ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「英語の帝国」著:平田雅博

英語の拡散とその需要のされ方についての通史である。

紛れもなく帝国的な広がり方と言えるし、
もしかすると帝国主義とは言語の不均衡な浸透を言うのではないかとも思える。

しかし、当然軍事的な侵略のみで言語の浸透は起きない。
当該地方の積極的な受け入れもあってこその不均衡な浸透である。
つまるところ、それが「役に立つ」から喜ばれるという側面だ。

京都に住んでいると外国からの旅行者を多く見かける。
ヨーロッパだけでなく、アジア圏からも多く来ている。
中国人か韓国人か台湾人か、区別はつかないけれど
土産物屋の店員やホテルの対応は特に困らない。
みんな同じように英語を話すからだ。

これが支配言語があやふやで
日本語を勉強しないと日本に行けないのでは大変だし
受け入れ側も3、4ヶ国語話さないといけないのでは
これはもうほとんど無理だと言っていい。
それを英語だけで来訪客のほとんどをカバーできるなら
これほど役に立つこともない。

これを自発的な植民地化としてとらえるのは真っ当なことだと思う。
真っ当なことだと思うが、この場合、防ぎようはないのではないかと思う。
もしくは勝敗があるとすれば、
言語の植民地化が始まる前から勝敗は決していたのだと言うほかないのではないか。

今の日本語は間違いなく消える。平安時代の日本語はすでに
日本の標準語ではなくて、明治維新からの教育とNHKによって
薩長連合あらため大日本帝国が日本語を征服した。

それとまた同じことが起きるだろう。
そして、教育の力を持ってしても青森の人の話す言葉は
僕には聞き取ることが困難だし、
沖縄の人の言葉は単語からして何か違うが、
同じ日本語を話していることになっている。

200年後ぐらいには京都訛りの英語はねちっこいとか言われたりするんだろう。


「上からの」英語帝国主義は、ウェールズの場合、ある程度は成果があったかもしれないが、報告書に見られたように、イングランド教員(ネイティヴ・スピーカー)の不足から現地のウェールズ人教員で間に合わせること、そこから来る教員の無能さ、そのために必然的となる生徒の達成度の低さ、にもかかわらず親の英語への熱望が見られたことなどから、完成度を見ると、いかにも出来損ないの帝国主義としかならなかったようである。しかし、これらは、ウェールズばかりか、非英語地域に英語教育をもたらす際に、世界的に見られる現象であることを確認しておこう。(p.44)

グレートブリテン内ですらこのような体たらくである。
そして、その不完全さとは関係なく普及するものが言語なのだ。