ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『重力と恩寵』著:シモーヌ・ヴェイユ 訳:田辺保

重力とは悪しき惰性のことであり、
恩寵は神から求められることなく与えられる奇跡のことだ。

思想家というよりは
はっきりとキリスト教に近い神学の特性を持っている。
しかし、彼女はキリスト教者ではない。
ユダヤ人の左派闘士であるという肩書すらついている。

しかし、一神教の真髄をストイックに追い求めた彼女の姿勢は
宗教家といって差し支えがない。
それは神を問わない。

自らを完全に放棄することは、宗教家にとって
誤りの多い俗世から切り離すための基本であり、極意であろう。

しかし、同時にこの滅私は誰を上に据えてもありがたくかしづくものであるかもしれない。
これは不遜な物言いととられかねないが、
自らを羊にしてしまう行為と紙一重だ。
もちろん、愚かな重力には耐えなければならない。
きちんと自らの足で立つことは大前提であるが、恩寵を一方に据えて
その奇跡の光が大きく強く見える時ほど難しくなるように思う。

知性ほどに真の謙遜に近いものは何ひとつない。知性を実際に働かせているときには、自分の知性を誇るなどということはありえない。そして知性を働かせているときには、人はそれにしばられていない。(p.212)

人間は、エゴイストでありたいと思っているのだろうが、そうであることができない。これこそ、人間の悲惨の何にもまして胸をうつ特長であり、そして、人間の偉大の源泉である。(p.105)

奴隷の状況とは、永遠からさしこむ光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。(中略)それがなければ、強制と利得だけが、労働へとかりたてる刺激剤になってしまう。強制には、民衆の抑圧ということが含まれている。利得には、民衆の堕落が含まれている。(p.294)

断章の最後は「労働の神秘」で締め括られ、実際の横顔を映し出す解題につづく。
ここには彼女の思想がその形而上的な強度を
つねに現実的な地平と結んでいたことを示そうとするものだろう。