ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」著:新井紀子

シンギュラリティはこないけど、
全体的に2段階下くらいの水準で人類はAIに追いやられるという話。

どれくらい教科書が読めないのかというのは
割と衝撃的な数値が出ていますが、
ここの間違え方はAIと違うようにできている気がします。

相手の言いたいことをとらえようとする心の動きが強く出る時に
文章以上に間違えやすくなる。
大抵そういう人は小説が創作物であることを認めにくかったり
命題の形で書かれた一般的な言及を理解するのが苦手だろうと思います。
これはむしろAIの得意分野でしょうけど。

そういう点でAIが人間を完全にシミュレートすることはないでしょう。
正答率を上げる方向に作用しないと思うので。

ただ、逆方向はありそうな気もします。
人間がAIのインターフェースとして利用されながら
人間がAIにフィットしていく方向性です。
あんま嬉しくないけど、さてはてどうなることやら。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

私たちにとっては、「中学生が身につけている程度の常識」であっても、それは莫大な量の常識であり、それをAIやロボットに教えることは、とてつもなく難しいことなのです。(p.98)

ここで僕が感じたのは生身があるということのポテンシャルと
親など、日常的に接する一定の人物がいる小さな社会の存在ですね。

AIはまだまだ孤独なのですが、これがそうでなくなるなら人間に近づくように思います。
まぁ、人間に近づける必要はそんなにないのだけど。

「都市は人なり」著:Chim↑Pom

やってやった、という手応えだけがある。
面白い本だ。

美しさよりも、もひとつ前の、面白がることに彼らはフォーカスしてる。
人が集まりより多く面白がられるその煌めきが
美しくあるのかもしれず、そのようなものであれば
僕らの日常も十分に美しいのであるのだと、
遠回りに肯定するのはこの本でしか読まない読者の私だ。

現場で単純に面白がることができた人は幸運であったと思う。

また、歌舞伎町の中でどのように街と関わったかという記録は
コミュニティアートの1つの形のようにも見えるが
同程度の熱量が高円寺の道にはない。
要するにその為に作られたのではなくて、
歌舞伎町はたまたまそうしたほうが面白かったというだけの話で
それが重要なんだろうと思う。

都市は人なり 「Sukurappu ando Birudo プロジェクト」全記録

都市は人なり 「Sukurappu ando Birudo プロジェクト」全記録

重要なのは、互いに「傷」がつくことだと思うんです。芸術祭の整理されたアートと音楽の関係とは違って、今回のような雑多な場所では、どうしても共存したものが部分的に台無しになる瞬間がある。(p.117)

文化的なポトラッチ。
そもそも文化とは捧げ物だろうから、ほとんど重言かもしれない。

溝が埋まるきっかけが面白くて、風林会館で、なぜか腕相撲大会をやることになった。そうしたら、筋肉自慢のホストたちに、Chim↑Pomの稲岡(求)くんが次々と勝っていった(笑)。それでホストたちも、「アートは高尚」みたいな認識が変わった感じがあって、「なかなかやるじゃん」と信頼してくれた。(p.119)

ありがちなエピソードのようで、
あまり現実世界では聞かない話のような気もする。
っていうか、ホストは地味に鍛えてそうだよね。

「武器としての会計思考力」著:矢部謙介

会計を専門にしてない人でも道具として使えるような
なかなかよいガイドだと思う。

語句の説明の丁寧さもさることながら
実際の財務諸表を業種ごとに見ながら
それが何を意味するのか、実践的に解説もしてくれる。

最終的にKPIへの落とし込みの話までしているので
事業に役立つ会計を意識している。
表題の「武器としての」というのに偽りはないだろう。

ただ、あえて言うとすると、
前半の分析パートと後半のKPI導入の流れで言えば
後半のほうでは運営指標の作成なんかは
まだ掘り下げてほしいという気持ちもある。
それ単体でべつの本になりそうなので、
まぁ、ここまでで十分なサービスとは思うけど。

武器としての会計思考力 会社の数字をどのように戦略に活用するか?

