ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「ハイファに戻って/太陽の男たち」著:ガッサーン・カナファーニー 訳:黒田寿郎/奴田原睦明

短編がいくつか入っているが、
やはり「ハイファ」が一番小説としてよくできている。
小説的フィクションを強度に転換することが巧みに行われている。

そう思うのは要するにほかの短編が
ざらりとしたナマの感触のまま突き出されているように感じるからだ。

特に密入国を描いた「太陽の男たち」は描写としてはほとんど
ハードボイルドのようである。
感情に入り込むのではなく、淡々と行動とひたすらな暑さが描かれている。

感情としての内面はない。ただひたすらな暑さとともに
クウェートに向かわなくてはならない状況だけがある。
そしてそれが正規の方法などあらかじめありえず、
また何が最善であるかも分からないという状況。

内面など何か意味を持つだろうか。
状況においてノーとしか口に出来ない、扉を開けばそこをくぐるほかない、
そんな選択を奪われた状況に内面など意味を持つだろうか。

そうした葛藤を踏み越えて、「ハイファ」はとても情緒的である。
それがなにかの回復を意味する訳ではないだろう。
しかし、奪われたものと奪われようのないものを峻別した地点に現われた
人間こそは語られるに値する人間なのだ。

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

原因といえばただ一つ、太陽にうちのめされたからなのである。これは紛れもない事実である。だがうちのめされると表現したのは誰だろうか。いずれにせよ、たいへんな才人に違いない。この空虚な砂漠は、まるで焔と煮えたぎるタールの鞭で、彼等の頭を鞭打つ眼に見えぬ巨人のようであった。だが太陽は彼等をうち殺すことはできようが、同時に彼等の胸中にわだかまる卑しいものみなを抹殺することができるだろうか。(太陽の男たち:p.87)

旦那にだって、人がふるえるのをやめさせるわけにはいかないでしょうからね、そうじゃありませんか?今でさえ、これだけはわたしにふんだんに残されている権利なんですからね。(彼岸へ:p.162)

「そうだ。確かにそうだ。われわれはいかなるものも、置き去りにしてはいけなかったのだ。ハルドゥンも、家も、ハイファも。私がハイファの通りで車を走らせている時に、私を襲ったあのゾッとするような感情はおまえを襲わなかったのかい。私はハイファに親密な気持ちを抱いているのに、ハイファはそれを否定するのだ。(p.233)