ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『仏教の大意』著:鈴木大拙

短い本ではありますが、なんというか
いきなり核心に到達しようとする筆致で読み出がある。
大意を入門書的な意味で捉えるとかなり裏切られてしまう。

もっとも言っている項目を数えればそれほど多くはない。
たとえばA=notA=A という不思議な等式を
しかし、それが断固たる仕方でかつ
多くの物事の基礎として据える。

それが、一般的な知性的な世界としては
納得のしようがないものとしても
霊性的世界というものをしつらえて
そこでの仏や菩薩たちの動きを説明する手つきは
恍惚というよりは自然科学者が現象を観察するようで興味深い。

これ一冊で仏教を掴むのは難しいが
何か別の仏教の文献に触れることがあれば
呼び起こされるものがありそうな滋養の高い本だと思う。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

霊性的世界というと、多くの人々は何かそのようなものがこの世界のほかにあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間に対する現れ方だといってよいのです。(p.12)

世界はいずれのようにも顕れる。そしてこれが同じものだというのはつまり信仰は現実の問題だと言っている。

アダムに死してキリストに生きることであり、また死から蘇るキリストということである。(中略)大死一番して絶後に蘇息するという経験がないと、キリスト教も仏教もわからないのです。そうしてこれは信仰です。思慮分別ではないのです。矛盾の解消、分別と無分別との自己同一、これは信仰で可能になるのです。この信仰は二元性のものではなくて、個人的体験から出るところの一元性のものです、般若の一隻眼が点ぜられるのです。不思慮底の思慮です。(p.33)

ここは彼が世界宗教の中に仏教を接続しようとする語りの一つで、他にもこのようなものはある。
ここでの「信仰で可能になる」という時の信仰は普段使うような「信仰」とは何か毛色が違うように思う。

信仰は救いを与えるというけれど、そうではなくて
ここでは信仰が信仰を可能にしているような自己撞着に見えるような働きを
そのまま伝えているように見える。それは破綻ではなくて、それこそが信仰であると大拙は言いたいのだろう。

それにしても、こういう時の圧が本当にすごい。

弥陀が無量劫の昔に正覚を成じたというのは、人間的歴史的事実として伝えられるのではなくて、人間各自が霊性的直覚に入るとき感得または悟得せられる事実なのです。(p.121)

これも話の順序が前後するようなもので
ある人が悟ったその機にすでに阿弥陀が悟っている故に救われる。
しかし、この「常にすでに」というのは現象学で聞いたようなもので
把握とはそのようにして行われている。

しかし、これが俗世の言葉では流通しないので
われわれはそれぞれが自らを助けられるようにしないとならない。
それはしかし、神や仏がいるからなのだ。