ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

おそるべき少女たち

今週のジャンプ、「鬼滅の刃」は
レトロな見せ場の作り方込みで好みです。
ジャンプには珍しくオシャレさんです。
(大体あの辺の作家はすぐフォルムに凝るけど、
その前に、素材とかテクスチャとかあるでしょ)

鬼が現れる世の中で、噛まれると鬼になってしまう。
和風ゾンビホラーですな。
親は殺され、妹が噛まれてしまって鬼になってしまう。
お兄ちゃんは敵討ちとそれを治す方法を探しに旅に出る。

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


妹は守られる存在でありながら、
同時に鬼に対抗できる直接の力でもあります。

こういう表現はどこかでも見たと頭をひねる。
アイアムヒーローの比呂美ちゃんですね。

こちらも現代ゾンビホラーです。
噛まれてゾンビ(その世界ではZQNと呼ばれる)になってしまう。
こちらは特に関係があったわけではない、
さして若くもない青年がなかば保護する形で冒険をしていく。

このアイアムヒーローのZQNは
受け入れ難く無教養な社会を暗示しているように思う。
DQNという俗語を連想させる語感、そしてゾンビと言っても
彼らの中で曖昧なコミュニケーションが存在するようでもある。
文化を疫学としてとらえる研究もあったが、
この感染症とそこから捲き起こる衝突は社会の中にある
文化の摩擦とニアリーイコールだ。

そうであるなら、少女が感染するということ、
そして、感染したまま旅をするということは
彼らなりの社会との折り合いなのか?

他にこのモチーフはあるか

この手の話なら本当は斎藤環の「戦闘美少女の精神分析」を読んでおきたいところ

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

ですが、思い立ってのエントリーなので、読んでない。
しかし、本の紹介に列挙してある「戦闘美少女」はひろっておこう。
いわく、ナウシカセーラームーン綾波レイ

今回のモチーフとしては綾波は適合しそうだ。
庇護欲を掻き立て、かつ物語の核心を体現しており、かつ戦う力を持つ。

また、まどかマギカ魔法少女
その敵である魔女が循環しているという構造においては、
男性を抜いたかたちでの、変形モチーフと言える。

最終兵器彼女のちせは、圧倒的な武力の一方で
ただの可愛らしい女の子であろうとする。
これは、しかし、その武力は純粋で象徴的な武力であって、
ちせは敵と関わっているというよりも断絶するために戦っている。

まどマギも、最終兵器彼女も閉じこもるかたちで終わる。
どちらも一種の女性崇拝的気分を僕は感じるのだが、
こうしたところに男があらわた途端に、男はわがままに振る舞いはじめる。

鬼滅の刃も、アイアムヒーローも連載中であるから
定まったかたちで何かを言うことはできないが、
受け取れるメッセージはある。

少女が怖い

社会はずっと怖かった。
何せ生まれる前からがんじがらめにしようと待ち構える
ナチュラルボーンジェイルである。

だから、社会に参入していない少女は女神のはずだった。
しかし、今、僕を縛るこの縄の持ち主はかつて少女だった。
いとも軽やかに彼女らは向こう側に行ってしまう。

そう知っているから手許においておくのではないか。
この葛藤はまっとうなものだとは言える。
なぜなら、違う思考に対する恐れ、不気味さは常にあるもので、
それを感じない時にこそ抑圧が場に発生しているはずだから。

ただ、この時ホモソーシャルなものに向かう可能性もありうる。
この可能性は市場の需要の問題で描写されにくいが、
エヴァンゲリオンにおけるトウジの立ち位置なんかは
そうした逃避的現象を反映していると思う。

いずれにしても、少女は社会と結託する。

性愛の問題ではない

これらのおそるべき少女たちの出現はマリア様ではなくて、
ノアの方舟のほうが近い。

危機的な世界において歴史がフラットになっていく、
歴史の消失点をむかえつつあるなかで彼女たちは登場する。

いや、すでに歴史など終わったというじゃないか、
こんなものは茶番だと、言われるかもしれないが、
それなら、今ここで生きているごく個人的な私も茶番であって、
どこか新しい歴史のはじまる世界までショートカットするような方舟があれば
それにすがろうというのもこれもまた道理というわけで。

未熟であろうと、「つがい」で行動する彼らは
物語が終わったあとで、もう一度物語を立ち上げようとする意思そのものだとも言える。