武器としての会計思考力 会社の数字をどのように戦略に活用するか?

オリエンタルランドは確かに高い利益を上げることができているのですが、その一方で、実際にパークに行ってみたときの経験も踏まえて考えると、パーク内が混みすぎて、顧客満足度が低下している可能性がありそうです。言ってみれば、オリエンタルランドは利益が「出すぎている」状態なのです。(p.89)

ほう、そういう見方もできるのね。

過剰なキャッシュを保有するということは、それだけ余分な資本コストを抱えていることを意味します。
「キャッシュはコスト」という考え方です。花王では、EVAを導入することで社内に資本コストの意識を浸透させ、余分なキャッシュや在庫を削減することの意味を明確化したのです。(p.192)

たしかにその通りなんだけど、
資本コストに対する利益率を検討できる企業というのはその前に
まぁまぁ健全でなくてはいけないよね。レベルにあった指標が大事。

「求心力」著:平尾誠二

こちらの本はあまりオススメできない。
「勝者のシステム」のときにあくまで体験から帰納的に話をすすめていたのが
先に答えを持ったところから書いてしまっている。

そしてその答え合わせにこのような経験があった、というが
それは順番が逆なのだ。

ただ、集団のトップに立つ者として何に悩んで来たかは分かる。
トップの気持ちの一端を知るという意味合いでは読める本だ。

つまるところ、集団を動かしたいのに、
どうするのがより効果的に動かせるのかは
誰も確信を持ってできないってことだ。
権限があるゆえの悩みとは言え、使われる側としては
そこに何を乗せると互いのアウトプットが高まるか考えてもいいだろう。

求心力 (PHP新書)

求心力 (PHP新書)

ラグビーにおいてはキャプテンという存在は、ほかのスポーツに較べると非常に重要とされる。その役割を、私はコミュニケーションの不安がある外国人に託したのである。(中略)
「果たして円滑なコミュニケーションが図れるのだろうか?」
しかし、それは杞憂に終わった。むしろチームの親密度は高まり、雰囲気もよくなったほどだった。
なぜかーー。ひとことで言えば、ほかの選手がマコーミックの言葉を真剣に聞こうとしたからである。(p.29)

結局はこれです。
話を聞くに値する相手かどうかが、
リーダーシップということでは最大の問題で、ほとんどそれで片がつく。

何故そう思われるに値するかは個別の状況があるけど、
同じ組織にいるから具体的な行動でしかない。

「スペクタクルの社会」著:ギー・ドゥボール 訳:木下 誠

戦うために戦う文章の連なりであり、
現象のまま、道連れに消え去ろうとする試みだ。

脱構築へと連なる流れの実践的な潮流がここにはありそうだ。
消費的なシュミラークルのお話かと思うと、それよりも
より広い視野のある本ではある。

ただ、戦う衝動が強すぎて、
不明瞭な敵を映し出していないかとは思う。
ガラスを殴れば自分の拳を怪我するだけだ。
傷ついた時に、それを敵の反撃だと言うのは愚かしい。

無数の断章としてきらめく知性は
いかにもツイッター中毒になりそうな感じである。

巻末に本編に劣らない解説がある。
20世紀後半に確かにあった人々の熱気が見えてくる力作だ。

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

権力を握った全体主義イデオロギーは、逆転した世界の権力である。この階級は、自分が強力であればあるほど、それだけ強く自分が存在しないと主張する。(p.92)

おそらくそうだろう。
しかし、これを暴こうとするとき、こちらも神話的な戦いを挑むことになる。
つまり、人は敗北する。(英雄は例外である)
ならば、事前に叩き潰す以外にない。

時間とは、ヘーゲルが示したように必要な疎外であり、主体が自己を失うことで自己を実現し、自分自身の真理となるために他のものになる環境である。だが、疎遠な現在を生産する者が被っている支配的な疎外は、まさにその逆である。(p.149)

曰く、超人化を防ぐために時間が個人から奪われているのだ。
ここで、「誰が?」と問えば戦争になる。しかし、その敵は本当に敵なのか?

