ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『アタリ文明論講義』著:ジャック・アタリ 訳:林昌宏

ちょっとタイトルとの齟齬がよろしくない。

文明論についての話ではなくて、
未来予測の意義と方法論を説くものだと読んだ。

そういうものとして読めば別に良いのだけれど
文明についての、ここの評価はないし、
未来予測を使って文明を考えるというようなこともない。

サブタイトルに「未来は予測できるか」とあり
原著もこのタイトルであったようだから、
こちらにしてくれればよかった。

ただ未来について語る、という視点に立って
古代の占い、天気予報、金融工学と辿っていくような整理は
それ自体楽しいものだ。

未来を予測するための方法として紹介されているやり方は
地味ながら、これしかないとも思えるものなので
参考になるところはあるのではないだろうか。

さまざまな未来の発生確率に対して正規分布を用いると、極端な出来事の発生確率は過小評価されてしまう。(p.143)

株価の変動に対する評価に対する話だ。
確かに外れ値を外れ値として処理するのは簡単だが、
それこそ人の期待が組み込まれた現象の評価は安定しにくくなる
真っ当な理由があるように思える。

今日、自分の未来を予測できない、あるいは予測したくない人は、将来の惨事に対する覚悟が必要だ。月並みな例をいくつか挙げると、彼らは、退職後の準備ができていない、返済の見込みのない借金で暮らしている、自分の行動が環境や他者におよぼす影響を無視する。そのようなことをすればどうなるのかわかっていても、彼らはそうした不都合を無視する。(p.24-25)

かなり脅迫めいた言い回しである。
これはアタリがあれやこれや聞かれて、
「こいつら自分で考える気ないんじゃね?このままだと滅亡するんじゃね?」
と思ってきたことの蓄積でないかと思うんだが、どうだろう。

一人ひとりの未来は一人ひとりが予測しながら対応しなくてはならない。
それは許されているし、そうすることは倫理的ですらある。

『1兆ドルコーチ』著:エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アランイーグル 訳:櫻井祐子

ビジネス書と評伝のあいのこのような本だ。

しかし、この書き方になったのは
このビルという「コーチ」が行動そのものよりも
人格に特徴があるということを意識してのことかもしれない。

それは余計に原理原則というような
無機質なものに抽出することもできただろうけれど
それでは伝わらないと思ったということだと思う。

シリコンバレーの名だたる創業者たちに
コーチをしながら渡り歩くなんていうのはどこか
古代中国に現れた賢者のようでもある。

ただ、ビルの表しかたはとても脂ぎっていて
いかにもアメリカンな感じだ。
アメフトのコーチだったという経歴もあるしね。

たぶん、このコーチの仕事は文化ごとに
違う表出のされ方があるはずだと思う。
いかにチームにフォーカスできるかの一つの実践例として読むのがいいだろう。

完全に余談だけれど、
アップル社のソフト、クラリスをめぐるごたごたは
ちょうど僕が一番熱心にMacfanとかを読んでた時だったので
当時を思い出して懐かしかった。

その辺の変遷もなかなかドラマティックで面白いと思う。

次の高みを目指す人たちにとって、個人的な目標を、チームを成功させるという目標と並行して、または優先して追求したい誘惑には相当なものがある。(中略)一方で、個人より集団の業績を優先する人たちのチームは、そうでないチームに比べ、一般にパフォーマンスが高い。したがって、そうした「ライバルたちからなるチーム」をコミュニティに変え、足並みをそろえて共通の目標に向かわせることが重要になる。(p.50-51)

主題になるのはこのあたりだろう。
ただ、コミュニティといってもビジネス上の課題を追求するコミュニティであることは
はっきりしていて、そこら辺のやり方が
間違いなく構成員の出身文化に影響されるだろう。

『モードの迷宮』著:鷲田清一

これはファッション誌「マリ・クレール」に掲載されたコラムを集めた小論集だが、
そのスタイルは襞の入り組んだ陰影に着目する彼にはちょうど良いかもしれない。

境界は動きとともにある。
完全に固定化された境界はただの図像であり、写真だ。
哲学者の鷲田が境界にこだわるのはそれが自我を包んでいると確信しているからだ。

境界は接点でもある。
鷲田は境界の揺らめきことに誘惑の匂いを嗅ぎつける。
誘惑とは、わたしたちの存在に対する可能性であり、
肯定する熱量の源泉であるように思う。

鷲田の美点はその
人間的な肯定の源泉を信じて掘る代わりに
人間そのものにフォーカスしないところだ。

空虚な人間概念を弄ぶことを避けて
衣服と視線そのものを見つめ続ける。
セクシーでも過剰さのない文体は女性誌に求められた男の視線であったかもしれない。

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

コルセットも靴も、わたしたちの身体的動作を拘束し、制限しようという共通のポリシーで貫かれている。しかし何と言っても、わたしたちはじっと動かないでいるわけにはいかない。歩かないわけにもいかない。そこで、こうした拘束を旨とする衣料品に適合した別の身のこなし方、身体の別の使用法といったものが編みだされることになる。(p.50)

