ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「ユーゴスラヴィア現代史」著:柴 宜弘

ユーゴスラヴィアは東欧にある、いや、あった国だ。
ユーラシア大陸の文化圏が重なるような地域で、
ややこしい地域だという知識しかない。

この新書は19世紀からのその国の揺れ動きを丁寧に追ってくれている。
これは一重に読者の力量不足ではあるが、
正直読んでも何かが分かるという程分からず
「やはりややこしい」という認識にはなる。

大きな帝国のせめぎ合いよりも
むしろ前景にはセルビア人、クロアチア人、ムスリムの3つの
アイデンティティのもつれ合いがある。
はっきり言ってこれを簡略に示すということは
歴史を無視するようなものだろう。

ただ一つ読み終えて気づくのは
タイトルに著者の気持ちがあることだ。
すでに存在しない国名を掲げることで
儚くも確かにあった共存の面影を残そうとしているのだ。
ただの無念さではない。歴史は過去のものだが今を生きる人間が読むものだ。

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

クロアチアの歴史教科書が、統一国家の建国によってクロアチアの「国家性」を奪われたとしているのは特徴的である。(p.62)

国家性の剥奪というのはそれほど特異なケースではないだろう。
ただ、国家性が必要不可欠であるかは外野からは常に疑問が提示されてしかるべきだろう。
この熱の差異も余計に関わりが難しい。国民国家とは難儀な発明だ。

この「ユーゴスラヴィア人」という民族概念は、自主管理社会主義体制のもとで既存の民族を越える新たなユーゴ統合の概念として、共産主義者同盟によって提案され、導入された。旧ソ連における「ソ連人」と同様の概念であった。(p.163)

国民のアイデンティティから積み上げて国家になるパターンはおそらくもっとも現代的なものだ。
むしろ、国から枠組みを作ってそこの中にいる人間を抱え込んで命名する方が古い。
そのバリエーションとして主権者による主権者の自己規定がモダンなんだろう。
極めて近代的である。自由・平和・愛どれも古くなってしまった。