『モードの迷宮』著:鷲田清一
これはファッション誌「マリ・クレール」に掲載されたコラムを集めた小論集だが、
そのスタイルは襞の入り組んだ陰影に着目する彼にはちょうど良いかもしれない。
境界は動きとともにある。
完全に固定化された境界はただの図像であり、写真だ。
哲学者の鷲田が境界にこだわるのはそれが自我を包んでいると確信しているからだ。
境界は接点でもある。
鷲田は境界の揺らめきことに誘惑の匂いを嗅ぎつける。
誘惑とは、わたしたちの存在に対する可能性であり、
肯定する熱量の源泉であるように思う。
鷲田の美点はその
人間的な肯定の源泉を信じて掘る代わりに
人間そのものにフォーカスしないところだ。
空虚な人間概念を弄ぶことを避けて
衣服と視線そのものを見つめ続ける。
セクシーでも過剰さのない文体は女性誌に求められた男の視線であったかもしれない。
- 作者:鷲田 清一
- 発売日: 1996/01/01
- メディア: 文庫
コルセットも靴も、わたしたちの身体的動作を拘束し、制限しようという共通のポリシーで貫かれている。しかし何と言っても、わたしたちはじっと動かないでいるわけにはいかない。歩かないわけにもいかない。そこで、こうした拘束を旨とする衣料品に適合した別の身のこなし方、身体の別の使用法といったものが編みだされることになる。(p.50)
この観察から
ファッションの構造は、<自然>の<文化>への変換、あるいは<文化>への変換、あるいは<文化>の生成そのものと関わっている。(中略)何かを禁じ、抹消してゆく運動が、そのまま、禁じられ、抹消されるはずのものを喚起し、煽りたててしまうという、ファッションのパラドクシカルな運動を切開するための切り口もまた、ここに見いだすことができるとおもわれる。(p.54)
このような帰結が導かれてはいるが、そもそものこの話のアイデアの中核はこちらであろう。
自由を禁じることに対する風当たりは強くなっているが、
これが文化に対する自然の朝鮮などではないことは明らかで別個の文化が戦っている。
ただし、基本的にはプラグマティズムによる反撃に過ぎない。
新しい衣服にあった動きを作るときに新しい文化のひらめく瞬間があり
そこで初めて別の現れをもたらすチャンスがあるということだ。
ヒールを履かないキャビンアテンダントは
しかし、制服をきちっと着ながら
マスクをミシン縫いしている姿でニュースに現れる。