「スペクタクルの社会」著:ギー・ドゥボール 訳:木下 誠
戦うために戦う文章の連なりであり、
現象のまま、道連れに消え去ろうとする試みだ。
脱構築へと連なる流れの実践的な潮流がここにはありそうだ。
消費的なシュミラークルのお話かと思うと、それよりも
より広い視野のある本ではある。
ただ、戦う衝動が強すぎて、
不明瞭な敵を映し出していないかとは思う。
ガラスを殴れば自分の拳を怪我するだけだ。
傷ついた時に、それを敵の反撃だと言うのは愚かしい。
無数の断章としてきらめく知性は
いかにもツイッター中毒になりそうな感じである。
巻末に本編に劣らない解説がある。
20世紀後半に確かにあった人々の熱気が見えてくる力作だ。
- 作者: ギードゥボール,Guy Debord,木下誠
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2003/01/01
- メディア: 文庫
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権力を握った全体主義イデオロギーは、逆転した世界の権力である。この階級は、自分が強力であればあるほど、それだけ強く自分が存在しないと主張する。(p.92)
おそらくそうだろう。
しかし、これを暴こうとするとき、こちらも神話的な戦いを挑むことになる。
つまり、人は敗北する。(英雄は例外である)
ならば、事前に叩き潰す以外にない。
時間とは、ヘーゲルが示したように必要な疎外であり、主体が自己を失うことで自己を実現し、自分自身の真理となるために他のものになる環境である。だが、疎遠な現在を生産する者が被っている支配的な疎外は、まさにその逆である。(p.149)
曰く、超人化を防ぐために時間が個人から奪われているのだ。
ここで、「誰が?」と問えば戦争になる。しかし、その敵は本当に敵なのか?
僕は博愛主義的に行きたい。