ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「記憶の未来」著:フェルナン・ドュモン

「記憶」と「未来」とはいかにも奇妙な取り合わせである。
しかし、これ以上に今焦点化されるべき問題もあるだろうか。

「物語の共同体」以降、標準の言語、教育は焦点化されて
それらがネーションを作っていること自体は明らかになっているが
無論、それは善悪の判断を伴うものではない。
規格化によって近代化の恩恵をより多く受けられるようになる面もある。

一方で周縁のマイノリティの同化政策という暴力は
フーコー的な生権力を駆使して浸透していく。
しかし、デュモンが問題化しているのはこの問題系ではない。

デュモンはカナダのケベックにあって
フランス系社会を救済しようとしたプロジェクトに関わっている。
この社会はケベックにあってマジョリティであり、
カナダにあってマイノリティである。

このような状況ゆえに、デュモンは権力の不均衡という定数を外して
フラットに記憶と社会を結びつける探求を行う。
多くの誠実な探求がそうであるように本書も性急な答えを持ち出すことはないが
今後も参照項になり得る種が蒔かれているのは間違いなのないことだと思う。

記憶の未来:伝統の解体と再生

記憶の未来:伝統の解体と再生

トクヴィルは、先見の明で私たちのリベラル・デモクラシーの逆説を見通しながら、匿名で柔和な全体主義的な権力の出現を危惧すると述べている。この権力は、「思考する辛さと生きる痛み」を人間から完全に取り除いてくれるような形で、人間の幸福を保証してくるのである。(p.36)

こちらはセルジュ・カンタンによる序文からの抜粋。
この自由の敵に対して明確に抵抗しながら本論は進められる。

今日の個人は、かつての人間とは比べものにならないほど、巨大な社会の全体の動きに巻き込まれている。しかしながら、経済的、政治的、文化的な生産の主導権をほとんど握ることができていない。(中略)匿名のアトムとして状況に埋め込まれているような人間が、どうして自分の参加を必要としていないものを、わざわざ自分の記憶に統合する努力をするだろうか。(p.84)

率直にして、厳しい視点だ。
また、誰も迫害しないうちから、
つまり加害者もいないのに被害を受けた文化だけが増殖しているような絵図である。

私たちがその存在を予感している伝統は、古い伝統の繰り返しではない。今後、歴史のなかでじんるいのさまざまな伝統を解読するということは、それらの伝統を受け入れるのと同じ程度においてそれらを推進するということになるはずだ。記憶は作業が行われる現場となった。(p.120)

行為の現場こそが記憶を回復するという視野から「ユートピア」は描かれる。
しかし、ここは目指されるべき地点の一つではあるだろう。