ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『ヨブ記』訳:関根正雄

救わない神様の話。

ヨブが信仰を試される話だが、思考実験的な趣がある。


シーンは神様と悪魔的なのが話してるところから。
神「やーヨブ君はなかなかの信心者だよ」
悪魔的「いいえ、彼は恵まれてるからですよ。災難に遭えば、神を呪いもするでしょうよ」
神「ほー、そういうならやってみなよ」


ヨブ君、かわいそう。


大量の家畜は別の部族に奪われたり
火事で燃えてしまい、
使用人も同じく殺される。
また、大嵐によって家は潰れて子供たちはほとんど死んでしまう。


さらに本人も病気にさせられる。


ここに至ってもヨブは神に恨み言を言うことはなかった。


ただ、友達が来てくれるんだけど、こいつらがまたひどい。


おおむね
「君がこんなにひどい目に遭うのはなんかやましい事があるはずだ。」
みたいなノリで割と血も涙もない。


そいつらと討論するパートがあって、
それが終わると後半は神との対話パート。
よくもまぁぬけぬけと出てくるもんです。


最終的に神様は名誉と財産の回復をしてくれますが、
それならなおさら、あの最初の
飲んだ勢いの賭け事みたいな仕打ちの理不尽さが際立ちます。


ただ、ここにある傾向のいくつかは文化の基底にあるものとして興味深い。


・財産のうちに子孫が含まれるという発想。
・真実を話すということへの高い価値。
・絶望的な状況へ転落するイメージの近さ。社会の不安定さ。


特に真実や善についての観念は
全面的に主題化されていることもあって注意を引く。


神と話す時でさえ正しく話す為なら堂々とすべきなのだ。


旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

君たちの常套句は泥でできている。
君たちはわが前に黙るがよい、
わたしが語る。たとえわが身がどうなろうと。
(P.50)<<

「全く」道徳的完全をいうのでなく、神に対して心が分裂していないこと、「神を畏れ」と応ずる。ノアについても「全い」といわれる(創世六ノ九参照)。「悪を遠ざけた」知者の生き方。悪と戦うのでなく、初めから近づかない。
(解説:P.166)

解説が充実しているのもありがたい。
悪と戦うことほどくだらんことはない。

『社員100人間とまでの会社の「社長の仕事」』古田土 満(注:著者の土は`が付きます。本文では土で代用します)

特に1代目だとどうしても
社長はその会社の看板営業マンとしての
性格が出てしまうのではないかと思う。

しかし、そこから営業以外の社長の仕事というものもしていかないと
大きくするのはおろか、会社を運転することすらままならない。

果たしてその仕事とは2つに集約されるだろう。
1つは経営理念を起点として中長期の経営計画を打ち立てて
社員に同じビジョンをもってもらうこと。

もう一つは固定費の分配をどのように行って
経常利益をどの程度確保するかについての意思決定だ。

よくまとまっているので、
何かの営利的プロジェクトを
軌道に乗せた後に読むといいと思う。
起業する前の人には多分まだ必要ないというか
それ以上に考えることがある気がする。

しかもこの考え方は一人親方でいいならそこまで気にする必要ないんで。


社員100人までの会社の「社長の仕事」

社員100人までの会社の「社長の仕事」

会社がなぜ倒産するのか、それはお金がなくなるからです。つまり資金繰りです。倒産は4つのたいぷに分けることができます。

①売上が伸びて、利益も伸びているが、お金がなくて倒産するタイプ
②売上は伸びたが、利益が減って、お金もなくなり倒産するタイプ
③急激に売上・利益が減少して倒産するタイプ
④本業の業績とは無関係に、何らかの事故で倒産するタイプ
(P.39)

①みたいなことがあるから怖いんです。

「山でクマに会う方法」米田一彦

サブタイトルに「これだけは知っておきたいクマの常識」


これはちょっとずるいですね。
それじゃぁ教えておくれよ、となりますよね。なりませんかね?


中身はいたってスタンダードな日誌風の断章に
ワンポイントコメンタリーがついてくる形式。
読み物としての味はだいぶ淡白である。


ただ、役所の人間として鳥獣保護に携わってから
フリーのクマ追い人となるというその辺の事情は
特に書かれてないけど普通ではない。
それはこの人が異常と言いたいのでなくて、
普通ではない道を選ぼうと思わせるだけの異常事態が
彼の目の前にあったわけだ。


クマの被害は確かに存在して泣いている人も多いが、
クマ被害はクマが問題の原因なのか?
真摯に問題に向き合う姿勢は賞賛されていいものと思う。


それと、実用書的にはクマに会いたくない人も
山登りが好きなら知識として抑えておくべきことがまとまってますので
ご一読をお勧めします。

山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)

山でクマに会う方法 (ヤマケイ文庫)


クマは夕方五時三〇分になると決まって”出勤”してきて、場主が帰るのを正座して催促するという。これはみなくてはなるまい。
遠くから双眼鏡で見ていると、ほぼ定刻にクマと場主の、ののしり合いが始まった。場主は座って待っているクマに、なにやら広島弁でどなり、なにかを投げつけている。(p.164-165)

なんというか、コミカルなんだけれども、そのあとやっぱり食べられていて
エグい被害になっているのと、それをまずはただ見ているだけの
筆者の立ち位置とかぱっと見よりもかなりめんどくさい構図ではある。

再びイヌがほえ、クマが体を突き出すことが続いたが、十五分ほどたったとき、クマが頭を突き出すタイミングとイヌが入り口に近づいてほえつくタイミングが運悪く合ってしまった。イヌの頭はクマのつめに手繰られ、がぶりとかまれてしまった。
(中略)
越冬中の親子グマはやはり安全だと、私はこの事件で確信した。母グマは人が穴のすぐそばに立ったとか、のぞき込んだとか、極端なことをしないかぎり穴から出てこない。(p.181-182)

