『断片的なものの社会学』著:岸政彦
単純に美しいエッセイ集として読んでも差し支えない。
ここには破調があるけれど、それらは選ばれており、
選ぶことは美に接近することだ。
写真は撮影技術以上に編集力がものをいうと僕は思っている。
どのように並べるか、引き延ばすのか、切り取るのか。
脈絡のない跳躍こそが、動悸息切れをもたらし、求心の売り上げにつながる。
本書には挿絵に街の見過ごされたような写真が使われていて、
この本が編集で成り立っていることに自覚的であることがわかる。
編集とは断片のつなぎあわせであり、器用仕事としての社会学の系譜であることを知らしめている。
ところで
「断片的なものの社会学」があるなら
「断片的でない社会学」もそれほど美しくはないけれど、当然にある。
社会学は方法の学問として成立している。
だから、対象ごとに「教育社会学」だの「犯罪社会学」だのがある。
けれどもここでの「断片」「編集」「器用仕事」は
さらに別の方法を使っていることを示唆している。
それでもなお「社会学」であることが揺らがないとすれば
いったいその学問の方法とは何を指しているのか。
その方法への信頼があるからこそ、
「断片的なもの」が「断片的でないもの」に取り込まれずに、
けれども伝わることを確信してこのような本が出来上がったのだと思う。
単に、階下の住民が何かを勘違いしただけなのだろう。真相も何もはっきりしない、特にドラマチックなこともない。ただこれだけの話だが、それにしても、自分では見てない、話に聞いただけの「からっぽの部屋」のイメージが、妙にいつまでも印象に残っている。(p.61)
私たちは香港の刑務所で過ごした十年というものを、想像することはできるが、それと同じ長さの時間をそれとして実際に感じてみることはできない。目の前で訥々と、淡々と語る男性の話を聞きながら、私はその十年という時間の長さになんとかして少しでも「近づく」ためにはどうすればいいのかを考えていた。
だがその十年は、当たり前の話を書いているようだが、よく考えれば私のなかにも流れていた。その男性がその十年を過ごしているころ、私にもまた同じ十年という時間が流れていた。この、ほんとうに当たり前のことに、インタビューがおわってこのことを何度も考えているうちに、ふと気づいたのである。(p.143)
いつまでも人は惑う。その時に人は隣あっている。