ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『不穏な熱帯』著:里見龍樹

太平洋のソロモン諸島に位置する島々の中には珊瑚などを積み上げて人工島にしたものがあり
「アシ」(海の民)などと呼ばれる人々が住んでいるらしい。
本書はそこでのフィールドワークを基に書かれている。

見知らぬ世界の見知らぬ習慣、言い回し、そういったものはワクワクするものだ。
しかし、こうした語りはともすると西洋中心主義であったり、植民地主義のように
優位と劣位を暗黙の前提にしてしまうことが多い。

もちろんこんな批判自体もそれなりに時代がかっているくらいにはありふれたもので
イードオリエンタリズムが1978年とのことなんで、もう半世紀近く言われていることではある。

当然この筆者はそのような批判を自らに差し向けながらのフィールドワーク及び記述を行う。
よって、本書の構成はフィールドワークの日誌だけでなく、どのような人類学がどのような課題を抱えているかの論述があり、
さらには筆者自身とその筆者が本拠とする日本についての記述があり、これら3つの要素を相互に連関させながら進められる。

自らの記述の足元を作りながら続けていくスタイルは曲芸のようでもあるが、
住民自身が自らの島の土台を作っていく現地の住民の在り方からすれば自然な流れなのかもしれない。

もっともエキゾチシズムに耽るのはどうかという話をしつつも、
多くの写真が入り太平洋に浮かぶ島の様々な相貌は相当にフォトジェニックであるし、
フィールドワーク日誌はいくつかの小事件が起こり、ごく一般的な興味深い話題として読んでも十二分に面白いと思う。

私がマライタ島で直面した事態は、単に「『エキゾチックな異文化』の研究はもう通用しない」というよりもさらに入り組んでおり、それはアシの人々自身が「『アシの伝統文化』などというものはもはや存在しない」と断定してみせるような事態だったのである。(p.59)

それでは果たして何を書くことになったのか。それはこの動揺そのものだろう。

日本とマライタ島を同時に襲った「ツナミ」という出来事によって、アシの「海に住まうこと」は深刻にゆりうごかされることになった。ーー二〇一一年のフィールドワークを通して私が気付いたのはそのことだった。「人々は今、海に住むことを恐れている。今の世の中ではいろいろなことが起こりすぎるから。わかるだろう?地震だのツナミだの」ーー同年七月、マライタ州都アウキの町で乗合トラックを待ちながら、ある三〇代の男性は私にそう語った。(p.13)

動揺、不穏さは日本とソロモン諸島との間にもある。境界があると思われていても自明ではないほど私たちは隣接している。

『印象派で「近代」を読む』著:中野京子

絵画はその作品の技法の前に何を画題としたかという点でも話すことができる。
こちらの本は主にそういった観点で何が絵描きたちの筆に捉えられたのかということを解説しています。

印象派というのはモネ、ルノワールゴッホあたりがポピュラーなんだと思いますが、
日本でも人気が高い時代です。

ルネサンスバロックあたりの絵画に比べて印象派が日本で人気なのは
聖書や神話などの古典的なコンテキストの理解がなくても鑑賞できることが大きいでしょう。
睡蓮はただひたすら水面の光が美しかったから描かれたのであって、何か前提知識を必要としてはいないわけです。

そういった開かれた作品であるためにかえって教養のないものとして
世に出た当初は酷評されたといういきさつも紹介されています。

こうした歴史的経緯の説明が新書判ながらも多くの図版を入れて説明してくれます。
伝統的絵画から印象派らしい印象派の途上におけるものや
伝統的絵画における印象派的なものであるとかもあり、なかなか興味深いです。

また、後半にあっては描かれた風俗やジャポニスムとの関係など色々なテーマが触れられます。
特定のテーマについて、というよりはあくまで印象派を見ながらおしゃべりしましょうと言った感じですが
こういうものも悪くないでしょう。

印象派は母子像を多く描いています。聖母マリアを彷彿とさせる、母の無私の愛。ただし誤解なきよう。ブルジョワの母は、我が子に授乳などしません。そんな「滑稽で不愉快」(同時代人の言葉)な肉体労働は、下層階級の領域だからです。(p.127)

人の営みは食べて寝て人と交わる、基本的なことは変わらないはずなのに
常識は驚くほど変わる。そういう点でも発見はあると思います。

『旅する練習』著:乗代雄介

作家である叔父と小学6年生の姪の春休みの冒険であると同時に
コロナ禍の2020年3月空気感の覚書でもあるような小説である。

そんなに悪いものではないし、下手ではないんだけれど
作為がちょっと鼻に付く感じがして、僕は何か、警戒して読んでしまう感じになってしまってどうだろう。

作為のない小説なんてのも無茶な話なんだが、
構成が凝りすぎていてなぁ。
象徴の余地がそれぞれ狭いように感じます。

あまり深く考えずに読めば、それなりに綺麗な小説として読めるとは思います。
とはいえ、初出が2020年12月の雑誌ということで、その瞬発力は十分評価されるべきだな。

「そういう生き方をしないと死ぬから、カワウはみんなそうやって生きられる」そう言うことで溢れた感慨が「うらやましいな」と口をついた。
「人間は無理?サッカーをするために生まれてきたみたいとかよく言うじゃん」
「やらなくても死なないから」
「小説書くのもそう?死なない?」
「死なない」
(p.42)

