ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『<私>だけの神』著:ウルリッヒ・ベック 訳:鈴木直

グローバルアクターとしての宗教が
どのような変容をしていくかについての展望と期待が描かれている。

宗教は宗教だけで成り立つわけではなく、
社会的な基盤との関わりの中で信仰の表れは変わってくる。

近代化の中で宗教は世俗化の傾向を見せているようではあるが
一向に宗教の話は消えそうもない。
それは近代化が十分に進んでいないからではなくて、
近代化がもたらす個人主義
個人の信条の拠り所としての宗教の価値を再提示しているからだ。

これは「再帰的近代化」という著者のアイデアの一つで
近代化という過程が「近代化」そのものに影響を与えているという見方を示している。
(より一般的に「進行過程の再帰性」という発想は
社会関係による創発を重視する社会学的な発想で、何かの変動の観察の中で重要なものだろう)

もう一つの著者の大きなアイデアは「コスモポリタン的寛容」で、
他者の信仰を受け入れる宗教の自由との兼ね合いと、
個人を赦す宗教自身のあり方との重なり合いを含めたジレンマがここに現れる。

著者はここにおいて「真理のかわりに平和を」と言うけれど
これはもはや検証や推測でもなく、希望である。
ただし、「宗教」が今後生き延びるためにはそのように振舞う他はないだろう。

「自分自身の神」のどこに「独自性」があるのか。第一に挙げられるのは、個人が伝統的教会への結びつきとその権威から解放されている点だ。ルターが求めたように、個人は「母」なる教会の保護から離れなければならない。個人とその神の間をとり持つ、保護者としての代理人はもういない。「伝統はほとんど存在しないか無に等しい。「啓示された言葉」の直接性ないしは神の直接性がすべてだ」。(p.158)

個人個人が原典となる文章との関係を築く、教会の相対的な地位低下。
ここから世俗化とコスモポリタン化が同時に進んでいく。

ところで、教会とは神と宗徒のインタラクションであり、宗徒相互のインタラクションであると思えば
インターネットの相互性と同時性の高まりは別の教会を建設しているかもしれない。

ウェストファリアの平和は各宗派が内発的な平和への意志に基づいて相互承認を受諾、決意した結果として実現したものではなかった。むしろ政治権力の方が、宗派と一緒になって紛争を武力解決することに疲弊したのだ。(p.235)

著者自身はこれに触れた上で、世界政府がないので
これはどうやって再現できるのだというけれど、ウェストファリアの時にもなかったのだから
この形の方が平和の実現としてはあり得そうなところだ。
ただし、これは犠牲を払っており、手遅れと言えばそうなのだが。