ショッキングな描写もあるけれど、保険外交員のような
冷静さで対応しようと努めていることが分かる断章。

クマは理解可能な動物だ。しかし、それには理解しようとする心があなたに必要だ。あなたがもしクマを怖いと思うなら、それなら心配ない。遠くから見ているだけにすればよいし、避けて通ればよい。クマよりあなたのほうが融通のきく文明人ではないか。(p.234)

他者理解の手つきのひとつのサンプルでもある。

「小山昇の失敗は蜜の味 デキる社長の失敗術」小山昇

意外とよい本でした。
失敗は恐れてはいけないなどと言いますが、そのもう一歩先の話。

失敗してもいい会社、
組織をどうやって作るかということに主眼がある。
実際上司が失敗したっていいと言ってきたって
誰も失敗をしたい人間なんていない。
それにそもそも上司も
「(最悪)失敗してもいい」だったりするわけだし。

そうではなくて、小山は本気で
失敗はしないといけないと思ってるから
失敗させるための工作すらする。
この辺のやり方は賛否両論あるとは思うけど
方向はなんであれラジカルであることは経営者にとって
必須の素養である気がする。

その間、私は、失敗に向かって突き進む彼らの姿を目の当たりにしないように、自宅で昼寝してから、夜の街に出かけて酒を飲むという生活を続けていました。下手に彼らの仕事ぶりを見てしまうと、「ああしたらいい」「こうしたらいい」と助言して、彼らのプロジェクトを成功に導きかねなかったからです。
(P.125)

私は狐塚の名刺に、こんな肩書きを入れさせました。
「部長(タバコをやめたら)」
名刺交換するたびに「いいですねえ」と笑われます。こうしてさすがの狐塚も煙草を断念。
(中略)
この姿勢は経営者として、上司として極めて重要です。こいつが「やる」といったら、絶対に「やる」。まずその姿勢を部下の脳裏に焼き付けるのです。
(P.160-161)

「独学ではじめる税理士試験 合格法バイブル」会計人コース編集部

それなりに色々載ってるんだけど、
雑誌的編集のままコラムしかない感じで
はっきり言って本を作るセンスがないと思います。

ないよりはマシですが、
税理士ってどうなの?って人が読んでもふにゃっ?となりそう。
やる!と決めた人ならつまみ食いでも使えることはなくはないか。

「ポケモンの神話学」中沢新一(角川新書)

中沢新一といえば中学校くらいで虹の理論を読んで
こういうモノを書いて見たいと思わせつつも、
あまりにも胡散臭すぎて直視するのが恥ずかしいそんな作家であった。

今回もポケモンの神話学ということで
胡散臭さは満載ではありますが、
率直に言って氏がポケモンを満喫しているのがよく分かってわりとなごむ。

おおむねフロイトの話で目新しさはないものの、
ゲームとデータで構築された世界に文化としての意味を与えたのは
ひとつの道しるべとして評価できるかもしれない。

消費される対象というだけではなく、
生産される場としてインベーダーゲームから辿っていくのは、
いかにもアカデミズムの手つきだが、
この人は根が山師だからまぁ、いいんではないか。

プレイヤーがおこなうシューティングは、ここでは相手の破壊を意味していない。顕在(リアル)の世界にちょっとだけ顔をあらわしたものを、境界面を超えてまた潜在空間のほうに押しもどそうとするために、シューティングがおこなわれている。
(P.45)

仮想空間の虫取り少年となった私は、「赤」「緑」「青」の三種のソフトのすべてにわたって延べ一〇〇時間をこえる時間を注ぎ込み、捕獲ポケモンも最高で百二五種(小学生の「師匠」たちに言わせると、まあまあの成果だそうだ)に達するまでに、このゲームに打ち込むこととなったのだった。
(p.170)

瀧口範子『行動主義 レム・コールハースドキュメント」

ほとんど分裂症気味に動き回るコールハース
「錯乱するニューヨーク」で自身が描いたように
錯乱を生きているかのようだ。

隈研吾もそうだったが、
現代の建築家とはそのような生き物なのだろう。

しかし、ドキュメントと書いてあるが
ジャーナリスティックなものというよりも
これは徒弟制度における弟子のまなざしを本にまとめたようなものだ。

近くにいることは許されるが
言葉を交わす機会は限られている。
そこで何を盗むか。
姿勢とその足跡、
その手業がその人のものである理由を。

いやはやこれによって読者は
簡易的ながらもコールハースの弟子足りうるのであって
これは素晴らしいことだ。
何せ実際にコミットして、疲弊しきってからでは大変だからね。

建築家としてだけでなく
巨大なビジネスをリードする実業家、
そして巧みなコミュニケーターとしての
それぞれの側面がよく見えてなかなかの良書ではある。

ただ、せっかくなのでもうちょっと
建築についてのフォローがあってもいいかなぁというのは個人的には感想。

「こういう適当な絵を描く人間は、仕事の不満を夜酒を飲みに行って晴らそうとするんだな。そういう不満は、絵を描いていく中で解消できないとダメなんだ」(p.111)

何よりもコールハースは、ある意味では自分の非ネイティブ性を武器にして言葉を巧みに操り、枠にはめられた正しい英語の退屈な言語レベルをはるかに凌駕するのである。(p.204)

近くにいるからといって機会に恵まれるわけではなく、遠くにいるからといって機会に阻まれるわけでもないというのが、現代の世界で起こっていることかもしれない。だがそうしたことが起こるのは、世界が抽象的にグローバル化しているからではなく、コールハースのように世界の都市をコネクトする人物が存在しているからだ。(p.221-222)