とはいえ、それをするのだ。

『背高泡立草』著:古川真人

土地の記憶についての物語であった。

しかし、あくまで人のスケールの記憶であって
恐竜が出てきたりするわけでもない。

要するに言葉として聞くことが可能だが、
耳を澄まさなければ届かない程度の言葉を著者は拾ってきている。
おおむね3世代前程度の話。人が大体20〜30年で次の世代を作って行くなら
100年前後というのはおおむね人のスケール感の中で、
見過ごされるとしても注意して聞けば聞こえてくる海鳴りのようなものだ。

このことを土地を矮小化するはたらきと見る人もいるかもしれないけれど、
とはいえ、それが意味あるものとして伝わるためには
人のスケールであることに意義はあるだろう。

この家の草刈りをなんでしてるの?という問いは最後まで宙に浮いたままだが
それでもなお、人の範疇の出来事として、草刈りがあるのだということが確かな疲れをともなって描かれている。

こうした大きな枠組みの中で挿入されたカヌーでの少年の冒険は
一方でその疲れ、我々の微細な力を持って何ができるかの実践を示しているようであり、悪くない。

決然たる意思を持って書かれた良作だと思います。

「ああ、もう当分は生えんやろ。来年まではすっきりしとるとよ」と哲雄は満足そうに言った。
「ええ、たったの一年?」と奈美の方は不満げに、どうして伯父がそれで満足していられるのか理解しかねて、「じゃあまた一年経って草茫々やったら?」ーー
そう重ねて訊かずにはいられなかった。
「そりゃ、また来て刈らなたい」と、哲雄は事もなげに言った。
(p.156)

人が生きているのだから草も生えるものだし、
人は生きているのだから草も刈るものだ。

『番茶菓子』著:幸田文

幸田文の文章はとてもしゃっきりしていてじめっとしたところがないのがよい。
よほど幸田露伴がうるさかったんだろうと思うけれど、
生活のありとあらゆるところにケジメがつけられており、行動もその通りにするのであって含むところがない。
因習の面倒なところとよいところである。

差し当たってこういった特性はその時代の生活を知るのにも何かしら役立つところがあるので
そいう少し昔の生活風俗に興味がある人にもよいかもしれない。

しかし、そういうところよりもこの本の読みどころは
ハキハキした幸田文の振る舞いが様々な性別役割意識にとらわれたうえでも
それとは一層無縁に、あるいはそれらがある故にとても強硬でしたたかであるようなあり様だと思う。

時代が違うからこそ、それでもなお、共通する心持ちがあれば
参考にしたいものがある。

材料の選択や調理には、大袈裟に云えば人の生命がかかっている。その生命を養うのに二つツのことがある。一ツは、よいものをたべること、もう一ツは、いけないものを食べないことを食べないことである。よいたべものをつくることが絶対に必要なら、害毒になる悪いものを排除することも絶対必要である。良くも悪くも絶対という境地は、許さない厳しさということだ。(p.104)

とても画然とした態度である。
こんなことを言いながらオシャレにも興味があり、時々意地をはって口喧嘩をしたりする。
真面目だけど人間味のある人である。

『ハレルヤ』著:保坂和志

保坂和志の話はとても静かなものが多い。
派手な展開はなく、ただ過ぎていく時間を愛おしむ。そんな感覚がある。

本作では猫の花ちゃんとの出会いから別れまでが書いてある。
ただ、あくまでも短編集であって、その別れが書かれ、いくつか別の話題が挟まり、
最後に出会いから別れが振り返られる。

淡々としているのは、それだけで十分に情が溢れているからであって、
単にそっけないというわけではない。
花ちゃんのひとなきを何回にも分けて考え直すような人がそっけないわけがない。

生のこの瞬間を、死にいたる経過ではないものとして
そのままとらえようとする明るさがある。

「キャウ!」は、
「二ヶ月じゃない!」ということではなかった。(中略)
「キャウ!」
はそういうことすべてのはじまりの合図だっということか、「キャウ!」は私に流れていた時間を断ち切って、過去とか現在とか未来とか関係なくしたということか。(p.50-51)

なんだか仏教のような感じでもあるけど、
浄土の話ではないんだ。

『町合わせ』著:多宇加世

とても面白い装丁の刺繍である。
短いセンテンスの行分け詩のようなものも散文に近いものも、
また、自由な形にレイアウトされたものもある。

色々な形式で書かれているように見えるけど、同時にこれは共通したものがある。
これをトーンが、色調がみたいな言葉で言いたいような気がするけれども、何かそれは不用意な気がして
何か共通しているものがあるというだけにとどめておこう。

文字を自由な形に配置してはいるが、その形そのものに意味をもたせるような
コンクリートポエトリー的なところはない。
それよりも、「多声」「ポリフォニー」のためにこれらは、それぞれの活字はキャラクタライズされている。

荒木とか個人的なプライベートな顔を撮る写真家というものが流行った時代があって
ここにはそういう匂いを感じる。

タイトルにヒントがあると思えば、町の多様性であり、誰かを待つこともなく待っている。
待ちあわせの時に通り過ぎる人々の予定のありそうな顔たちよ。幸あれ。

少しだけ寂しくって、でもにぎやかな感じがする。そんな詩集だと思う。

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まだ割れてない食器も
マネキンも
沈む
ダムが
移動式窓辺のカーテン越しに
放水する静かな音が
移動式キッチンに四本足で立つ
キャスターつききつねの剥製の
耳に埋め込まれた
マイクで拾われる
その日は決まって晴れなのだ
死んだきつねよ けーけーと鳴け
(p.32)

音が鳴る前に聞き、現れる前に愛おしむ
そんな豊かなポリフォニー