ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「森へ行きましょう」著:川上弘美

別の生き方があったかもしれないと考えることは誰にでもあるだろう。
それは選択の結果とかそういうのではなくて、
ただ単に別様に生まれて、伴走しているのかもしれない。

この小説は互いに互いの伴走者として1966年の誕生から
2027年の60歳までの愛の物語となっている。

こっぱずかしいけれど、これは愛の物語と言わなくてはならない。
主人公の名前はルツ/留津といい、これは旧約聖書から採られたと説明がある。
(そうではない世界もある)

また、森へ行きましょうという言葉はかの童謡を思い起こさせ、
それはつまり恋人が恋を語らう聖域としての森である。
一方で、単純にヨーロッパの森ということにもなるが、
ヨーロッパの森はキリスト教によって切り開かれるべき野蛮さの象徴である。

ほとんどキリスト教という言葉は出ていないし、
宗教的な救いの話はまったく関係がないのは確かだ。
しかしこれだけ参照させるのは救いとはまったく関係のない愛の話として
これを成立させようという企みがあるからに違いない。

川上弘美がこんなにもハイコンテキストなのを書くというのは、
はっきり言って驚いている。もっとささやかな主体のとろけを描く作品が多いのに
この作品はこうした象徴性以外にも出来事の時系列を整理して、
あきらかに実際の社会とコンタクトしようとしている。

いや、おそらく逆なのだ。川上弘美は震災の揺れを起点にして書いている。
伴走していたはずのパラレルワールドは掟を破るし、2つが並列しているように見えて
無数の主人公が押し込められていることがそこを起点に暗示されている。

これは揺れによるブレが引き起こした感覚であり、
このようではなかったかもしれない、という仮想が
人の選択の域を超えていることとして表現されていることにつながっている。

救いとは無関係にただこうあることを歓ぶ、人生を愉しむこと、
悲壮感ではなく、運良く/悪くこうあることを受け入れる姿勢は愛なのだろう。

パラレルワールドの中でも同じ人名が違う形で出てくるが、
幾人かは必ず親友として側にいたりするそうした描き方は
ロマンティックなイメージでもあるが、著者の人生への感謝を感じる。

まったく楽じゃないのに不思議と明るい気分になるような読み味のよい本だ。

森へ行きましょう

森へ行きましょう

林昌樹はたぶん、ほんとうに、よくわからなかったのだ。なぜ留津にキスしてしまったのか。(中略)林昌樹は、たちすくんでいたにちがいない。あんなになめらかに世界に対処しているように見えた若き林昌樹だったけれど、あれはきっと、林昌樹がようやく編み出した、世界への処し方だったのだ。(p.132)

「日下と暮らすのもいいな、なんて考えることも、たまに、ある。いや、おれたち
気が合うし、日下って間抜けだから、楽ちんだし」
何よ、その間抜けって。ルツは笑った。笑いながらも、林昌樹の言葉はそくそくとルツの身に迫ってきていた。
人生に参ってしまった時には、誰かと暮らしたくなる。(p.290)

林君はどちらの世界でも永遠の親友です。
前者は24歳の留津。後者は41歳のルツ。

「ハイファに戻って/太陽の男たち」著:ガッサーン・カナファーニー 訳:黒田寿郎/奴田原睦明

短編がいくつか入っているが、
やはり「ハイファ」が一番小説としてよくできている。
小説的フィクションを強度に転換することが巧みに行われている。

そう思うのは要するにほかの短編が
ざらりとしたナマの感触のまま突き出されているように感じるからだ。

特に密入国を描いた「太陽の男たち」は描写としてはほとんど
ハードボイルドのようである。
感情に入り込むのではなく、淡々と行動とひたすらな暑さが描かれている。

感情としての内面はない。ただひたすらな暑さとともに
クウェートに向かわなくてはならない状況だけがある。
そしてそれが正規の方法などあらかじめありえず、
また何が最善であるかも分からないという状況。

