ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「追懐の筆」著:内田百閒

百閒は偏屈である。
会ったことも見たこともないが、それは断言できる。

しかし、存外に話を聞いていると人とのつながりは広いし、意外と慕われているような気もする。
阿呆列車の時もお供やら、お見送りやらにぎにぎしくやっている。

こういうのは詰まるところ、書いてないところでは
情の深い部分を交わしていたりするんだろう。
読者としては偏屈ぶりを楽しみながらも、
うっすらとあるであろう人の良さは感じていた。

さて、本書は追悼文ばかり集めた作品集である。

師匠である夏目漱石に始まり芥川など有名どころから始まり同年代の友人や弟子まで。
多くの人を見送っている。それだけ彼は長生きをしたということだ。
とはいえ、当たり前のようだが、慣れるようなこともなく一つ一つがやるせなく哀切である。

死について直接に語られる場面はあまりない。
それについて語るのが、憚られているかのようで、
宮城道雄に対して、事故の現場について行こうか行くまいか悩むような描写は
それが何故近寄り難いかという言語化を許すことなく、
単に「早いのではないか」ということに集約している。

私はその遠慮がちな接近の仕方に
彼が偏屈としてみせて来たもののあまりの人間臭さを感じてしまって、
読み終えるのは早すぎるのじゃないかと思ってしまう。

誰も彼も死ぬのは早すぎる。

食卓に就いてから暫くすると、花袋先生が少し離れた席から私の名を読んで、「君のよこした文章は大変良かった。特色があったのでいつも注意した。最初の乞食などでも、観察がしっかりしてゐるから云云」と云われるのを聞いていると(中略)私は面目を施すと云ふよりも、そんな昔の事を今まで覚えてゐて下さった有り難さに頭の下がる思ひがした。(p.48)

なんだか、このあたりは素直に嬉しかった思い出という感じで、却って面白い。
その後も妙に恐縮していたりで、昔のことであるから上下の感覚というのは今よりも強かったのだろう。

君はしょっちゅう私の所へやって来て、他の学生達と私が会合するどんな席にも、君が加はってゐなかった事は殆どなかったではないか。その君が、あれ以来、と云ふのは鎌倉の別荘で死んでから、一度も私の所へはやって来ない。随分お見限りだね。ちどどうぢや、幸い私には残夢の席がある。これからは春めき、万物の発動期である。残夢の隙間にもぐり込んで来なさい。山の芋が鰻になり、竹の子も竹になる季節だよ。(p.239)

弟子に対してのものだが、これも驚くほど優しい。
ただ、親友であったらしい宮城道雄については
ここでちょっと引用するだけでは伝わりにくいくらい遠回りをして
ただただひたすらに悲しんでいる。こればかりは中をじっくり読んでほしい。