「トマス・アクィナス」著:山本芳久
キリスト教と言っても長い歴史の中で変遷がある。
その中での積み重ねを知ることは今でも十分に意味のあることだろう。
トマスは中世の神学者として活躍した人物である。
宗教改革などをしたわけでもないし、黎明期になにかを決定づけたわけではない。
しかし、それでもなお彼の主著である「神学大全」は偉大な達成である。
本書はそれを中心に、どのようにトマスがキリスト教を整理しようとしたか確認する。
親鸞の教行信証の時でもそうであったが、
大きな遺産に対して敬意を払いながら発展的に展開する時の
「引用」および「編集」というのは現在よりも輝きをもった手法に見える。
テクノロジーはどうもこれらに手垢のついた印象を与えてしまう。
アカデミズムも本来はそうした手法を尊ぶものだが、時代につれて変遷はするだろう。
それはさておき、キリスト教に
ギリシャ哲学を接続していく流れはなかなか読ませるものがあり、
「善き生きる」ことを率直に肯定する教義へとつながっていくのは
キリスト教に対する認識を少し改めるところがあったように思う。
あるひとつの教義からプリズムように生み出される解釈は
宗教というものの多様性、および豊かさを感じさせてくれる。
- 作者: 山本芳久
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/12/21
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キリスト教の修道者が性的快楽から距離を置いた純潔な在り方をするのは、性的事柄が醜いことであったり、善からぬことであったり、価値のないことであったりするからではない。正反対だ。善いものであり、価値あるものであるからこそ、それを犠牲にしてまで神にすべてを捧げて生きるところに意味が見出されているのである。(p.97)
なるほどね。
キリスト教の思想史とは、単に、イエス・キリストによって与えられた「答え」を歪めることなくありのままにそのまま受け継いでいくようなものではありえなかった。キリストによって与えられたのは、「答え」というよりは、むしろ、「神秘」だったからである。(p.229)
前半はむしろ神秘主義者であるよりも人間理性や自由意志が強く打ち出されている一方で
キリスト教の根っこに神秘そのものが埋め込まれているというのはとても面白い。
なぜ私が生まれたのかということを考えるのを代替させてしまうような「神秘」だろう。