内面など何か意味を持つだろうか。
状況においてノーとしか口に出来ない、扉を開けばそこをくぐるほかない、
そんな選択を奪われた状況に内面など意味を持つだろうか。

そうした葛藤を踏み越えて、「ハイファ」はとても情緒的である。
それがなにかの回復を意味する訳ではないだろう。
しかし、奪われたものと奪われようのないものを峻別した地点に現われた
人間こそは語られるに値する人間なのだ。

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

原因といえばただ一つ、太陽にうちのめされたからなのである。これは紛れもない事実である。だがうちのめされると表現したのは誰だろうか。いずれにせよ、たいへんな才人に違いない。この空虚な砂漠は、まるで焔と煮えたぎるタールの鞭で、彼等の頭を鞭打つ眼に見えぬ巨人のようであった。だが太陽は彼等をうち殺すことはできようが、同時に彼等の胸中にわだかまる卑しいものみなを抹殺することができるだろうか。(太陽の男たち:p.87)

旦那にだって、人がふるえるのをやめさせるわけにはいかないでしょうからね、そうじゃありませんか?今でさえ、これだけはわたしにふんだんに残されている権利なんですからね。(彼岸へ:p.162)

「そうだ。確かにそうだ。われわれはいかなるものも、置き去りにしてはいけなかったのだ。ハルドゥンも、家も、ハイファも。私がハイファの通りで車を走らせている時に、私を襲ったあのゾッとするような感情はおまえを襲わなかったのかい。私はハイファに親密な気持ちを抱いているのに、ハイファはそれを否定するのだ。(p.233)

「セカンドハンドの時代」著:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 訳:松本妙子

ソ連からロシアへの移り変わり。
国家の崩壊と誕生を生き延びた人々へのインタビューから本書は成り立っている。

貴重にしても、ありふれた題材ではある。
国家による抑圧と解放、偽りの国民概念。
実際、本書もその領野からの声をひろっている。

ただ、もっと切実な日々の生存者としての言葉と、
きらめくような共産主義自由主義への憧れの言葉、
そうしたものは国家の変遷とは無関係に充満している。
(憧れとは、そこに在るものであってはならない)

そうして密度を増した人間的時空の中に「ソヴォーク/粗連人」
という不名誉な表現で現れる国民概念はフィクションであったとしても、
真実であることを妨げない強度を持っている。

かつての共産主義者から、兵士、革命にかかわったもの、アルメニア難民、エトセトラ。
本当に幅広く、一人一人粘り強く耳を傾け続けた労作だ。

ロシアの精神を見るとともに
断絶した声の交錯は、どこの社会にも普遍的に見られるものだ。
それは和声としてまとめるべきものでもない。
ただ春雨が来る前の空気と鳥の声を身体が覚えていられるように
こうした声の地鳴りに耳を澄ませてもいいんだと思う。

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

わたしたちには西側の人間が幼稚にみえる。というのも、彼らは、わたしたちのように悩んでいないし、ちっぽけなニキビにだってあっちには薬があるんだからね。それにたいして、わたしたちは収容所で服役して、戦時中は大地を死体でうめつくし、チェルノブイリでは素手で核燃料をかきあつめていた……。そして、こんどは社会主義のガレキのうえにすわっているんですよ。戦後のように。わたしたちはとても人生経験豊かで、とても痛めつけられている人間なんです。(p.42)

列車がベラルーシ駅に近づくとマーチがなりひびき、アナウンスをきくと心臓がばくばくしたものです。「乗客のみなさま、列車はわが祖国の首都、英雄都市モスクワに到着いたしました」。「活気ある、強大な、無敵をほこる/わがモスクワ、我が祖国、わが最愛の……」この歌に送られて列車を降りるのです。(p.110)

