『トリエステの亡霊』著:ジョーゼフ・ケアリー 訳:鈴木昭裕
須賀敦子の「トリエステの坂道」以外にこの場所について何も知らなかった。
須賀の作品では詩人のサーバがいた、というくらいしか覚えがなかったのだが、
「サーバ、ジョイス、ズヴェーヴォ」というサブタイトルの並びでなんとなく手に取った。
今なら聖地巡礼と言っていいような内容。
いや、聖地巡礼は作品で描かれた場所をめぐることをメインにするが
ここでは、むしろ作家たちがここで考えをめぐらし
インクを引っ掻き回していたということのほうにフォーカスがある。
サブタイトルの三人は1905年から1915年の間にこの都市にいた。
筆者はその足跡を追おうと、トリエステの街を歩き回る。
しかし、それほど報われたようには思えない。
そもそも何をしたら、巡礼は報われたことになるのだろう?
視線は現在から歴史へと向かう。
トリエステという地中海の小さな港町は支配者が入れ替わりながらも
その中でしたたかに、生き延びてきた。
その歴史を示す建築や美術品など図版も美しいが、象徴的なのは地図だ。
地図の枠外には飾りが凝らされ、その時ごとの街への願いが顕れる。
通りの名前は書き換えられ、付け足される。なかったモニュメントが書き込まれある時は消え去る。
地図は場所と場所をつなぐ。
著者の試みは初めから徒労に終わる運命だった。
時間を逆向きに歩くことはできないのだから。
しかし、地図を確かに描いたというささやかな満足感で終わっているように思う。
ひたすらな愛に、オタク的シンパシーを感じる。
- 作者:ジョーゼフ・ケアリー
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2017/02/11
- メディア: 単行本
ラウラ・ルアーロ・ロゼーりの『トリエステ案内』は、五百ページを超す、でっぷりとしたみごとなできばえの「ポケット」ガイドだ。(中略)何かをするときには、たいがい彼女のアドヴァイスに従った。路上で読み、食事中に読み、ベッドの上で読みふけった。(p.32)
現地に来て、ポケットガイドに従うなんていうのは、
軟弱さでもあるように思うけれど、やはり僕も目を通すだろう。
敬意を示すための従順さというか。このざっくりした小市民感がチャーミングだ。
『会議 〜 チームで考える「アイデア会議」 〜』著:加藤昌治
アイデア出し会議というのは定型化しにくいものであり、
それゆえに価値の高い工程になりやすい。
著者は博報堂の社員として実際にこうしたアイデアを手掛けていた人で
ここに書かれているものはどれも分かりやすく
行動に移しやすいものが多く選ばれている。
ただし、徹底しようと思うとそれなりに訓練は必要だろう。
なにせ「いかに数を出すか」は大前提のものとしてある。
プロでも「打率は0.5割」とのことで、
くだらないものを量産するなかにポロッといいものがある、らしいのだが
それならやはり最低でも50〜100は考えないと足りないだろう。
もちろん、それを補うのが「チームで考えるアイデア会議」なのだから
全員で100案あれば素人でも何かしら見えてくるものがあるだろう。
この本は会議の本なので、アイデアの出しかたよりは
アイデア会議におけるルールとチーム内での役割の種類などが示されている。
何かのプロジェクトの卵の段階でしかこの会議はありえないし、
実施する回数は一般の会社では少ないかもしれない。
それだけに大事にしたいアイデア会議。
これを活かすも殺すもその特殊さを共有できるかにかかっている。
- 作者:加藤昌治
- 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
- 発売日: 2017/03/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
アイデア会議では、発言者が社長であろうと誰であろうと、ダメなアイデアはダメ。純粋にアイデア至上主義であるべきです。(p.74)
そのための方策として「ホワイトボード」や「紙」に書くことで発言者とアイデアを物理的に切り離す。シンプルだがとても効果的。
あえて課題をアヤフヤにして「なんでもいい、レベルは問わず」と問い掛けてしまうのは、相当高度な大技であることを知っておいてください。プランナー側にすると「何でもいいから」っていわれるのが一番いやなものなんです。(p.129)
「何食べたい?」「なんでもいーよ」はNGつーことですね。
「チョンキョンマンションのボスは知っている」著:小川さやか
中国は重慶、香港そこにアフリカ人のコミュニティ
があるというだけで興味はそそられる。
とりわけ、アフリカのイメージというのは茫漠としているし、
帯にはタンザニアと書いてあるが、
タンザニアがアフリカのどのあたりかというのも分かっていなかったりする。
しかし、人類学とはサファリパークのように
車内に閉じこもってジープで移動するわけではない。
無論、むやみに飛び込むわけでもなく、
むしろ、その当該の当事者であれば振る舞うようなやり方で
コミュニティに入っていく。
不真面目なようで、出たとこ勝負のようで、
それでも確信を持ってルーズに渡り合う彼らの生活は面白く、
それに翻弄されながらも、やられっぱなしにならない著者のタフさも読んでいて楽しい。
また、そのインフォーマルなコミュニティに接続する