この観察から

ファッションの構造は、<自然>の<文化>への変換、あるいは<文化>への変換、あるいは<文化>の生成そのものと関わっている。(中略)何かを禁じ、抹消してゆく運動が、そのまま、禁じられ、抹消されるはずのものを喚起し、煽りたててしまうという、ファッションのパラドクシカルな運動を切開するための切り口もまた、ここに見いだすことができるとおもわれる。(p.54)

このような帰結が導かれてはいるが、そもそものこの話のアイデアの中核はこちらであろう。

自由を禁じることに対する風当たりは強くなっているが、
これが文化に対する自然の朝鮮などではないことは明らかで別個の文化が戦っている。

ただし、基本的にはプラグマティズムによる反撃に過ぎない。
新しい衣服にあった動きを作るときに新しい文化のひらめく瞬間があり
そこで初めて別の現れをもたらすチャンスがあるということだ。

ヒールを履かないキャビンアテンダント
しかし、制服をきちっと着ながら
マスクをミシン縫いしている姿でニュースに現れる。

『技術の街道をゆく』著:畑村洋太郎

書名のとおり、技術の現場を巡りながら
技術がいかにして受け継がれ、かつ変容してきたかということを見せてくれるエッセイだ。

ただ、正直に言うと話のネタはそれぞれ面白いのだが
本の全体の方向性はあまりうまく作れなかったのではないだろうか。
おそらく最終章の「思考の展開法」がひとつの解答のようにしたかったはずだが
それより多くのものを事例が示していると思うので、
ここは別の本も出していることだから、あえて書かなくてよかった。

筆致は非常に饒舌であるから、編集者はそれに負けてしまったのだろう。
著者の責任よりは僕は編集者の責任と思う。

しかし、取材はしっかりどの場合も現場に赴いたうえでの考察であり、
技術者としての視点は確かなものがあるし、好奇心の広さと鋭さもよい。
もう少し範囲をしぼってこの人が探求したものがあれば面白いのではないか。

技術の街道をゆく (岩波新書)

技術の街道をゆく (岩波新書)

たたら製鉄の反応速度は遅く、現代製鉄の反応速度は速い。現代製鉄が短時間に大量の銑鉄を作れるのは、この反応速度の速さによる。しかし、高温のためにリンやケイ素などが不純物として混ざってしまう。それを第2段階のプロセスである転炉で取り除き、鋼に変えるのである。ただし、完全に取り除くことはできない。成分量で見ると、たたら製鉄による鋼と比べて不純物が1ケタ多い。(p.38)

ほほう。というところだが、このたたら製鉄は一度完全に立ち消えたものを改めて立ち上げたとのことで、著者がこのように取り上げることはその立ち上がった火を残すことに貢献するだろう。

地元の消防団の人は「電気が来ないと閉められないような扉ではいけないのです」と話してくれた。まずは人力、もしもの時は駆動装置の力を借りて閉める。駆動装置は電動ではなくガソリン駆動であった。電気をむやみに信用してはいけないと指摘されて、ハッとしたことを今でも覚えている。(p.58)

岩手県宮古市の田老の防潮扉についての記述であり、先のセリフは大震災の前であった。
誰かを助けた様々な仕組みや知恵は確かにあったのだ。
足りなかったかもしれないが、何もなかったなどということは当然なかった。

『ケンブリッジ・サーカス』著:柴田元幸

言わずと知れた英米文学翻訳者の柴田さんである。
旅のエッセイなどと帯に書いてあるけれど、しかし旅にしては未知のものが少なすぎる。
これは彼の仕事場の通勤物語だろう。

とはいえ、人の仕事場はいつも企業秘密とやらで
なかなか見えるものではないから、それ自体興味深い。

さすがに歴戦の翻訳者であるから文体はなめらかで読みやすい。
その引っ掛かりの薄さが、未知より既知につながってしまうのかもしれないが。

この中でのハイライトはオースターとの対話にあるように思う。
ここのテキストの導き方は彼の仕事の作法ではないかと思える。
よい聴き手であるのは、今までとても多くの声を聴いてきたしるしだと思う。

大きな声の人に疲れたら開くのにちょうどいい。
「やれやれだ」と思った日の寝る前でもいいかもしれない。

ケンブリッジ・サーカス (SWITCH LIBRARY)

ケンブリッジ・サーカス (SWITCH LIBRARY)

ちゃんと段取りを踏めば、亡霊に出会えるはずだという気さえしてきた。そのことを想像してみると、出会うのは亡霊だけではないだろうということが僕にはわかった。(p.21)