僕は博愛主義的に行きたい。

「理不尽な進化」著:吉川浩満

これは進化論についての本ではありません。
科学と一般的な理解との隔たりについて丁寧に書かれたものです。

と、言ってしまうには進化論についての言及はしっかりしている。
この具体的なコミットメントがあってこそ、この人の立論は意味を成すのだから
当然といえば当然なのだけれど、中々の労作であることは間違いない。

特に人間的理解について歪みであると断じるのは簡単だけれど
それを歴史と結びつけて、これも人間性のまっすぐな発露であると
限定的でも肯定しているのが好感が持てる。

もっともそれ故に、困惑させられているわけだけれど。

フェイクニュースの蔓延や科学的正しさの伝わりにくさに
居心地の悪さを感じる人は読んでおくと、
いくらかの解毒効果を発揮すると思う。

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

世に出てきた生物の九九・九パーセントが絶滅するという事実だけでも十分に強烈なのに、それらはたいてい運がわるいせいで絶滅するというのだから。生物は落ち度もないのに絶滅する。しかも、それこそが普通なのである。(p.44)

まぁ、そうだよね。死ぬときゃ、死ぬよ。

そこでその色を光の波長であらわすことになるだろう。このようにして科学は、特定の人や文化や立場からできるだけ離れた視点から対象を描写しようとする。これが絶対的な捉え方である。注意しなければならないのは、それはあくまで「絶対的」(absolute)な捉え方であって、「完全」(perfect)な捉え方ではないという点だ。(p.366)

科学が可能にしたことと、科学が目指さなかったもの、その一端がここに示されている。

「ゴリオ爺さん」著:バルザック

パリの下宿にやってきた田舎青年が社交界でもまれる変則めぞん一刻です。

まぁ、しかしあれよりだいぶ下世話か。
泣き落としにつぐ泣き落としがあらわれるけれども
みんなだいたい自分勝手すぎる。

自分のこづかいが少ないからと言って
カジノで儲けてきてと頼む女なぞこちらから願い下げであるが、
なんとその女は比較的ましな部類の人間である。

あと「不死者」とかいう中二病的ネーミングの男は
なんかするのかと思ったら思わせぶりに焚きつけるだけで
中盤で退場して一切出てこない。不死者なら戻ってこいよ。
まぁ、たしかに死んではいないけど。

そんなわけでほとんど納得できることはないのですが、
爺さんの異常な愛情だけに賭けられた物語なので
そこで読むことはできます。

また、どうやら退場した不死者だけでなく
ほかの脇役も最近のスピンオフ漫画よろしく
バルザックのほかの著作で顔を出すらしい。
そういった仕組みを考えて実行した点でバルザックの功績はあるだろう。

いや、しかし芝居が臭いのはともかくとして
倫理観がずれすぎていてついていけませんでした。
歴史資料としても違い自体は面白いよね、以上。

ゴリオ爺さん (新潮文庫)

ゴリオ爺さん (新潮文庫)

「友情もあなたのおそばでは、きっと、俗っぽいところなどないでしょうが」と、ラスティニャックは言った、「ただのお友だちには、絶対なりたくないですね」
こうした初心者向きのばかげた紋切り型も、女性にはいつでも魅力的に聞えるもので、冷静な気持ちで読むから寒々しく響くだけである。(p.219)

おい、バルザック。こっちみてしゃべるんじゃない。
なんか言い訳っぽいぞ。

「これじゃああしたの朝は、三人分のコーヒーしか用意しなくていいんだよ、シルヴィー。どうだろう!あたしの下宿はがらんとしちまって、胸が張り裂けそうじゃないかい?下宿人のいない生活なんて何なの?ゼロだよ。家具を取り除いたみたいに、あたしの下宿から下宿人たちがいなくなっちまった……(p.383)

不死者のおっさんの大立回りのあと、ごたごたして下宿人に逃げられたおばさんの嘆き。
このあと、主人公の若者とゴリオ爺さんも出て行ってさらに追い討ちをかけます。

さすがにここは可哀想だと思うんだけど、新喜劇的展開でもある。