ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「ラインズ」著:ティム・インゴルド 訳:工藤晋

楽しく、発見に満ちた本であると思う。

線の文化史ということだが、多種多様なラインが紹介されている。
地図のライン、建築のライン、物語のストーリーライン、裁縫のライン、旋律のラインなどなど。

洋の東西を問わずに並べられていくが、
手振り身振りそのものであるラインとそれらの記録であり、
身振りを呼び出すための設計図は意識的に区分される。

ただ、これは理念的な区分であって、
同時に双方のものであることはふつうに起こりうる。
むしろ、これらが移ろうからこそ、記述そのものにも意味がある。
(それにしても、この著者はそういう操作概念をためらいなく2項で作るが
どれもMECEなものとはかけ離れていて、いっそすがすがしい)

また、線の話をしながら立ち現れていく面の話は
人がそれらを「扱う」ということの可能性そのものなのだと思う。
線のままではおそらく人は触れることもままならない。

多くのストーリーラインが混線している現代にあって
それが刺々しい突起を持つのは避けられないかもしれない。
しかしラインは終わらない。伸びていく。
その先にゆるやかな広場を持てますように。

ラインズ 線の文化史

ラインズ 線の文化史

筋を追うことは、地図をもって後悔することに似ている。しかし地図からは記憶が消し去られている。旅人たちの旅の記録と彼らが持ち帰った知識がなかったら、地図をつくることは不可能だったであろう。ところが出来上がった地図自体は彼らの旅の証言を留めていない。(p.52)

これ自体は正しい。そして貧しさをイメージさせるところはあるが、むしろ読み手の旅への余白を残してくれたと見ることもできる。地図を見て脳内旅行など誰しもしたことはあるだろう。

オロチョン族にとって、生が終わるべきものではないように、物語も終わるべきものではない。物語は、鞍に乗った人とトナカイが一体となって森を貫く道を縫うように進む限り、続いていく。(p.146)

他にも物語に終わりはないのだという部族のあり方はいくつか例があるが、
この点はギリシャ哲学が、特異なものとして思想史に存在する理由でもあるだろう。