この本は亡霊についての本でもあるけれど、
文学についての本ということを別様に言ったのだとも言えるし、
もう少しそこからにじんだ部分まで含んでいるかな。

ここはダウンタウンにある文学カフェの二階。みんなビールを飲んだり軽食を食べたりしながら作家たちの朗読を聴いている。今夜はマラソン朗読会と称して、いろんな作家が入れ替わり立ち替わり出てきて自作を朗読する。日本のトークショーみたいに、拍手に迎えられて舞台裏から出てくる、なんて大げさなことはやらず、隣でビールを飲んでいた人が「じゃあ次アタシね」という感じですっと立ってマイクに向かう。この調子で行くと、実は客のほとんどみんなが出演者じゃないだろうか。最後まで行って、朗読しなかったのは僕だけであることが判明し、「あれ?お前まだ読んでないの?」とじわじわ詰め寄られて、なぶられ、撲殺されるのでは……と妄想がふくらむ。(p.83)

どこから妄想か分からないという書き方も全編にまき散らされている。
それはともかく、こういうカフェが成り立つんならやってみたい気もしないでもないね。

「ヴォイニッチホテル」著:道満晴明

短編を主戦場とする著者の珍しい3巻にわたる長編。

設定の盛り込み密度は常にマシマシ。
包むつもりもない風呂敷で
人が楽しくホラ話をする感覚だと、こんなものかもしれない。
(チャック=ノリスの挿話なんて特に必要だったろうか?)

孤島にあるホテルを舞台にした
傷のある人々の愛と執着の群像ラブコメと、言っていいかな。
別にドロドロした駆け引きなんてのはほぼないので、
ブコメ部分はむしろかなり微笑ましい。

ただ、エログロ的なネタは無神経に放り込まれる。
ヒロインのホテルメイドさんは右目が義眼で、目玉が落ちるシーンがあったり、
ホテルの地下には魔女のゾンビがいて、
少年探偵団のハカセ君とお付き合いをするんだけど、簡単に四肢がもげてしまうとか。

ただし、これらはショッキングなシーンとしてよりは
当然の帰結くらいのテンションで描かれる。

この人の作風はその設定の過剰さよりも
欠損に対する躊躇いのなさ、と
不具に対する手つきの自然さにこそ価値があると思う。

どの傷も、その人がどのように生きてきたかを伝えてくれる。
誰かを愛するなら、傷ごと愛したい。
そういう欲望についてのお話だと思う。

「あなたは幸せになりたいんじゃなくて 他人を自分より不幸にしたいだけなのよ」
「それもそうねっ」「どうかしてたわ私」
「よかった やっぱりあなたイカれてるわ」「だから私あなたが好き」(2巻p.85)

とある悪魔との取引。
なんつーかこの辺の「間違った肯定」みたいなものは大事に描かれていると思う。

「タイゾウさん 助けに来ましたよ」
「え」
「エレナ!? 一体どこから」
「今はそんな事よりも」
「勝負に勝つことをかんがえましょ ほらそこ出せますよ」
「あ‥‥ あれ ホントだ…?」
「ねっがんばりましょう」
「そうだね」「何か勝てそうな気がしてきた」(3巻p.15)

エレンかわいいよ、エレン。
というか、ピンチをどこまでも救ってくれるエレンは正直な話、
男にとって都合が良すぎるので、
フェミニズム的にはいつまで乳離れしないんだって怒られるやつだけどね。

「ねじの回転」著:ヘンリー・ジェイムス 訳:蕗沢忠枝

ちょっとしたホラー小説というところなんだけれど、
まったくうまく噛み合わなかった。

その「恐ろしいもの」を直接に描かないことで恐怖を与えるという書き振りなのはわかる。
しかし、書かれていないものの恐怖はリアクションだけで伝わるかというとそうではない。
共有するべき常識が最後まで共有されなかったと感じる。

悪徳に誘惑されること、それ自体に恐怖感を与えるものがあったようだが
主人公が勝手にビビったり急に頑張ろうとしたりと忙しくしているだけのように見える。

僕のような不信心ものではなく
キリスト教者であれば恐れ慄いて読むことができるのだろう。
(それは信心深いのだろうか?)

別枠で、少年少女を美しく描くことはできているので
ロリ、ショタ好きにもアピールできると思う。

ねじの回転 (新潮文庫)

ねじの回転 (新潮文庫)

「先生に、ぼくのことを、ーー気分転換にーー“悪い子”だって思われたかったの!」
 この言葉を言い放った時のマイルズの愛らしさと、うきうきした愉しい表情を、そしてまた、それにもまして、前かがみになって、わたしにキッスしたあの時の様子を、わたしはいつまでも、決して忘れることはできないだろう。(p.149)

おねショタ一丁あがり。