「ガザに地下鉄が走る日」著:岡真理
世界中ニュースに溢れている。酷いこともたくさん起こる。
ガザはその中でも長きにわたって苦境を強いられている場所のひとつだろう。
著者は繰り返し現地に赴き、
そのたびごとに人と触れ合い、
隣人として苦難から目をそらさないようにする。
しかしながら、彼女は同時に自分の日常にそれら
(ミサイル弾の音、近づくと撃たれるフェンス、空爆で壊される家)が
ないことをごまかさない。それらは自分の苦難ではない。
どのように誠実に向き合うかというのがそのまま、
本書の中の動揺にあらわれている。
それはたしかに動揺なのだと思う。
何度も訪れる、同じような個別の悲劇を個別の
ストーリーとして描き出そうとする日本とガザの往復。
陰影のくっきりしたその素描は深い影に引き立てられて、
また人の美しさもよく描かれている。
この本の表紙のデザインである
ガザの美しい壁とムスリムの女性の表情はそれらをよく表現している。
- 作者: 岡真理
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2018/11/17
- メディア: 単行本
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ノーマン、何者でもないがゆえに、ただ人間でしかない者たち。人間でしかない彼らは、人間が何者であることによってーーたとえば市民であるとか国民であるとかにーー付随するいっさいの諸権利をもたない。(p.22)
これはガザだけではない。おそらく日本国境の内側でもあり得る。
しかし、都市がまるごとそうであるとした時の想像などできるだろうか。
アスマハーンさんは難民二世だ。事務所でトルココーヒーを飲みながらお喋りしていたとき、「貴方はこのキャンプで生まれたの?」、そう何気なく訊ねた私は、すかさず答えた彼女のその答えにたじろがずにはおれなかった。「そうよ、私はここで生まれて、そしてここで死ぬのよ」(p.136)
この質問は軽率に違いないが、その軽率さを記述する姿勢は
彼女の誠実さから来ていると思う。
立派な一軒家もあるが、地区外の住宅と比べると明らかに貧しい木造の家が並ぶ。いまだ豪雨があるたび、床上浸水する家もある。「不法占拠」であってみれば、そこに暮らす者たちは、行政にとって十全たる「市民」ではなく、税金を投入する行政サービスの対象ではない(レバノンの難民キャンプがゴミ回収や水道など、レバノン政府の一切のサービスから排除されているのと同じように)。
(中略)
ウトロをひととおり案内されてジュリアーノは言った、「日本にも<難民キャンプ>があるとは知りませんでした」(p.198)
私たちは何を見て、何を見過ごしているのか。
ラニの家を辞すとき、ラニの奥さんが私の靴を持ってきてくれた。泥がこびりついていた靴はきれいに磨かれていた。一緒に暮らしているラニのお母さんは、庭先のアーモンドの樹から青い実を両手にいっぱい摘んで、お土産にくれた。(p.225)
日本人に世話になっているからといって、初めて会う東洋人をもてなしてくれるエピソード。
もてなすということの中に心の気高さと美しさも感じるような挿話だ。
彼らは苦しくても、生きている。