「人文学と批評の使命」著:E.W.サイード 訳:村山敏勝・三宅敦子
もはや教養というものが欲されることも求めらることも少なくなっている。
そうした中で人文学の擁護者であるためにはいったいどのような資格がありうるだろうか。
サイードは文化的でありながら政治でしかありえない領域で闘ってきた人だ。
この本はしたがって、ただの文学史の概観などではなく、
現在も熱を持っている地点でのレポートのようになっている。
安易な言辞への逃避を許さない彼の姿勢は
抵抗するそのまさにその場所が人文学の領域であることを示している。
何から抵抗するのか?
優しい死と絶望に抵抗するのだ。よく生きるために。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,村山敏勝,三宅敦子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/08/23
- メディア: 単行本
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変化こそ人間の歴史であり、人間の行動によって作られ、それに従って理解される歴史こそが人文学の基礎である。(p.14)
反響する歴史のイメージ。
平凡なものと非凡なものを、並みのものと特異なものをより分けられることこそ、人文学的学識、読解、解釈のしるしである。人文学とはある程度、紋切り型への抵抗であり、ありとあらゆる類の月並みな考えや頭が空っぽの言語に抵抗する。(p.53)
この「選り分けられる」というのは実は問題をはらんでいる。
しかし、それは不用意であるというのではなくて、ここにしがみつかなければならない。
正典作品を読み、解釈することは、それを現在において蘇らせ、再読の機会をもうけ、現代の新たなものを広い歴史の領野へと位置付けることであり、この領野の有用さとは、歴史をとっくに完結したものとしてではなく、いまだに闘われ続けている闘技の場として示すことなのだ。(p.30)
ここでキャノンはバッハに見られる音楽的意味合いを引き出されている。
繰り返し、重ね合わせられる声と響き。
「わたしたち」という代名詞の戦略配備は、抒情詩や頌詩、葬送歌や悲劇を作る材料でもあり、だから責務と価値観について問うこと、プライドと以上なほどの横柄さについて問うこと、驚くべき道徳的盲目さについて問うことは、わたしたちの人文学者としての訓練からすれば当然である。(中略)どこかでじっくりとわたしはこの「わたしたち」ではないし、「あなたがた」がやることはわたしの名前でやっているのではないと、述べることができなければならないのだ。(p.99)
どこかでじっくりと、というのはユートピアのような感触だが、
隠れ家的なバーでしっぽりというわけにはいかなさそうだ。
頭においておくべきは、べつの言語が使えるわけではないこと、わたしが使う言語は、国務省や大統領が、人権やイラク「解放」戦争を唱えるときの言語と同じものであるしかないことだ。だから、わたしはその言語を使って、主題を捉えなおし、主張しなおし、圧倒的に有利な立場にある敵たちが、とてつもなく複雑な現実を単純化し、裏切り、ときには貶め解消すらしているなかで、現実に結びつけなおさなければならない。(P.164)
結びつけるものは想念ではない。
現実的な闘争として言葉はメディウムの役割を果たす。
そのようにする時に見せる手つきが人文学の手技として示されてきたものだ。