10秒程度カットオフするような手法で
よりあからさまに提示される。

こうした露悪趣味は笑顔を作らせずに、
息切れした呼吸を聴かせることにも現れている。
また、幕間的に先取りされた公演打ち上げのワンシーンも
彼らが木偶でないことを示している。限りなく木偶に近い形で。

簡単に現状の関係性を見せながら、
女の子が一人先に帰る。
そこで呟かれる「彼女、帰っちゃった。She’s gone.」は
明らかに意図的で死のニュアンスが強い。

死を呼び出せば、生も起き上がるものだが、
そんなものは最初からありふれているのであって、
彼らは踊っているのだから、意図はそこにない。

なら、なんであるかと言えば、
倒れ込んでしまっても息をすることをやめない身体であるし、
音楽が止まっても動き続ける身体のことが
死に仮託されているものだ。

音楽は意図的に古いものから現代へと選ばれている。
時代はアーカイブされながら一向に消滅しない。
なにかをすることはすでに積み重ねられた繰り返しでしかないにしても
身体は常にその時代を生きている。

後半に向かうに従って音楽と動きは開放的になる。
バレエを通過して来たダンサーが3名はいたが、
その跳躍は美しさを持っていると思った。
(嫁は特に、赤紫のワンピースの子が気に入ったようだ)

最期のカーテンコールまで演出通りに駆け出して行く緑の青年を
二人して賞賛しながら、拍手は2回目までにしておこうと思ったのですが
いやはや、最近のダンサーは大変である。
息をして生きていることが仕事のようだから。

いや、さて、それはダンサーだけか?

「フィリピン」著:井出穣治

ドゥアルテ大統領で悪目立ちをしてしまった感はあるものの
しかし、どのような道行を経てそこに来たか知らない人は多いだろう。

この本はASEANの中での差異も取り上げながら、
簡潔にスペイン植民地時代から歴史も抑えてあり、
概要をとらえるのにとてもよくまとめられた本だ。

名目GDPは3000億ドル弱でASEANでもトップ集団ではないが
人口は1億を超えて2番手、さらに平均年齢25才という人口動態の特徴がある。
働き盛りがこれからバンバン増えていくという爆発力を秘めているわけだ。

今、日本とフィリピンの関係は悪くはないと思われるが
第二次世界大戦時には激戦のあった場所も多くあって、
日本への感情は穏やかでない時期もあった。

(以前読んだマッカーサーの回顧録でも
互いに大きな被害が出た戦いであったことがよくわかる。)

それがどのようにして、今フラットなところまでこれたか
改めて見ておくことは価値のあることかとも思う。

多数決原理がうまく機能するためには、国の大きな方向性などの根幹部分について、大半の国民の間である種の暗黙の合意が成立していることが望ましい。そうでなければ、対局の判断のたびに国民の分断が引き起こされる危険性が増す。フィリピンの場合は、半ば固定化された格差の存在により、この暗黙の合意の形成が必ずしも容易ではない。(p.159)

「現代美術コレクター」著:高橋龍太郎

なんか、この人ナチュラルにマウンティングしてきて厄介なんですけど。

ただ、マーケットとして成熟を極めていなくても
多様な広がり方をしていて、何がどう動いているのか
なかなか見えてこない現代日本アートの切り口として
筆者が提示しているものには説得力がある。

やはり身銭切ってると違うね。

文章は鼻につきますが、この本の見所は新書サイズながら
カラーで作品を多数紹介しているところです。

っていうか、会田誠が想像以上にインテリな作品の作りで驚いた。
おにぎりがうんこの上に座ってるやつも、地味に半跏思惟像だったしなぁ。

「ビッグデータと人工知能」著:西垣 通

この人はITなどという言葉で呼ばれる前から
この業界にいる人ですが、正直、僕には全然合わない。

AIの知性というものに限界があるのだから、
万能であるかのように思ってはいけない、
という主張それ自体は受け入れましょう。

というよりも、それはむしろ当たり前なんです。
ただ、その主張をする時に
万能AIという夢想が一神教的なものに通じているとも述べるのは
あまりに粗雑な議論です。

少なくともその夢想がヨーロッパから来たという証はなく
同時発生的に同じような概念が自生するという
可能性をほとんど顧みていない。
また、これは議論の中核ではなくて、単に言ってみた程度の話であり
要は万能ではないという主張を補強する為の小話です。

まぁ、こういうのは手癖でやってしまって自覚はないんでしょうが。

人間と同じでないから人間と同じ知性にならないのは当たり前です。
どこまで成長してもそうでしょう。
それでもなお、シンギュラリティは起こりうると私は考えています。

何故なら、人間とは違う形の知性が存在しうるからです。

優劣とは関係なく、理解が不可能であっても
意思を持っているとみなすことが、
それが人間の能力のひとつなのです。

ヒューマニズムにとらわれるのでなく、
絶えず人間という概念を拡張しようと試みることの一端に
シンギュラリティの夢想は揺らめいているのです。
(ここはとても危うい言い回しですが)

