ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『アイデンティティが人を殺す』著:アミン・マアルーフ 訳:小野正嗣

アイデンティティという言葉が市民権を得たのはさほど古いものではないでしょう。
一方で、すでに古くなっているような気もします。

今ならダイバーシティと呼ぶような気がします。
私のアイデンティティの問題ではないという立ち位置を取ることで
問題の先鋭化を避けるような振る舞いから出てきたのではないでしょうか。

タイトルは非常にセンセーショナルな言葉ですが
実際のところアイデンティティには
人が強く固執して、対立を鮮明にしてしまうような力が働いているのは間違いのないところでしょう。

本書はあくまでエッセイとしての書き振りをすることで
アイデンティティを中心に回りながらも
本来の目的を達成することを忘れないように進んでいきます。
それはアイデンティティを二重三重の帰属もあるとした上で
それぞれの誇りとともに生きていくことができる社会を構想することです。

この本の中でとても優れているのはこのような地点への探索に向けて
危険なテーマをあっさりと触れないようにする手つきでしょう。
僕はその振る舞いの中に解決する決意の誠実さを感じました。

即効性のある解決策などあるようなものではありませんが、
考える土台の地平としては良いですし、
彼が避けたエリアもきちんと押さえると地雷マップとしても考えられます。

アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自立したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。(p.36)

この二重性はしかし、個人というもののあり方でそのものでもあり、
クリプキの名指しに関わる話を思わせるものです。
そのことを指摘する含意は、アイデンティティの問題は
近代に生まれた問題のようで、ほとんど原初からあったであろう問題だということです。

誰であれ、本を開くたびに、画面の前に座るたびに、議論し考えるたびに、「故郷から離れる」気がするようなことがあってはなりません。誰もが近代を他者から借用していると感じるのではなく、近代をわがものとすることができなければならないのです。(p.161)

これは宿題だ。
しかし、借用という概念をポジティブに持っていくことは何かできそうな気がする。

『イスラエル』著:臼杵 陽

イスラエルパレスチナ問題とあわせて語られる事が多いと思うが
本書は新書というスペースの中で、イスラエルという国そのものを
なるべく大枠から伝えようとしてくれている。

そもそもの成立の仕方自体が
特殊な国だという気持ちで見ていると
特殊な場所の特殊な出来事のように見える。

いや、そうなのかもしれないけれど
どの点がどの程度特殊なのかということを考えにくくなってしまう。
しかし、人がおり、社会がある。そこは変わらない。

イスラエルは国民の統合をユダヤ教に委ねているわけではない。
ユダヤ教によって統合されている、
という人々もいればそうではないという人もいるし
ユダヤ教が根底であるが、アラブ人を排除する必要はないとする立場もある。

同じユダヤ教の中にもヨーロッパからの移民(アシュケナージ)と
アラブからの移民(ミズラヒーム)での立場の違い。
移民する時期の違いもあるが、
その多くは外面的な特徴の違いがあるだろう。

イスラエルで起こっている出来事は決してイスラエルだけの問題ではない。
いずれ同じ問題を解かなくてはいけない時が来る。
政治的、経済的な繁栄はそうした問題を解く時に猶予を与えてくれるというだけだ。

イスラエル (岩波新書)

イスラエル (岩波新書)

  • 作者:臼杵 陽
  • 発売日: 2009/04/21
  • メディア: 新書

社会主義シオニストマサダ砦の玉砕における集団自決を、降伏せずに最後まで戦った国民的英雄行為の事例として称賛した。イスラエル版の「伝統の創出」である。(中略)
マサダの防衛戦でのユダヤ人の勇敢さが、ヨーロッパのユダヤ人がホロコーストに直面して戦わずして死を選んだという「不名誉」な受動性と対置されていることは明らかであった。(p.72)

これは全く思いもしなかった視点であるが、
勇壮さは統合運動と相性が良いのであろう。シオニズムはそのような積極的な側面があると。

和平の挫折は結局のところ、和平の果実の分配に与れずに不満を蓄積した貧困な社会層が、和平に反対する右翼勢力を選挙で支持したためであり、労働党貧困層の不満に目を向けることができなかったからであった。「和平の配当」に与れなかった社会集団の代表が、貧しいミズラヒームであった。(p.191)

弱いものが優先されることは合理的な配慮をすれば当然ありえない。
大多数を占めるものの利便性を図ることは、もっとも効率が良いはずだから。
しかし、それでは社会は自らを危うくすることでしか変われない。

『冷血』著:トルーマン・カポーティ 訳:佐々田雅子

書名は聞いたことがあってもよく分からず読んでみた。

ある事件のノンフィクションということだが、
文体はとても小説的でとてもよく練り上げられている。

具体的な叙述が多いのはそれだけ具体的な内容にあたっているからだが、
主観的であるような言葉が露わになるのはそれだけ
直接の聞き取りを行ったからだろう。

事件のノンフィクションだと中立性や真実性を際立たせるために
警察の取調べ記録や法廷での裁判記録などを中央に据えることもあろうが
この本の場合はそういったものが存在する前に作られたような感じがする。
無害化される前のなるべく生に近い物語を作りたかったに違いない。

