『ヨーロッパ退屈日記』
軽いエッセイはいいもんだ。
中身のない会話でも楽しくできるのは
そこにヒューモアがあればこそだと思う。
そしてこの伊丹十三という青年は年頃らしい
高潔さをもって世界を観察している。
本当によいものが世の中には存在するに違いないという期待と、少しの諦め。
人の文化への期待はそのまま信頼感でもあって、
そこが彼のヒューモアの源泉になっている。
それにしても、
香港のここに行ったら美味いぞ、というリストは使えるのかと思って検索したら
今もお店はありそうで、人生の楽しみが増えた。ありがたや。
巻末にこの本の出版を手伝った山口瞳のあとがきと
伊丹のあとがきとの間のちょっとしたやり取りがまたクスリとさせる。良い本だ。
- 作者: 伊丹十三
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/03/02
- メディア: 文庫
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さて、先日、初めてオープン・セットを見た時、わたくしはなんともいえぬ空しい感じに打たれたものです。
つまり、あまりにも金がかかりすぎている。たかだか娯楽映画の背景に正味何十分か現れるだけで、後なんの利用価値もないのに何十億というお金が使われている。誰にこんなグロテスクな浪費の権利があるのだろう。映画はそれに価いしない。(中略)
ところで、セット自身の出来ばえをいうなら、わたくしは文句なしに、このセットが大好きだといえます。(p.38)
率直ゆえにおかしさがある、そんなツボをおさえてる。
ホーム・シックというものがある。これは一時、人生から降りている状態である。今の、この生活は、仮の生活である、という気持ち。日本に帰った時にこそ、本当の生活が始まるのだ、という気持ちである。
勇気を奮い起さねばならぬのは、この時である。人生から降りてはいけないのだ。成程言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。しかし、それを仮の生活だといい逃れてしまってはいけない。(p.96)
これも力が入りすぎていると言えばそうだけれど、
そうやって自分を奮い立たせて来たと思えば彼の弱さも垣間見える。
そして、その弱さは誰にもあるようなものだと思う。
あまりに多才な人生であったが、彼もただの人間だったのだ。