ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「日本電産永守重信が社員に言い続けた仕事の勝ち方」著:田村賢司

日本電産はこのところの日本の電機メーカーの中で
気を吐いている貴重な会社のうちのひとつだろう。

積極的にM&Aを繰り返しながら、
それぞれを再建させていって、独自の地歩を築いている。

精神論的なことを言うので、あまり信頼感は高くないのだけれど
実際に成功している以上、認めなければいけない部分はあるはずだ。
口にする精神論の中にもよいマインドセットはあるんだろう。

さて、実際に中を見ればモーレツ社員的なこともあるが
3現主義の徹底というのが永守のポイントで、それを
工場の外にも適用しているのが永守の原則であるように見える。

3現主義とは「現場、現物、現実」のことで問題に最接近するかたちで
解決を目指すような手法だ。
こうした現場主義的な発想は工場のラインから離れるほど薄れていくが
それぞれの現場にプレッシャーを常にかけるのが特徴的だ。
むしろ、現場というよりは経営幹部に示す方向性に永守らしさが現れていて
こうした指向性が再建を成功させる哲学として錬成されているのだろう。

日本電産 永守重信が社員に言い続けた仕事の勝ち方

日本電産 永守重信が社員に言い続けた仕事の勝ち方

「部下を思ったように動かせないと感じているリーダーは、自分の何気ない言動を見直して、むしろその反対をやってみるべき」(p.130)

極端に動かないと変わったと感じてもらえないことも多いし、
何より自分自身の行動を微妙にチューニングするのは割と修行がいる感じ。

毎週土曜日の朝、各社の社長の元にはそれぞれ大量のメモが集まる。それを社長たちは読んで要点をまとめ、昼頃、永守にメールする。永守は世界のグループ企業、308社から集まるそれを土曜日にすべて読みこなし、別に各地の中堅クラス以上の幹部から寄せられるメール約1000通にも目を通すという。
もちろん読みっぱなしということはなくて、日曜日は朝から週報リポートにもメールにも返事を送り始める。(p.193)

これも現場主義的な発想だろう。すさまじい。

「新・日本の階級社会」著:橋本健二

2000年に佐藤俊樹の「不平等社会日本」が出てから18年。
今の日本の社会階層についての本格的な研究の後続である。

それまでの研究にも敬意を払いながらも
独自の照射角度で「階級」の実態をあぶり出す一冊となっている。

この人たちはなぜこのように考えたり行動するのかなど
階層ごとのイメージを具体的にするような考察がしっかりなされているのが好感が持てる。
その分やや記述としてのテンポが悪くなってしまっている気はするが、
知的誠実さのあらわれと言っていいだろう。

今回の分析では、資本家、旧中間階級(自営業等)、労働階級のほかに、
雇われではあるが経営側に近い管理職集団「新中間階級」と
派遣やパートなどで不安定な職業環境にある「アンダークラス」を付け加えている。
この区分けによって現れてくる思考様式の組み合わせが
非常に興味深くしかも、実感としてわかる部分がある。

まずは現状の把握として
十分に説得的な内容となっている。
さまざまな個別の社会問題はあるが、そのどれもの前提となるだろう。

世代間移動に関する先の三つの仮説は、どれか一つが正しいというわけではない。それぞれの階級が、異なる趨勢を示しているのである。そして近年の変化についていえば、資本家階級と労働者階級は世代的な継承性を強めて固定化したのに対し、新中間階級は逆に継承性を弱め、旧中産階級には変化がなかったといっていいだろう。(p.133)

これは面白い指摘。
流動的で能力を評価しようとする労働市場の中で
新中間階級は自由市場に近づいているのだろう。

二○一五年SSM調査データから、有配偶女性の収入と夫の収入との大小関係をみると、夫より収入が多いケースはわずか六.○%、夫と収入が等しいケースが七.八%で、八六.二%は夫より収入が少なく、しかも六八.八%までが収入が夫の半分以下だった。(p.155)

こうして言われるとなんというアンバランスだろうかと思う。
階層の問題も大きいが男女間のアンバランスを是正する必要性もかなり高い。
とりあえず税と社会保障の一体改革をとっととするのだ。

