ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「政治神学」著:カールシュミット 訳:田中浩・原田武雄

シュミットは1888年〜1985年のドイツの法哲学者である。(wiki調べ)
そして前書きによると1922年に第1版が上梓され、12年後に改訂版を出版したとのこと。

世界史に詳しくないのであまり突っ込みたくはないけれど
この時期のドイツというのは相当な動揺期であったのは間違いがない。

まずは簡単な本書の評価を済ませておく。
後半に引用と合わせていつもよりは多めに講評をしたい。

決断主義」というのは非常に勇ましくロマンチックではある。
ロマンチックなうえに、この人はだいぶ感傷的な味つけをしている。
一言で言えばヒロイック。

しかしながら、ヒロイックであれば否定されるということでは
それも論理の体をなしていないわけで、
シュミットはそこへとつながる道筋はきっちりと作ってはいた。
ただ、その道は君主制アナーキストというガードレールで挟み込んだ道であって
非常に消極的に見える(だからこそヒロイックなんだが)。

消極的に最悪の選択を成し得るということはよくよく考えなくてはいけない。
今も世界的に民主主義は動揺しており、その時にどのような視点を取るべきか
見返すべき分岐点を示す本だと思う。

政治神学

政治神学

主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。(p.11)

まずこのような定義をしたうえで、例外状況に集中することで
法的枠組みの外側に源泉をもってくる。これを言い直したのが

現行法を廃棄する権限が、まさに主権の本来の識別徴標(p.15-16)

ということだが、ここにおいて緊急性は脱臭されている。
単純に法を凌駕する主権のイメージが強調される。

「法が権威を付与する」とロックはいう。かれはここで、法律という語を、意識的に、commissioすなわち君主の個人的命令との対置において用いているのである。(p.45)

この定式を紹介しておいて、

「真理がではなく、権威が法を作る」(『リヴァイアサン』第二六章)という対置の古典的定式をみいだしたのが、かれ(引用者注:ホッブス)であって、(中略)権威対真理という対置は、多数ではなくして権威、というシュタールの対置よりも、根源的でありかつ明確である。(p.46)

それを逆転させてみせる。
ただこれはそもそもどの時点の話かという点が違うのだが、
そのことについてもそもそも「例外状況」の話を中心にしてるんだから
意味ないよねって突っぱねる形にはなるんだろう。

例外状況は、法律学にとって、神学にとっての奇跡と類似の意味をもつ。(p.49)

最後に政治神学というコンセプトの説明に入るわけだが、
これとセットになっているのが「主権者」であり、
これが神学ならば「神」であるということ。
これによって決断主義の無謬性を結果以前に担保しようとしている。

すべて主権は、無過失であるかのようにふるまい、すべて統治は絶対である。ーーこの命題は、無政府主義者だって、まったく別の意図からではあっても、一語一句同じ発言をしかねないものである。(p.72)

そしてこれは別の角度でもそのように確かに見えるのだという風に告げる。
しかし、なんというか「敵の似姿」というフレーズが浮かぶ。

かれらは、決定という契機を強調するあまり、この契機が、結局は、かれらの出発点でもあった正統性の思想を廃棄するまでになる。君主制の時代は終わった。なぜなら王はもはや存在しないし、まただれひとり、民衆の意思による以外に王となる勇気をもつ者がいないであろうから、とドノソ・コルテスが見抜いたとたんに、かれは、みずからの決定論に終止符を打った。すなわち、かれは政治的独裁を願ったのである。(p.86)

ここの結論はもはや願望の推定である。
理解は可能ではある。しかし、どのように法が成立したかということと
成立過程がそのまま発展をせずに選択肢を限定するだけになるということは
まったく関係のない話だ。

どのように在りうるかを語る中で、存立過程以上に人の願いを救いだすことは可能なはずだ。
人が善であって欲しかったと願ったであろうコルテスの
絶望の裏側に触れずに結論づけることもなかったはずなんだ。