ひと月前はみんながソヴィエト人だったのに、いまではグルジア人とアブハジア人……アブハジア人とグルジア人……ロシア人に、わかれちゃった……(中略)
見た目はふつうの若者。長身で、ハンサム。彼は、自分の老いグルジア人の教師を殺した。学校で自分にグルジア語を教えたという理由で殺したのです。落第点をつけられたといって。こんなことができるものなの?(中略)
神さま、お救いください。信じやすく見さかいのない人びとを!(p.308,309)

「声と現象」著:ジャック・デリダ

さすがにしんどいので寝かせながら読んでた。

フッサールデリダが読み解くという体ではあるものの、
それは解くのではなく、
フッサールの紡いだ糸をさらに編み込んで行くような身振りでもある。

現象学的な振る舞いに基づいて還元しながらも
不可分な二重性を発掘してそこを起点にさらに全体を作り変えて行く。
すぐには飲み込めないながらも魅惑的な言葉の乱反射である。

意味が分からないのにキャッチーだなんてことが
デリダに限ってはある。
まったく憎たらしい才能である。

それと、この文庫は訳注が充実していることも付け加えておきます。

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

私は存在するのなかで、が自分自身に立ち現れること〔=現出〕は、根源的に私自身の消滅可能性へとかかわることなのである。したがって私は存在するは、根源的に、私は死すべきものだということを意味している。(p.122)(引用者が傍点強調部をイタリックにしている)

知覚の言表を理解するために、私は知覚する必要がないのと同様に、<>という語を理解するために、私は<>という対象の直感を必要としないのである。(p.215)

差延なき声エクリチュールなき声は絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる
そのときの絶対知の「彼方で」「始まる」もののために、古い記号の記憶を通して自分を探し求めている前代未聞の思想が要請される。(p.230)

「寿歌」作:北村想、演出:宮城聰

初演1979年の作品の再演である。
何を今更という感覚はあるかもしれないが、
シェイクスピアをやれるのなら大した問題でもないか。

20年以上前になるが、中学校くらいに
北村想のプロジェクト・ナビをよく観に行っていた。

大げさではったりの効いたチープさや、
朗々たる長ゼリフ、場面転換の暗がりをゆったりと動く影
それら演劇的なものすべてに魅了されていた。

久しく劇場というものから離れていたけれども、
懐かしさを恃んで名古屋に行ってみた。
(2018年3月14日昼公演)

終末の世界にゲサクとキョーコの旅芸人コンビと
行き倒れのヤスオの三人。

ヤスオはヤソ=キリストと明らかに引っ掛けている。
半裸に布の服装もなんとなくそれっぽい。
あからさますぎて脱臼させるつもりのようにも見えるが、
BGMにキリエがかかっているので、割とガチなんだろうと思う。

しかし、ヤスオ自身に聖なる奇跡は特に起きない。
ポケットにいれたモノが増える特技をもっているが
奇跡というより手品の類として消費される。

ゲサクは撃たれて蘇るし、キョーコは処女懐胎するし
そっちのほうが余程奇跡じみているが、それらは
クローズアップされない。
なぜならそれは拒否されることもないけれども
積極的に求めたものでもないからだ。
彼らは次の街に向かう以外のことに目を向けていない。

終末の世界というのは単純に世界が戦争で崩壊したというよりも
歴史の終焉にともなう意味の不毛化が反映されたものに見える。
日本の局地的な面で言えば安保闘争は終わり、バブル経済へ向かう。
世界に関わることを諦めたシニカルなシラケ世代が
現れてきた時代に本作は書かれている。

ゲサクは当然戯作のことだろうが、それが旅芸人であるというのは、
「あんまり小難しいことをおっしゃらないでください」というポーズには違いない。

実際に思わせぶりなパートよりも、旅芸人としての見世物と
「発作」としての夢遊病的チャンバラごっこのほうがボリュームはある。
(個人的にはもっと大げさにしてもらってもよかった)

ただ、それは単にシニカルであるというよりは
見世物にこそ賭けるべきものがあるというか、
そこにすでに賭けてしまったから見て行ってもらうしかねぇべよ、
という感じの開き直りなんだろうと思う。