ウェブプラットフォームとそのビジネスのあり方も興味深い。
整備されていない流通路ほど商いが立ち上がるというのは
古今東西変わらないものだとも思う。
人類学とサブタイトルに入っているが、読み物として十分に楽しい。
それは著者の対象との距離感が常に適切で、
フラットに愉快な友人を紹介するような感覚を受けるからかもしれない。
チョンキンマンションのボスは知っている: アングラ経済の人類学
- 作者:小川 さやか
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2019/07/24
- メディア: 単行本
彼らは、「信用するな」と言いながらも、偶然に出会った得体の知れない若者を気軽に部屋に泊める。「信用するな」と私に忠告する相手と食事をおごりあい、カネを貸しあい、時には別の次元で「彼/彼女は信用できるやつだ」とも「信じていたのに裏切られた」とも言う。
(p.51)
これは裏でヒソヒソやってるという話ではなくて、
人のつながりを信用ならない相手でも築こうとするオプティミスティックな性向があらわれてる。
香港の不安定な身分、ひとたび成功を掴んでもちょっとした不運や油断でジェットコースターのように転がり落ちる暮らしは、目的地に至る旅の過程だという思い込みに、すぐに私は囚われてしまう。だが、日々の営み自体に実現すべき楽しみが埋め込まれていれば、一生を旅したまま終えても、本当はかまわないのだ。(p.227)
旅に終わりを求めるかどうか、それは好みだ。
しかし、誰もが同じような旅をするわけではないことを忘れてしまいがちだ。
「密林の語り部」著:バルガス=リョサ 訳:西村英一郎
ペルーのある部族にまつわる伝承を
現代の都市部の人間が語る二重の語りの構造が特徴的な物語だ。
考えようによっては「語り部」の伝承であるから
三重になっているとも言えるかもしれない。
南米の物語と言えばマジックリアリズムのようなものを期待するが、
それは「」に閉じこめられて、むしろ採集される存在として冷静に見つめられる。
言葉を変え、コンテクストを変え、物語は語り直されていく。
非常に重層的な物語だが、筆致は安定していて
ただ肥沃であるというよりも、レポートであるような姿勢を崩さない。
正直、一回の通読では読みきれた感覚はないのだけれど、
とてもよい真摯なものを読んだという気分はある。
語り尽くすことが、語ることの目的のすべてでもないのと同様に
読み尽くすことが、読むことのすべてではない。
- 作者: バルガス=リョサ,西村英一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/10/15
- メディア: 文庫
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《私たちと違って、語り部のいない人々の生活はどんなにみすぼらしいものだろう》と、彼は考えに耽った。《君が話してくれるから、まるで、同じことが何度でも起こるようだよ》(p.85-86)
一度起こったことは、また起こるのだろうか?薬草に詳しいタスリンチはうなずいた。《それはどれかの世界にある。そして、魂のように戻ってくる。たぶん、二度、三度と同じことが繰り返されるのは、私たちに責任があるんだ》と、タスリンチは言った。だから、分別を忘れず、記憶をまどろませてはならない。(p.193)
そのときまで、あなたたちすべてが知っていることを理解できなかった。違う形をして生まれてきた子供を、動物の親は殺すということを。(p.320)
語り部の末裔はここでいう完全なものではなかった。
街から姿を消し、しかし、語り続けるものとして語り継がれる。
「HOSONO百景」 著:細野晴臣
はっぴいえんど、YMOのメンバーであり、
ソロとしても幅の広い活動を見せる細野のエッセイである。
坂本も似たようなところがあるが、
音楽に対する博物学的な好奇心が強い。
つまり、ある土地の、ある時代の音を求める。
坂本とのスタンスはその距離感か。
細野は教授ではない。
彼は異国の祭りを享楽する旅人である、
という前提で本書は描かれている。
彼が旅をしてきた音楽的領野を紹介するために
エピソードごとにアルバムが紹介されている。
それほど強い脈絡はないし、系統だってもいない。
こうしたスナップ写真は見るだけでも楽しい。
それは撮っている人間が楽しんでいるからだ。
ただ、この本はインタビュー記事も挟まれていて
実のところ「旅人」として演出する意向が強く出てる。
けども、そうやって触れてきた音楽を自家薬籠中のものとする
彼の姿勢を旅人とくくるには、浸かり方が凡百とは違う気がしてしまう。
それぞれの街の敷居をまたいでくつろいでいる
まれびととして酒を酌み交わしているイメージが近い。
こういう人の話は大抵おもしろいものだよね。
- 作者: 細野晴臣,中矢俊一郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2017/09/06
- メディア: 文庫
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実は若い頃に植物ノイローゼになったことがある。木を見ただけで「なんだ、この緑の塊は!」と(笑)。侵食されそうな気がして怖かったんだ。(p.40)
