「神の民俗誌」著:宮田 登
これは本書の後書きにも書かれているが、
いまだまとまり切ってないまま研究ノートを提示されたような本だ。
とは言っても、新書ならそういうことがむしろ挑戦として許されるのだから
向いてる方向さえ意識できていれば問題はなかろう。
そして、この本はケガレと血/出産の関係性、
ハレとケ、ケガレ、この関係性の揺らぎを見つめようとしている。
まず、ケがあり、ケガレという
危険な状態を経てハレによってケに戻す。
そんなサイクルが示唆されている(p.97)
そうであるならば、ハレとケは対立概念ではなくて、
ケとケガレの二択の状態説明があってそこに介入する要素としてのハレということになるし、
サイクルとしてハレが定期的に用意されるのはケガレが
遠ざけたいが避けられない出来事であることを示しているだろう。
女性蔑視に結びついたと批難されることの多いケガレの概念だが
少なくとも始まりは差別のために編み出されたのではないと思う。
気は生命を持続させるエネルギーのようなものだろう。その気がとまったり、絶えたりすることも、「穢れ」だった。そしてこれは死穢に代表されるものであり、不浄だとか、汚らしいという感覚はそこにはないのである。(p.99)
(大事なのは差別のために考えられた訳でないものが、
差別につながることがあるということを直視するほうだろう。
しかしこれはこの本から離れすぎている。)
この後、山の民と平地の民の交流からどのような相互作用があったかなどの
記述もなかなかに興味深い。
それらをキャッチボールする中で女性の立ち位置が
不自由なところに押し込められているようにも見えるが、
さて、その辺は後に続く研究家もそのうち出るかな。
研究としてのまとまりは弱いけれど
伝承と人々の風俗にしっかり寄り添う姿勢は最後まで貫けていると思います。
- 作者: 宮田登
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/09/20
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ところで、誰でも知っていることだが、夫がごく親しい友人仲間同志の会話の中で、自分の妻を「山の神」とよぶ場合がある。とくに悪意をもっていうわけではないが、何となく軽んじているようでもある。愛称とでもいってよいが、さりとて妻の前で、「山の神」とよびかけることはない。男同志の会話の中で妻を呼び捨てにするのである。(p.52)
そう言えば小さい頃に一度だけ耳にしたことがあることを思い出した。
しかし、今「山の神」など生きていないだろう。生きていたら
駅伝選手のことをこう呼んだりはしないからだ。
ネット上に墓標を建てたくてここに引用する。