平等への要求と平和への要求は、新中間階級、パート主婦、旧中間階級では結びついており、また平等への要求と多文化主義は、資本家階級と新中間階級で強く結びついている。しかし両者がともに強く結びついているのは新中間階級だけであり、とくにアンダークラスでは、平等への要求が排外主義と強く結びついてしまっているのである。(p.241)

それぞれの階級ごとでの思想に関する相関が違うという指摘。
これはたとえば新中間階級が平和主義者が多いとかいう話ではなくて
相関なので新中間階級では「平等を求めないものは多文化主義ではない」傾向とかそういうこと。
逆にアンダークラスでは「平等を求めるなら多文化主義ではない」傾向がある。

アンダークラスが排外主義に直結しているわけではないが、
非常に厄介な結びつきであるのは間違いない。
この階層が現在進行形で増えているということは、
社会の大きな地殻変動につながる可能性があるだろう。

「政治神学」著:カールシュミット 訳:田中浩・原田武雄

シュミットは1888年〜1985年のドイツの法哲学者である。(wiki調べ)
そして前書きによると1922年に第1版が上梓され、12年後に改訂版を出版したとのこと。

世界史に詳しくないのであまり突っ込みたくはないけれど
この時期のドイツというのは相当な動揺期であったのは間違いがない。

まずは簡単な本書の評価を済ませておく。
後半に引用と合わせていつもよりは多めに講評をしたい。

決断主義」というのは非常に勇ましくロマンチックではある。
ロマンチックなうえに、この人はだいぶ感傷的な味つけをしている。
一言で言えばヒロイック。

しかしながら、ヒロイックであれば否定されるということでは
それも論理の体をなしていないわけで、
シュミットはそこへとつながる道筋はきっちりと作ってはいた。
ただ、その道は君主制アナーキストというガードレールで挟み込んだ道であって
非常に消極的に見える(だからこそヒロイックなんだが)。

消極的に最悪の選択を成し得るということはよくよく考えなくてはいけない。
今も世界的に民主主義は動揺しており、その時にどのような視点を取るべきか
見返すべき分岐点を示す本だと思う。

政治神学

政治神学

主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。(p.11)

まずこのような定義をしたうえで、例外状況に集中することで
法的枠組みの外側に源泉をもってくる。これを言い直したのが

現行法を廃棄する権限が、まさに主権の本来の識別徴標(p.15-16)

ということだが、ここにおいて緊急性は脱臭されている。
単純に法を凌駕する主権のイメージが強調される。

「法が権威を付与する」とロックはいう。かれはここで、法律という語を、意識的に、commissioすなわち君主の個人的命令との対置において用いているのである。(p.45)

この定式を紹介しておいて、

「真理がではなく、権威が法を作る」(『リヴァイアサン』第二六章)という対置の古典的定式をみいだしたのが、かれ(引用者注:ホッブス)であって、(中略)権威対真理という対置は、多数ではなくして権威、というシュタールの対置よりも、根源的でありかつ明確である。(p.46)

それを逆転させてみせる。
ただこれはそもそもどの時点の話かという点が違うのだが、
そのことについてもそもそも「例外状況」の話を中心にしてるんだから
意味ないよねって突っぱねる形にはなるんだろう。

例外状況は、法律学にとって、神学にとっての奇跡と類似の意味をもつ。(p.49)

最後に政治神学というコンセプトの説明に入るわけだが、
これとセットになっているのが「主権者」であり、
これが神学ならば「神」であるということ。
これによって決断主義の無謬性を結果以前に担保しようとしている。

すべて主権は、無過失であるかのようにふるまい、すべて統治は絶対である。ーーこの命題は、無政府主義者だって、まったく別の意図からではあっても、一語一句同じ発言をしかねないものである。(p.72)

そしてこれは別の角度でもそのように確かに見えるのだという風に告げる。
しかし、なんというか「敵の似姿」というフレーズが浮かぶ。

かれらは、決定という契機を強調するあまり、この契機が、結局は、かれらの出発点でもあった正統性の思想を廃棄するまでになる。君主制の時代は終わった。なぜなら王はもはや存在しないし、まただれひとり、民衆の意思による以外に王となる勇気をもつ者がいないであろうから、とドノソ・コルテスが見抜いたとたんに、かれは、みずからの決定論に終止符を打った。すなわち、かれは政治的独裁を願ったのである。(p.86)