だから、これで人生のなにかを考えたり
世界の行く末を考えるのはまぁ自由だろうけど、
単純に見世物を面白がることのほうが先なんだろうと思う。
そして、これは一種の芸術至上主義であって、
なんというかナイーブなおっさんだと相変わらず思う。

寿歌とは、しかしここまで述べてきたどこにもないものだ。
祈りと見世物の空白地帯に歌うべき歌はある。
響く伸びやかさはその振れ幅の広さに依るのかもしれない。

「『その日暮らし』の人類学」著:小川さやか

アフリカから中国への出稼ぎ市場というものがあるとは知らなかった。
文化人類学者としてどっぷり入り込みながらの
フィールドワークレポートである。

資本主義は流動性を求めていくものだが、
その極限的な姿の一つとしてこの本のキーワード「その日暮らし」はある。
もちろん、しかしこれは末端であるし、
インフォーマルな経済ですらあるのだけれど。

ただ、このインフォーマルな動きは
経済の発展によってなくなるような類のものではないのだろう。
いや、というよりはこのようなものとして発展してきたという感じがする。

無論、資本を蓄えるよりも分散させていくようなこのやり方は
メインストリームになることはないだろうが、
一方で、必ず残余として存在感を見せる動きなのだと思う。
そして、この生き方は働き方のオプションが増えて流動性が増していく
日本の中でもきっと残余としてであれ、主張を見せていく気がする。

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

トングウェ人は、集落の住民が食べられるだけの食料しか生産しないにもかかわらず、集落を訪れる客人をもてなすために、生産した食料の四十%近くも分け与えていることである。(p.42-43)

この気前のよさはある種の普遍性を持っている気がする。
それにしても、命がけのおもてなしである。

広州のアフリカ系交易人は、たとえ中国語を話すことができなくても、電卓とジェスチャーを組み合わせて中国系商人とコミュニケーションできるからだ。(中略)アフリカ系交易人が「black」と黒のタンクトップを指さし、中国人店主がそれを手渡す。交易人が品定めの後に首を横に振ると、店主は違う黒のタンクトップをみせる。(p.114)

ここの記述は割と衝撃的でした。
が、買い付けだけならなるほどそうすることもできるわな。
しかし、それでアフリカから飛び出す胆力は凄いな。

「消費大陸アジア」著:川端基夫

アジアと言っても様々な国がありそれぞれに流行り廃りがある。
本書はアジア各国へ進出した企業の成功と失敗の事例を見ながら
それをどのように捉えるかという視点を提供してくれる。

内容としては悪くないんだが、
少々、アカデミズム内の術語についての解説が
あまり発展的なかたちで展開されているとは思えないのが残念。

(正直、コンテクストかコンテキストかって
英語か仏語どっち経由で術語を持ってきたかくらいの違いでしょうよ。
英訳する時どうするつもりなんだ)

まぁでも事例自体はそれなりに多くて面白い。
しかしまぁ、持っていく相手国の研究の前に
日本で売れた時の文脈がどうなっているのかを確認して、
そこにおいて同じ強みが発揮できそうか確認というのが
一番最初の手順になるだろうなと思った。
売ろうとした時のとおりに売れることって多分半分くらいだからね。

ラマダン明けの渇きを癒す」という価値シーンの出現である。ポカリスエットの価格は他の飲料水よりも一.五倍余りするのであるが、それにもかかわらず飛ぶように売れ始めたのである。(p.35)

なかなかのパワーワードですが、
その前段階に「デング熱の脱水症状に効く」という
プロモーションで信頼を得たからこそだそうです。

「アジアではお好み焼きは難しい」という話を現地の外食産業の日本人から何度か聞いたことがある。(中略)まずお好み焼きは中身が見えにくい。(中略)その点ピザはトッピングが丸見えなので、安心感を与える。自分が好きなものがトッピングされているのか、宗教上食べてはいけないものがトッピングされているかどうかが、すぐに確認できる。(p.121)

ほー、なるほどね。