ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『ヒンドゥー教10講』著:赤松明彦

ヒンドゥー教はインドの宗教だということは知っていても
それ以上のことはあまりよく分からない。

この本を読んでみてそれが分かるかというと
さらに混迷を深めてしまう。

何故なら系統だった教義であるよりも先に民衆の中にあった伝承や習慣が
イスラムなど他の宗教が入ってきたことによって
はじめてそれと意識されたような成り立ちだからだ。

これは日本の神道と似たような立ち位置でもある。
そう思うと、神道に何かの傾向性はあっても
教義とは、というとよく分からないのだからヒンドゥー教が掴みづらいのも納得である。

本書では歴史的な発展を踏まえながら描かれており、
その複雑な成り立ちをできるだけそのまま伝えようとしていると思う。
けれども、ヒンドゥー教としてそれが成り立っているのであれば中心的な教義のエッセンスがありそうだと思うが
おそらく、筆者はそうとられることは極力避けようとして書いていると思われる。

ただ、世界と同格の人格神のブラフマーの存在はこの宗教の特色のように思える。
世界を創造するのではなくて、世界そのものである神なので。
ただ、それはシヴァ教やヴィシュヌ教という別個の人格神への崇拝に取って代わられるにしても
救済そのものよりも真理への探究が優先されるような苦行の優位の中に現れていそうだ。

また、本書は密教など日本の宗教との関連づけて話す箇所もあって
その点も興味深い。
これ一冊で何が分かるということもないだろうが、
ヒンドゥー教という森に入ろうとするなら見ておくべき地図の一つではないか。

今から三〇年ほど前にインドで放送され、視聴率が九〇%を越えたと言われる、全九四からなるテレビドラマ「マハーバーラタ」でも、クリシュナが神としての姿を現すこの場面は、SFX(今でいうVFXやCG)を使って、光り輝く神が眩く聳え立ち、地上のあらゆるものが逆流する滝のようにしてその口の中へと上昇し呑み込まれていく様子を映し出していた。(p.136)

神はこの世界に現れている、という力強い確信。

『マンゴー通り、ときどきさよなら』著:サンドラ・シスネロス 訳:くぼたのぞみ

移民の集まるアメリカの街。
いわゆる貧困の問題や、その中でもさらに皺寄せが来てしまう女性の問題、
ということに触れつつも重く地面に縛りつけられるよりは
スキップしながら通りを走り抜けるような軽やかさがある。

これはこれである種のステレオタイプの再生産に違いないだろうけれど
このステレオタイプは文字に書き起こされなかった類のものでもあって、
社会をそのままに受け入れつつも、納得したわけではない少女の立ち位置がこのお話の核だろう。

だからあれこれの人の話が出てくるけれども
主人公であるところのエスペランサはレンズのように機能していて、
本人の像ははっきりとしないことも多い。
それが、時折自分を覗き込むと、
貧困や女性問題とはまた別の普遍的な問題にリンクしていく。

こっからどこ行こうってね。
(Where do we go from here.ってジャミロクワイの曲にあった気がするけど、あれ好きだったな)

楽しい気持ちで読める本だと思います。

ネニーとわたしは、ぱっと見ただけでは姉妹には見えない。家族全員が棒付きのアイスキャンディーみたいなぶあつい唇をしているレイチェルとルーシーなら、すぐに姉妹だってわかるのに。でもネニーとわたしは見かけよりずっと似ている。たとえば笑い方。レイチェルとルーシーの家族はみんな、アイスクリーム売りの鈴みたいに、はにかんだようにクスクス笑うけど、わたしたちはお皿の山がガシャんと割れてびっくりしたときみたいに、いきなり大声で笑う。ほかにもあるけど、うまく説明できない。(p30)

ほんとうのことを伝えようとしているのが分かる文章だと思う。これは美点だ。

『突然ノックの音が』著:エトガル・ケレット 訳:母袋夏生

ショートショート、と言えば星新一をどうしても引き合いに出してしまう。

星新一は清潔で、ユニバーサルで、
近代の夢をそのままユーモアに包んだように感じるのだが、
それに比べるととてもこれは臭う。

ここには人が確かに生活している世界があって
「エヌ氏」のように一般化できない。
特殊で、個人的な、そして切実な状況が立ち現れている。

イスラエル人作家として紹介されている。
ユダヤ人とは書かれない。
例えばこれだけのことでも事態の厄介さは十分だと思う。

ただ、匂いは匂いであって主題にはならない。
気づかない人には気づかないまま読めるし、
ただ突拍子もない展開に引っ張られてワクワク読めるという点もある。

とはいえ、ポテトチップスの気楽さというよりは
レバーパテみたいなつまみで酒でもないとやってられないところがある。

色々あるけど、僕が好きなのは
ついた嘘が別の世界でその通り動き回っている『嘘の国』かな。
フィクションへの希望を感じる。せめて嘘くらい明るいものを。

「おまえさんには感謝しとるんだよ。おまえさんが嘘っぱちの犬をでっちあげなかったら、ここでわしはひとりぼっちだった。だから、おあいこさ」(p.16)