ここの結論はもはや願望の推定である。
理解は可能ではある。しかし、どのように法が成立したかということと
成立過程がそのまま発展をせずに選択肢を限定するだけになるということは
まったく関係のない話だ。

どのように在りうるかを語る中で、存立過程以上に人の願いを救いだすことは可能なはずだ。
人が善であって欲しかったと願ったであろうコルテスの
絶望の裏側に触れずに結論づけることもなかったはずなんだ。

「なんで、その価格で売れちゃうの?」著:永井孝尚

値決めは経営とは稲盛さんの言葉ですけど、
もっとも戦略的に決定されるべきものだというのは本当に間違いのない話です。

この本はそうした値決めに関わる視点を
事例を多く出しながら説明してくれます。
ただ新書という形態もあるとは思いますが、考え方の紹介にとどまっていて
なぜその価格にしたのかというプロセスと基準はそれほど詳しくないです。

どのような選択肢があるかを押さえる分にはいいけど
あまり実践的ではないかな。

高ければいいという訳でもないし、
安ければいいという訳でもない。奥の深い話ではありますが
シンプルに2つの関係で考えるのがベストだろうね。

つまるところ「何を」「誰に」売るのか。
この時の「何を」と「誰に」をどれだけ精度の高いものにできるかが
価格決定に入る前の大事なプロセスだろう。
たとえばヤナセの「クルマはつくらない、クルマのある人生をつくっている」なんかは
「何を」売ってるかを明確に意識したコピーで、こうしたものが価格を導いている。

あと、さらに個人的な見解になりますが
個人の範囲でする仕事はスケールメリットが働かないので
基本高い商品としての振る舞いをするのがよいです。
職人のようにオーダーを聞くにしても、独創性を発揮するにしても
いずれにせよ一品モノ的性格があればそれは常にプレミアムになるはずなんで
プレミアムを恐れない値付けが大事です。

コスト削減をせずに値下げ勝負を仕掛けると、現場では何が起こるか?従業員には、「とにかく頑張れ」「サービス残業で乗り切れ」と発破をかける。
取引先には、「仕入れ代金を下げてくれ」と無理をお願いするようになる。
赤字覚悟で、特売セールする。そして安さ目当てのお客さんだけが集まってくる。(中略)
コスト削減なき値下げは、まさに「麻薬だ」。(p.65-66)

長い引用ですが、なんというかデカデカと張り出したい。

『「税務判例」を読もう!』著:木山泰嗣

ビジネスの世界が色々と変われば
それにつれて法律も変わり、判例も新しいものが増えていきます。
一応、いざという時に備えて、斜め読みくらいできたらなと思ってトライ。

パターンと法的思考の原則を教えてくれる本として仕上がっています。
初学者でも分かるように丁寧に用語解説をしてくれます。
実務家が隙間を縫って、
判例を読めるようになる最低限の知識道具一式はこれで揃います。多分。

ただ、帯に「具体的な判例」を通じて、とあるのに偽りはないのですが、
その具体性の掘り下げとかを期待してはいけません。
釣りの仕方は教えるけど、魚の味は問題にしてないので。
(魚拓程度の解説はついてますが)

そういうわけで、ちょっと味気ないっちゃ味気ない。
ま、実用かつ勉強用の本なので、そこを期待するのは贅沢ですが。

「税務判例」を読もう! ―判決文から身につくプロの法律文章読解力

「税務判例」を読もう! ―判決文から身につくプロの法律文章読解力

裁判所はあくまで判決主文を導くために直接必要な理由についてのみ検討すればよい、と考えられているのです。このことはシンプルでありますが、きわめて重要な考え方です。(p.52)

その重要なポイントが「争点」としてまとめられていると。

判決書を読むときにも、どこまでが「法解釈」であり、どこからが「事実認定」なのかをハッキリと意識する必要があるのです。
結論を出す際には、「大前提」(法解釈によって導かれた法規範)に「小前提」(事実認定によって導かれた事実)を「あてはめる」という作業が行われます。

日常的にも意識したらいいと思うけども、
判例の中では必ず意識してそう書かれているということですね。

「蠅の王」著:W・ゴールディング

無人島に不時着した少年たちの
サバイバル・サスペンスといった趣。

バトルロイヤルものの原型としての
形式的が感じられてそれ自体興味深くもある。
あからさまに敵対しそうなやつがきっちり敵対して、
あわれな犠牲者は最初の予感に違わずおまえなのか、と言った具合。

