ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「服従」著:ミシェル・ウェルベック

小説はフィクションでも、フィクションだからこそ
単に人がそう思っているだけのことを書いてしまえる。
シャルリエブド、同時多発テロ、黄色いベスト、
一体全体フランスでは何が起こっているのか。
そんな興味で本書を手に取った。

主人公は大学の教授で文学を研究している。
彼がいかにしてイスラムに転向するのか、というのがこの物語だ。
筋書きはスリリングではなく、どちらかといえば退屈なものだが
それは本書の価値を損なうものではない。

神がかり的な天啓があるわけでもなく、
ただ道なりに進んだ先に転向があるという退屈さ
それそのものが脅威として感知されるように描かれている。

また、退屈という感覚は主人公自身にも植え付けられている。
彼は仕事への意欲を半ば失いながらも、
女性と食の享楽に生きる意味を掘り起こそうとする。

この凡庸さこそがリアリティをもたらしている。
社会ごと転向してしまうとどうなるのかは別の話として、
十分にありうる未来として読めた。

解説が佐藤優なのも高ポイント。
本作品の位置付けを伝える正しい意味での解説。

この若いカトリックの聴衆たちは、自分の土地を愛しているのだろうか。ぼくは自分が消えてもいいと思っているが、それは特に祖国のためではなく、人生のあらゆる面で破滅してもいいと思っているだけなのだ。(p.179)

この手の退屈さは、衣食が足りたあとの退屈さのように思える。

「弟と妹は向こうで高校を続けられるし、わたしもテルアヴィヴ大学に行ける、部分的に単位も交換可能だし。でも、わたし、イスラエルでなにをしたらいいの。ヘブライ語は一言も話せないのよ。わたしの母国はフランスなんだから」
彼女の声は微妙に変わって、ほとんど泣かんばかりだと感じた。「わたしはフランスが好きなの!」彼女の声は切迫していた。
「好きなの、たとえば……チーズとか!」(p.109-110)

主人公の恋人はユダヤ人であった。
家族とともにイスラエルに連れて行かれるという話が出てのセリフだが
わりと作者の意地の悪さが発揮されている。
しかし、前提なしにユダヤ教イスラム教が対立項になっているというのは
日本で気づいていないだけでそうなんだろう。