こんな感じに。

『椿井文書ーー日本最大級の偽文書』著:馬部隆弘

どのように偽文書が現れて、あまつさえ普及してしまうのか。

椿井文書とは椿井政隆(1770ー1837)が中世のものと偽って作った資料群で
家系図や地図そのほか多様な種類のものがある。

こうしたものが作成された背景として
地域ごとの政治的な綱引きの中で、
その歴史的裏づけを強化あるいは捏造することに需要があったことが指摘されている。

そういうわけなので、胡散臭いと思っても
政治的に有利になる側は黙認してしまう。
そして地域にその説が流布されていく。

さらに言えば、中央政府の政治に関わる話ではなく
あくまで地方の村同士の小競り合いに関わるところゆえに
知識人の介入が少なく否定されにくかったところがある。

そして近年の研究者の中で、その信憑性の低さは分かっていても
郷土史に根付いてしまって否定するのが難しくなっていたり、
「ことの真実はさておいて、こんなことも言われてた」などという扱いで生き残ってしまう。

フェイクニュースが問題となる現代ではあるけれど
同じようなことはすでに起こってきたことであるわけだ。

ところで、椿井の活動エリアが関西で、
それも京田辺あたりもよく出てくるので大学で下宿していた身としては
妙な親近感があって楽しかった。

大正八年(一九一九)の三・一独立運動以降、日本による朝鮮半島の武断統治が方向性を変え、内鮮融和と朝鮮人皇民化が政策として進められるなかで、朝鮮と日本を結びつけた王仁の墓は、再び注目を浴びるようになる。(中略)
現在も王仁墓の史跡指定は解除されておらず、韓国の要人や観光客の訪問が絶えない。(p.174)

政治的要請は口実だけが欲しいのだよね。
間違いは間違いだったけど、友好の気持ちは今後もあるよ、とやれればいいのですが。

『<私>だけの神』著:ウルリッヒ・ベック 訳:鈴木直

グローバルアクターとしての宗教が
どのような変容をしていくかについての展望と期待が描かれている。

宗教は宗教だけで成り立つわけではなく、
社会的な基盤との関わりの中で信仰の表れは変わってくる。

近代化の中で宗教は世俗化の傾向を見せているようではあるが
一向に宗教の話は消えそうもない。
それは近代化が十分に進んでいないからではなくて、
近代化がもたらす個人主義
個人の信条の拠り所としての宗教の価値を再提示しているからだ。

これは「再帰的近代化」という著者のアイデアの一つで
近代化という過程が「近代化」そのものに影響を与えているという見方を示している。
(より一般的に「進行過程の再帰性」という発想は
社会関係による創発を重視する社会学的な発想で、何かの変動の観察の中で重要なものだろう)

もう一つの著者の大きなアイデアは「コスモポリタン的寛容」で、
他者の信仰を受け入れる宗教の自由との兼ね合いと、
個人を赦す宗教自身のあり方との重なり合いを含めたジレンマがここに現れる。

著者はここにおいて「真理のかわりに平和を」と言うけれど
これはもはや検証や推測でもなく、希望である。
ただし、「宗教」が今後生き延びるためにはそのように振舞う他はないだろう。

「自分自身の神」のどこに「独自性」があるのか。第一に挙げられるのは、個人が伝統的教会への結びつきとその権威から解放されている点だ。ルターが求めたように、個人は「母」なる教会の保護から離れなければならない。個人とその神の間をとり持つ、保護者としての代理人はもういない。「伝統はほとんど存在しないか無に等しい。「啓示された言葉」の直接性ないしは神の直接性がすべてだ」。(p.158)

個人個人が原典となる文章との関係を築く、教会の相対的な地位低下。
ここから世俗化とコスモポリタン化が同時に進んでいく。

ところで、教会とは神と宗徒のインタラクションであり、宗徒相互のインタラクションであると思えば
インターネットの相互性と同時性の高まりは別の教会を建設しているかもしれない。

ウェストファリアの平和は各宗派が内発的な平和への意志に基づいて相互承認を受諾、決意した結果として実現したものではなかった。むしろ政治権力の方が、宗派と一緒になって紛争を武力解決することに疲弊したのだ。(p.235)