そういうエンタメの側面以外にこれは
文学的装いとしての「蠅の王」の登場シーンもある。
ただ、これはだいぶ意表をつかれた。
エンタメ的な読み方をしてしまうから本線からずれたように
つい感じてしまうが、もっとシンプルに寓意的に読んで構わないんだろう。

だから、決着のつき方も唐突な感じを否めないが
それ自体決着の着く必要のない問題だったのだ。
ピギーの扱いが割とひどいのも
寓意的には、やむを得ないんだろう。
そういう割切りこそが近代的残酷さな気もしますが。

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

ラルフがなおもほら貝を吹きつづけると、森のなかで何人もの少年の叫び声があがった。台地にあがってきた少年は、ラルフの前でしゃがみ、明るい表情でラルフを垂直に見あげた。(p.26)

最初はこんな無邪気な感じだったのに、ねぇ。

服はすり切れ、ラルフのものと同じように汗でこわばっており、まだそれを着ているのは体裁のためでも快適さのためでもなく、ただの習慣にすぎない。体の皮膚は塩をふいて、ふけがたまったようにーー
いまはもうこの状態を普通だと思っている。それに気づくとラルフはちょっとげんなりした。(p.191-192)

島のサバイバルの描写は実はそれほど詳しくないが、
彼らの人間性についてはこのような感じでリアルに分かる。
いや、仕事に疲れててもこんな感じの人間性の低下ってあるよね、怖い怖い。

「その姿の消し方」著:堀江敏幸

言わずと知れた文学ジャンキーの堀江くんです。
文学の在りように対して向き合おうとする姿勢はザ純文学でしょう。

今回は偶然目にした絵はがきの詩篇から
フランスで物語が動きます。
詩は何度も読み返すものですから、
その度ごとにニュアンスを変えた読みを見せます。
そこには教師のような身振りすら感じますが、窮屈な訳でもなく詩の枠外の話も多い。

それは単に息抜きとして用意された小窓ではなくて
詩が生まれるべき土壌、または生かされる空としての
人々の生活の話だ。

特に今回は語り手の揺らぎが著者にしては珍しく
今までにない、人間への視線を感じる。
文学のための人間でも、ただの生きる人間でもなく
文学と不可分ではありえない生き様への誇りのような。

絵はがきの頼りない解釈を繰り返しながら
ヨーロッパを放浪している主人公は
肝心の真相にはついぞ辿り着かない。
そもそも辿り着くべき場所などあったわけでもない。

その間、多くの人と交わされた無数の言葉があったことだけが確かだ。
それは血の通った歴史であり、その人々の誇りに他ならない。


その姿の消し方 (新潮文庫)

その姿の消し方 (新潮文庫)

あの人がフランスに来たのは仕事のためじゃない、ルルドにお参りをするためさ、奇跡を起こしてくださいってね、ムッシューはやれるだけのことをやろうとしてる、ホテルの予約は明日までだ、なんとか我慢して目が見えるようになることを祈ってほしい(p.61)

やれるだけのことをやろうとしている、ということの中に
宗教的な行為が含まれるのは、僕の語彙の中にもたしかにさっと入ってこないけれど
言われれば頷くしかないだろう。
この後の、パーティーでの軽やかさは尚更、
それが自然な語彙の中で行われていることを感じさせる。

なんというか、年を取ってみると、この座礁鯨の気持ちが前よりも理解できるように思いまして。ほほう。いるべきではないところにいるような、知らない間に、どこか自分にはふさわしくない土地に運ばれて来てしまったような、そんな気持ちなんです。(中略)息を整えた彼女はじっと私を見つめて、それはちがうね、と言下に否定した。あんたの背丈はせいぜいイルカの子どもくらいのものだ、その絵はがきの鯨は一〇メートルはあるだろう、あたしらみたいに小さな者は、浜に着くまえになにかに食べられちまうさ、座礁の心配なんていらないね。(p.163)

解釈が繰り返し上書きされる、ということの
コンパクトなバージョン。
しかし、こうやって書くと、会話文はかなり独特な間合いを作っていて
それがこの作品のテンポ感を出しているんだろう。