ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「未来をつくる言葉」著:ドミニク・チェン

軽やかなエッセイでありながら真摯に問いと向き合ってきた軌跡が感じられるよい作品だ。

Webサービスやアートとしてのインスタレーションなど
様々な事績が語られているけれども、どれもコミュニケーションのデザインにかかわるものであり、
タイトルに「言葉」と入っているのもそういう視座を示したものではある。

「言葉」は日仏英のトリリンガルの状況であったり
ぬかボットとの対話であったり、娘の言葉の習得であったり
コンピューター言語であったり、様々角度で取り上げられて確かに中心的なテーマのひとつであろう。

そういう視点で読んでもいいとは思うけれども
とはいえ、最後の方で語られる言葉の時制を超えた働きに一番の注目点があるものであり、
単行本になる前のタイトル「未来を思い出すために」の方が企図がはっきりすると思う。
(同じ本をかぶって買ってしまっていた妻も同意見だった)

ここにあるのは運命論的なことではなく、
すでに未来が、芽吹かないままであっても、ここにあることへの確信であり、
この場合の未来とは「あなた」のことである。

言葉はそもそもがここにないものを示すために空間に投げ出されている。
「あなた」とは「わたし」がたどり着けない領域のことで
その距離が縮まるということはない。

しかし、「言葉」は「あなた」へのよすがとなる。
そして、「言葉」は時間を持たずに水のしずくのように広がる。
よって「言葉」を媒介に共に時間を過ごすことが可能になる。

他者性を扱うときには、その到達不能な奈落を前に暗鬱なトーンが入りやすくもなるけれど
チェンはあくまで実践から入っていくオプティミストであって、
訪れるものとして他者を待つのではなく、自ら迎えに行くように動いているのが印象的だ。
そして未来を思い出すこと(あるいはつくること、又は迎えること)は
彼の試行錯誤を見れば、必ずしも特別なことでないことがわかるだろう。

この馬をあげる、というのは、持って帰れ、という意味ではない。君たちが再びここを訪れる時には、君たちが自由に乗っていい。それまで、この馬を手放さずに面倒を見るから、(p.213-214)

モンゴルに新婚旅行に行った際に、滞在先の家族と仲良くなった時に
馬を贈られるエピソードは2番目に好きな挿話だ。
1番は娘の仏語習得のために頭を本当にぶつけて忘れたふりをするくだり。