『ヒンドゥー教10講』著:赤松明彦
ヒンドゥー教はインドの宗教だということは知っていても
それ以上のことはあまりよく分からない。
この本を読んでみてそれが分かるかというと
さらに混迷を深めてしまう。
何故なら系統だった教義であるよりも先に民衆の中にあった伝承や習慣が
イスラムなど他の宗教が入ってきたことによって
はじめてそれと意識されたような成り立ちだからだ。
これは日本の神道と似たような立ち位置でもある。
そう思うと、神道に何かの傾向性はあっても
教義とは、というとよく分からないのだからヒンドゥー教が掴みづらいのも納得である。
本書では歴史的な発展を踏まえながら描かれており、
その複雑な成り立ちをできるだけそのまま伝えようとしていると思う。
けれども、ヒンドゥー教としてそれが成り立っているのであれば中心的な教義のエッセンスがありそうだと思うが
おそらく、筆者はそうとられることは極力避けようとして書いていると思われる。
ただ、世界と同格の人格神のブラフマーの存在はこの宗教の特色のように思える。
世界を創造するのではなくて、世界そのものである神なので。
ただ、それはシヴァ教やヴィシュヌ教という別個の人格神への崇拝に取って代わられるにしても
救済そのものよりも真理への探究が優先されるような苦行の優位の中に現れていそうだ。
また、本書は密教など日本の宗教との関連づけて話す箇所もあって
その点も興味深い。
これ一冊で何が分かるということもないだろうが、
ヒンドゥー教という森に入ろうとするなら見ておくべき地図の一つではないか。
今から三〇年ほど前にインドで放送され、視聴率が九〇%を越えたと言われる、全九四からなるテレビドラマ「マハーバーラタ」でも、クリシュナが神としての姿を現すこの場面は、SFX(今でいうVFXやCG)を使って、光り輝く神が眩く聳え立ち、地上のあらゆるものが逆流する滝のようにしてその口の中へと上昇し呑み込まれていく様子を映し出していた。(p.136)
神はこの世界に現れている、という力強い確信。