ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

RE/PLAY Dance Edit

最近、舞台というものを観ていなかったのもあって、
ダンスというものを観に行った。

スタートの立つスタンスの取り方がかかとをつけていたり、
肩幅に広げていたり、内股気味であったり、最初から差異が強調されている。

8人のダンサーのうち3人は関西だが、残りは
東京1、シンガポール1、カンボジア2、だからまぁ、
こういう展開は想像はしていた。

音楽が流れ出すと動きは見え始める。
しかし、止まっていても動いている。
動かない時には横になって倒れている。

おおむね、木偶のようではあるけれど、
能動的な木偶であり、ドラクエに出てくる
不思議な踊りを踊るアレをもう少し自由にした感じ。

音楽は繰り返される。
これが、リプレイたる所以だろうと思うが、その度に踊りも
やや違ってやり直される。
ボリュームが上がるのに合わせて踊りの強度を上げているように見せてある。

この「見せてある」というのは文字通り
彼らは木偶でなくて、踊りを踊っているだけだからなのだけど
それは音楽を10秒程度カットオフするような手法で
よりあからさまに提示される。

こうした露悪趣味は笑顔を作らせずに、
息切れした呼吸を聴かせることにも現れている。
また、幕間的に先取りされた公演打ち上げのワンシーンも
彼らが木偶でないことを示している。限りなく木偶に近い形で。

簡単に現状の関係性を見せながら、
女の子が一人先に帰る。
そこで呟かれる「彼女、帰っちゃった。She’s gone.」は
明らかに意図的で死のニュアンスが強い。

死を呼び出せば、生も起き上がるものだが、
そんなものは最初からありふれているのであって、
彼らは踊っているのだから、意図はそこにない。

なら、なんであるかと言えば、
倒れ込んでしまっても息をすることをやめない身体であるし、
音楽が止まっても動き続ける身体のことが
死に仮託されているものだ。

音楽は意図的に古いものから現代へと選ばれている。
時代はアーカイブされながら一向に消滅しない。
なにかをすることはすでに積み重ねられた繰り返しでしかないにしても
身体は常にその時代を生きている。

後半に向かうに従って音楽と動きは開放的になる。
バレエを通過して来たダンサーが3名はいたが、
その跳躍は美しさを持っていると思った。
(嫁は特に、赤紫のワンピースの子が気に入ったようだ)

最期のカーテンコールまで演出通りに駆け出して行く緑の青年を
二人して賞賛しながら、拍手は2回目までにしておこうと思ったのですが
いやはや、最近のダンサーは大変である。
息をして生きていることが仕事のようだから。

いや、さて、それはダンサーだけか?