まぁ、情報処理の発展史については概説を抑えています。

下手な切り分けをおこなうと、われわれはコンピュータの作動のリズムに合わせて社会メガマシンの要素と化し、狂気のように振り回されることになってしまう。そうならないためには、今一度、生物と機械の相違を確認しておく必要がある。いったい、「人間にしかできない仕事」とは何なのか?(p.200-201)

人間にしかできない仕事とは信じること、決断すること。
最初、喜ぶことと書いたが、感情は仕事ではない。感情は仕事ではない。

「アホウドリを追った日本人」著:平岡昭利

副題には一獲千金の夢と南洋進出とある。

アホウドリが儲かるとは、どういうことか。
なんでもアホウドリは警戒心が弱いので特別な道具が無くても
ひたすら撲殺で捕まえられるらしく、それによって羽毛を輸出していたらしい。

明治の初頭から羽毛の輸出はそれなりの規模もあった。
そうした背景の中海洋進出をしていった実業家たちと、
それらに振り回される政府、そしてこき使われる労働者たちの
三者三様のあり方が見ものである。

それにしても一人1日100羽を捕まえたという数字は
仮に10時間くらい働いたとして1時間10羽、
ほぼ流れ作業のように捕まえてるんだろう。
心の平衡が保てる気がしないね。

逆方向から来たアメリカとのバッティングなど
今もくすぶっている領有権のさや当てもこの時にすでに起きている。

明治期の1つの側面を見せてくれる興味深い本に仕上がっていると思う。

小さな無人島のプラタス島(東沙島)が、労働者がひしめきあう西澤島へと変貌し、カツオドリが飛び交う風景が描かれた私製紙幣が流通する、単一企業島「西澤王国」がここに形成されたのである。(p.168)

帝愛グループのペリカを連想するじゃないか。

「シュメル神話の世界」著:岡田明子、小林登志子

シュメル神話についての予備知識はまったくないが
おとぎ話の詰め合わせとしてまずは読ませてもらえる。

ギルガメシュと言えばビッグブリッジの死闘
怪しげな深夜番組かと思っていましたが、ここで出てくる
英雄の名前だったのですね。

半神半人の英雄は神話の世界ではありふれていて
王権の正統性の源泉をこうしたところに
持たせることができるので、ギルガメシュもそうした英雄の一人のようです。

ギルガメシュの冒険の話も面白いのですが、
個人的にはイナンナが戦いと愛と豊作の女神とされつつも、都市に着く神である
というのが一番のふむふむポイントですね。
というのも神は理念や現象に結びつくことが多いのですが、
それは不変であり普遍であるからです。

神が滅びてしまうかもしれない都市につく、その帰結としての物語も
ちゃんと用意されています。
都市が破壊されて異民族に占領されて嘆くイナンナに
「神々が合意して決めたのだから、その国を捨てなさい」と諭すのです。
そして、また別の王権の都市として復興するだろうと。

ここには政治とは別にそこに暮らす営み自体は
なくならないという諸行無常な都市住民の信仰心が見えるようです。

他にも黄泉の世界への冒険などお約束な物語も含めて
色々詰め合わせで、お得感のある本に仕上がってます。
(しかし、これもまたバチっとした理論はないのよね。
ケレーニイあたりとか読まなかんかね)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

エンキ神は女神に(引用者注:イナンナ)「喜ばしい声で語る女性らしさ。優美な衣装と女性の魅力。女性らしい話術」を授け、さらに「戦場では卜占によって吉兆をもたらし、また凶兆をも伝えさせよう。真っ直ぐな糸をこんがらかせ、こんがらかった糸を真っ直ぐにするのだ。滅亡させずともよいものを滅亡させ、創造せずともよいものを創造させ、哀歌用のシェム太鼓から覆いを外させよう。乙女イナンナには聖歌用のティギ太鼓を家にしまわせよう」と約束した。(p.94)

この対句的な表現や、列挙は神話によく見られる表現手法だけれど、
これは言葉の意味合いを「対句である」や「同クラスである」と言った
統語法的な制約から字義をより正確にしていこうとする作用もあるように思う。
ただ、結果あらゆるものの女神になってしまいそうだが。

神話とか昔話の多くは「天地の分かれしとき」とか「むかしむかし」のように、漠とした表現でも「いつ」のことから話がはじまる作品が多い。ところが、『エンリル神とニンリル神』はそうではない。
「都市があった」(シュメル語で「ウル・ナナム』)とはじまる。(p.142)

この歴然たるシティボーイとしての自覚がすごい。
4000年前、最古の文明ではありますが、
文明とはこの人の集積によって物語が始まったのだと言うのは
かえって徹底したリアリズムのように感じます。

最初に言葉があっても書き留められなければ、かき消えてしまう。
その意味で言葉の前に都市があった。