「百年の散歩」著:多和田葉子
出羽守なんて言葉が蔓延ったのはいつ頃からだろうか。
〜ではこうだ、のように言うから「ではのかみ」とのことで
ベルリンに住む日本人なんてその典型のように見える。
ただこの小説では何かを引き比べるというような地平に立ち並ぶことはない。
差異について言及されることはあっても
土地の歴史が濃く漂って安易に並べることが拒絶されてしまう。
「百年の」と言うのは歴史のことだが
まだ、さわると熱を持っているような傷のことでもある。
街角の端からそうした痛みが急に立ち現れてくる。
あるいは「百年」と言えば「孤独」と続くだろう。
著者らしい言葉遊びを携えて
主人公はベルリンの通りをふらふらと彷徨い続ける。
会いたい人、会うべき人には会うことはない。
ゴドーでも待っているかのようで、
主人公はずっと歩き続けていてそもそも待っていやしない。
ただ何かの訪れを待っている。
歴史の天使でも舞い降りるのを待っているかのようだ。
これは楽天主義の一種なんだろう。
読後感は思いのほか暖かい。
通りには人の名前が付けられている。いや、その前に奇異茶店とは何か。
言語を切り替えながら過ごしている異邦人にはこのような誤動作は致し方ないのだ、という素振りで
色んなところでこんな言葉遊びが繰り返される。
それは読者を彷徨に誘う呼び水であり、その人からも遠く離れていく。
苦難をくぐり抜けなければならなくなっても、そこから得るものがあればいいとわたしなどは考えてしまう。ところが、この政治家の人生は意味のない残忍な偶然の連続だった。自分の願いや意志が反映されたことなど一度もない。(p.134)
これは映画のシーンでコメディとして描かれているらしい。
文化の衝突として受け取ることもできるし、ヨブ記を想起させもするような口振りでもあし
あるいは、歴史の無残さについてなのか、あるいは、あるいは、
という意味の焦点になるようなシーンがするすると差し挟まれていく。
待つことと待たないことの区別がなくなってしまうくらい、時間の流れを遅くしてみてはどうですか。誰に会いに行くつもりだったのか忘れてしまうくらいゆっくり歩いてみてはどうですか。(p.273)
これは一つの答えなんだろうが、これも辿り着きたくはなかったであろうから
会話の中でも結局そらされていく。
まだまだ通りもたくさんある。ゆるゆると散歩は続いていく。