著者自身はこれに触れた上で、世界政府がないので
これはどうやって再現できるのだというけれど、ウェストファリアの時にもなかったのだから
この形の方が平和の実現としてはあり得そうなところだ。
ただし、これは犠牲を払っており、手遅れと言えばそうなのだが。

『ルバーイヤート』著:オマル・ハイヤーム 訳:岡田恵美子

アラブ・イスラーム世界の四行詩である。

詩に現われる言葉は
抽象度が高く文化的な共有意識を利用して語られることが多い。
そうなると文化的距離が離れていると理解しにくくなるわけだが
その距離を埋めるために各章立てに入る前にエッセイのような簡単な紹介がある。

これだけでも異文化の香りを愉しめるものだが
詩の中に立ち昇る感情の名前は違っても
何かを当てはめることができそうだ。
人の悩み、喜びにはそれぞれ同じような表情がある。

また、宗教的な背景が世界の背後にありつつも
ハイヤーム自身は科学者であり、
あまり敬虔な宗教者ではなかったという点も興味深い。

何かに幸せと名前をつけた時にしかし、それは
それぞれのバックグラウンドによってギャップがある。
彼自身おそらくそのような躓きがあったと思うし、僕らと彼の間にもある。
そのような段差をもってなお、読めるということは祝福すべきことなのだと思う。

土を型に入れ、あのお方がおれを創ったのだから、
すべての罪咎はその土からきている。
これ以上良くなれといわれても、おれには無理。
おれを壺の土から、このように創ったのだから。
(p.54)

なんだか、妙な明るさがある。
土から創られ、土に還るのが彼らの語彙。
砂と土の民なのだと思う。

果てしれぬ広大な天空には、
人がのまねばならぬ盃がある。
お前ののむべき時がきても、溜め息をつくな。
楽しく盃をあけよ。他人とは代わりえぬ順番なのだから。
(p.159)

空は大きな鎌として人の生命を握っているという見方もあるそうだ。
地平線の美しい世界と砂漠の夜は冷えるという話を思い出す。
潔く開き直った楽天である。

『仏教の大意』著:鈴木大拙

短い本ではありますが、なんというか
いきなり核心に到達しようとする筆致で読み出がある。
大意を入門書的な意味で捉えるとかなり裏切られてしまう。

もっとも言っている項目を数えればそれほど多くはない。
たとえばA=notA=A という不思議な等式を
しかし、それが断固たる仕方でかつ
多くの物事の基礎として据える。

それが、一般的な知性的な世界としては
納得のしようがないものとしても
霊性的世界というものをしつらえて
そこでの仏や菩薩たちの動きを説明する手つきは
恍惚というよりは自然科学者が現象を観察するようで興味深い。

これ一冊で仏教を掴むのは難しいが
何か別の仏教の文献に触れることがあれば
呼び起こされるものがありそうな滋養の高い本だと思う。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

霊性的世界というと、多くの人々は何かそのようなものがこの世界のほかにあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間に対する現れ方だといってよいのです。(p.12)

世界はいずれのようにも顕れる。そしてこれが同じものだというのはつまり信仰は現実の問題だと言っている。

アダムに死してキリストに生きることであり、また死から蘇るキリストということである。(中略)大死一番して絶後に蘇息するという経験がないと、キリスト教も仏教もわからないのです。そうしてこれは信仰です。思慮分別ではないのです。矛盾の解消、分別と無分別との自己同一、これは信仰で可能になるのです。この信仰は二元性のものではなくて、個人的体験から出るところの一元性のものです、般若の一隻眼が点ぜられるのです。不思慮底の思慮です。(p.33)

ここは彼が世界宗教の中に仏教を接続しようとする語りの一つで、他にもこのようなものはある。
ここでの「信仰で可能になる」という時の信仰は普段使うような「信仰」とは何か毛色が違うように思う。

信仰は救いを与えるというけれど、そうではなくて
ここでは信仰が信仰を可能にしているような自己撞着に見えるような働きを
そのまま伝えているように見える。それは破綻ではなくて、それこそが信仰であると大拙は言いたいのだろう。

それにしても、こういう時の圧が本当にすごい。

弥陀が無量劫の昔に正覚を成じたというのは、人間的歴史的事実として伝えられるのではなくて、人間各自が霊性的直覚に入るとき感得または悟得せられる事実なのです。(p.121)

これも話の順序が前後するようなもので
ある人が悟ったその機にすでに阿弥陀が悟っている故に救われる。
しかし、この「常にすでに」というのは現象学で聞いたようなもので
把握とはそのようにして行われている。

しかし、これが俗世の言葉では流通しないので
われわれはそれぞれが自らを助けられるようにしないとならない。
それはしかし、神や仏がいるからなのだ。