「夜想曲集」著:カズオ・イシグロ 訳:土屋政雄
イシグロは語り手の人称を意識しながら巧みに
遠くへ連れ出す誘拐犯である。
この短編集でもその読者攫いの技量はいかんなく発揮され、
今回は遠くではないかもしれないが、
壁ひとつ向向こう側の、見えずに漏れ聞こえていた物語へと誘われる。
音楽と夕暮れの物語、と記されたサブタイトルは
余韻について考えさせる。
鳴り響いた反響は楽曲が終わった後も別の揺れを揺らしている。
呼び起こされた拍手たちと輝く星空のきらめきは
別の大きな輝きの終わりによってもたらされている。
それぞれの人生の余韻であるように見える5つの物語ではある。
しかし、夜もただの1日だ。
生きる人にとって物語の前も後もない。
シンプルにセンチメンタルな匂いであっても
どれもポジティブな愛を感じる。気持ちのいい読後感である。
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/02/04
- メディア: 文庫
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結局、ぼくはまた同じ間違いをしたわけだ。ヘンドリックスへのなり方が足りない。
ぼくは四つん這いになり、雑誌に向かって頭を下げると、そのページに歯を食い込ませてみた。ちょっと香水のような香りもあり、不快な味ではなかった。(p.109)
「降っても晴れても」から。友人の家で留守を任されている時に部屋を汚してしまったのを犬のせいにしようとする主人公が割と真面目にまぬけで笑いそうになるが、必死すぎて笑うのも悪いような気分になる。
リンディの体が、前のように音楽に合わせて揺れはじめた。だが、今度はバースを過ぎても止まらなかった。むしろ、音楽が進めば進むほど、われを忘れて溶け込んでいき、両腕までが架空のパートナーに向かって差し伸べられた。終わるとプレーヤのスイッチを切ったまま部屋の端に立ち、おれに背中を向けてじっと動かなかった。ずいぶん長くそのままだったように思う。ようやく振り向いて、ソファーに戻ってきた。(p.220)
「夜想曲」から。これもユーモラスなシーンが多いが、
このリンディの姿は全体を通して見えるイシグロが描こうとした姿ではないかと思う。