ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「セカンドハンドの時代」著:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 訳:松本妙子

ソ連からロシアへの移り変わり。
国家の崩壊と誕生を生き延びた人々へのインタビューから本書は成り立っている。

貴重にしても、ありふれた題材ではある。
国家による抑圧と解放、偽りの国民概念。
実際、本書もその領野からの声をひろっている。

ただ、もっと切実な日々の生存者としての言葉と、
きらめくような共産主義自由主義への憧れの言葉、
そうしたものは国家の変遷とは無関係に充満している。
(憧れとは、そこに在るものであってはならない)

そうして密度を増した人間的時空の中に「ソヴォーク/粗連人」
という不名誉な表現で現れる国民概念はフィクションであったとしても、
真実であることを妨げない強度を持っている。

かつての共産主義者から、兵士、革命にかかわったもの、アルメニア難民、エトセトラ。
本当に幅広く、一人一人粘り強く耳を傾け続けた労作だ。

ロシアの精神を見るとともに
断絶した声の交錯は、どこの社会にも普遍的に見られるものだ。
それは和声としてまとめるべきものでもない。
ただ春雨が来る前の空気と鳥の声を身体が覚えていられるように
こうした声の地鳴りに耳を澄ませてもいいんだと思う。

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

わたしたちには西側の人間が幼稚にみえる。というのも、彼らは、わたしたちのように悩んでいないし、ちっぽけなニキビにだってあっちには薬があるんだからね。それにたいして、わたしたちは収容所で服役して、戦時中は大地を死体でうめつくし、チェルノブイリでは素手で核燃料をかきあつめていた……。そして、こんどは社会主義のガレキのうえにすわっているんですよ。戦後のように。わたしたちはとても人生経験豊かで、とても痛めつけられている人間なんです。(p.42)

列車がベラルーシ駅に近づくとマーチがなりひびき、アナウンスをきくと心臓がばくばくしたものです。「乗客のみなさま、列車はわが祖国の首都、英雄都市モスクワに到着いたしました」。「活気ある、強大な、無敵をほこる/わがモスクワ、我が祖国、わが最愛の……」この歌に送られて列車を降りるのです。(p.110)

ひと月前はみんながソヴィエト人だったのに、いまではグルジア人とアブハジア人……アブハジア人とグルジア人……ロシア人に、わかれちゃった……(中略)
見た目はふつうの若者。長身で、ハンサム。彼は、自分の老いグルジア人の教師を殺した。学校で自分にグルジア語を教えたという理由で殺したのです。落第点をつけられたといって。こんなことができるものなの?(中略)
神さま、お救いください。信じやすく見さかいのない人びとを!(p.308,309)