この若い頃のエピソードは環境の異化効果を存分に浴びているけど、
この恐怖自体を忘れてないのは、侵食そのものを恐れなくなったからではないかと思う。
七八年に横尾(忠則)さんと初めてインドに行ったとき、ヒドい下痢になって旅の八割方は横たわっていたんだけれど、それはオールドデリーのわけのわからない雑踏の中を歩いたのが発端なんだよね。(中略)でも、あるとき、ふと空を見上げたら、昼間の月が目に入ってね。なんだかホッとしたんだ。異国の中に紛れ込んでいるのに、月は東京で見るものと同じだった。つまり、月が非現実と現実の接点のように思えたんだね。(p.191)
なんというか、分かりやすいようでいて、
「非現実と現実」の境界のトビラが思いのほか近くて
そこに細野のパーソナリティと良さがあるように思う。
「ギケイキ 千年の流転」著:町田康
ギケイキとは義経記、源義経のお話ですね。
今回読んだのは最初の巻でまだ続きがあるようでしたが
会話のテンポもよく、楽しめました。
町田康らしいめちゃくちゃさが、
当時の野武士たちのイメージとこれほど親和性が高いとは。
というか、町田康は野武士なのかもしれない。
橋本治が源氏物語を「桃尻語訳」した試みを彷彿とさせるが、
これは翻訳したというものではない。
そうではなくて、ただひたすら、
今、書き起こした物語としてここに成立させている。
それは物語を読み易く、わかりやすくするなどということを越えている。
読者を連れ回そうという企みだし、ジェットコースターの安全バーだ。
(あれをかけられると逃げられない、という緊張がかえって出てくるのは僕だけ?)
日本全国津々浦々をめぐる義経の行動力に、
それを現在の行政単位で教えてくれる町田の目論見に、
場所と時間をぶんぶん振り回されましょう。
- 作者: 町田康
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2018/06/06
- メディア: 文庫
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「恐ろしい人ですよ、安倍権守ちいまして、はっきり言ってもう無茶苦茶でしたからね。肩から泥が湧き出たり、目から犬、出したりね。頭の中に餅や小判を大量に詰め込んでいましたよ。誰も逆らえない」
「意味わかんないですよ」(p.33)
多分どこかに書いてあったエピソードなんだろうけど、
面白がって紹介するくせに、一言で切り捨てる。町田康っぽい。
四分の一早業くらいにすれば尻が割れて死んだ奴のうち何人かは助かったのかもしれない。けれども的を殲滅するための戦闘なのでそれは仕方がなかった。
私はステルス戦闘機のような大将軍だった。頼朝さんは無人機のような大将軍だったのだろうか。(p.382)
無茶苦茶なスピードについてこれないという描写そのものは
現実離れしているものの、この思考回路自体はとてもリアリスティックであって
町田はこういうところがしっかりしてると思う。
「ラインズ」著:ティム・インゴルド 訳:工藤晋
楽しく、発見に満ちた本であると思う。
線の文化史ということだが、多種多様なラインが紹介されている。
地図のライン、建築のライン、物語のストーリーライン、裁縫のライン、旋律のラインなどなど。
洋の東西を問わずに並べられていくが、
手振り身振りそのものであるラインとそれらの記録であり、
身振りを呼び出すための設計図は意識的に区分される。
ただ、これは理念的な区分であって、
同時に双方のものであることはふつうに起こりうる。
むしろ、これらが移ろうからこそ、記述そのものにも意味がある。
(それにしても、この著者はそういう操作概念をためらいなく2項で作るが
どれもMECEなものとはかけ離れていて、いっそすがすがしい)
また、線の話をしながら立ち現れていく面の話は
人がそれらを「扱う」ということの可能性そのものなのだと思う。
線のままではおそらく人は触れることもままならない。
多くのストーリーラインが混線している現代にあって
それが刺々しい突起を持つのは避けられないかもしれない。
しかしラインは終わらない。伸びていく。
その先にゆるやかな広場を持てますように。
- 作者: ティム・インゴルド,工藤晋
- 出版社/メーカー: 左右社
- 発売日: 2014/05/21
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筋を追うことは、地図をもって後悔することに似ている。しかし地図からは記憶が消し去られている。旅人たちの旅の記録と彼らが持ち帰った知識がなかったら、地図をつくることは不可能だったであろう。ところが出来上がった地図自体は彼らの旅の証言を留めていない。(p.52)
これ自体は正しい。そして貧しさをイメージさせるところはあるが、むしろ読み手の旅への余白を残してくれたと見ることもできる。地図を見て脳内旅行など誰しもしたことはあるだろう。
オロチョン族にとって、生が終わるべきものではないように、物語も終わるべきものではない。物語は、鞍に乗った人とトナカイが一体となって森を貫く道を縫うように進む限り、続いていく。(p.146)
他にも物語に終わりはないのだという部族のあり方はいくつか例があるが、
この点はギリシャ哲学が、特異なものとして思想史に存在する理由でもあるだろう。