この物語には「何故」という視点はない。
しかし、それだけにただ悲しいだけの事件にも
気を惹きつけられるような挿話が多くある。

ただただ人生は、
そうでなければならなかったということはないだろうに
取り返しのつかない事が多すぎる。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

ラップ家はローマンカトリックだったが、クラッター家はメソジストだった。娘と少年がいつか結婚するという夢を抱いていたとしても、その事実だけで夢を断ち切るのに十分な理由になった。(p.21-22)

アメリカはカンザス州、1959年。時代の風俗的なものもしっかりと描かれている。
農業がメインの穏やかな街での事件だった。

彼女に対する態度を一貫させ、貴兄が弱い人間であるという彼女の印象に何かを付加するような真似はしないこと。それは、彼女の善意が必要だからではなく、このような書簡が今後もくると予想されるからであり、そして、それらの書簡は貴兄がすでに有している危険な反社会的本能を増幅させるばかりだからである。(p.267-268)

これは事件を起こした犯人の姉からの手紙を紹介した上で、
それについての刑務所仲間からの批評をそのまま掲載している。
単にシニカルというよりも根が深くねじれたものを感じる。犯人に対してか、または著者に対してか。

『鬼速PDCA』著:冨田和成

PDCAをきっちりやるには継続性とテンポが両立しないといけない。
継続できなければ、フィードバックのないやりっ放しになるし、
テンポが遅すぎれば、チェック機能があっても手遅れ状態からしかできない。

本書はその2つの点をきっちり抑えて
どのように整備していけばPDCAを具体的に回せるかを教えている。

いつの時点で読んでもそれなりに役立つと思うけれど、
できれば就職前に読んでいた方がいい。
なんなら、大学受験前くらいでもいい。

本当にやりたいことを書き出してからの
PDCAへの落とし込みなんてのは
薄ぼんやりとした雰囲気で大学を選んでた
自分には読ませてもよかっただろうなと思う。
(別に大学に不満があったわけではないが)

もっともPDCAの前の時点で自分自身のしたいことに気づくというのは
簡単なようで、意外に難しいので、そこはゆっくりやったらいいんじゃないかと思う。
日頃の仕事をチャキチャキPDCAで流しながら、ね。

鬼速PDCA

鬼速PDCA

こうした思いはPDCAサイクルにおいては検証の対象とならないし、よく見かけるPDCAサイクルの図にもまったく反映されない。
 しかし、実際にPDCAを回すときにこうした思いは、それを回し続けるモチベーションの源になる。だから定性的だからと言ってわざわざ切り捨てる必要はない。(p.68-69)

ツールを紹介する時に限界について確認されているのは、誠実もしくは、良心的であることを示していると思う。

検証フェーズに入ったときは仮説に自信がある人ほど謙虚に、自分を疑ってかかることが重要だ。
 さもなくば、他の可能性が視界から消えてしまう。(p.200)

この辺も落とし穴について書いている。少し大袈裟すぎるタイトルではあるが、
その実、どちらかというと細やかな配慮をする人間が書いたのではないかと思う。

『子どものための文化史』著:W.ベンヤミン 訳:小野寺昭次郎、野村修

ラジオ放送用の原稿として書かれた本書の断章たちは
普段の彼の占星術士のような予感に満ちた文章とは趣が違うけれども
優雅にエピソードを渡っていく手つきは、どれも惚れ惚れとする。

ドイツ、というよりはベルリンについて語られるその空気は
日本ではなくて、東京が固有の磁場を持っていることを踏まえて
現れている文化放送にも似ているような気がする。
まーどっちも聞いとりませんが。

しかし、子どもと文化というものの距離といえば
どんどん切り離しがいものになるでしょう。
私たちの出生率は下がり続けて、成人になるまでの時間は長くなっていきます。

遺伝子を中心に進化を語ろうとすれば、
人間の進化が多様になる可能性は低くなっているし、
将来に渡って変化していく速度も遅くなっていると言えます。

それでも、人間は未だしばらく環境の変化に適応しながら生きると思われるのは
遺伝子によって環境に適応するのではなくて、
文化と技術によって適応するからです。

技術は直接的に必要なものであればほとんど
自動的に保守の動きが起動します。

しかし、人間の社会のパターンを形作る文化は語られなければ残りません。
しかも魅力的でなければならないのです。
ベンヤミンは意識的に語られなければ忘れられるだろうテーマを選んで
王冠を授けるように(もちろんそれは子ども向けのサイズだが、しかし、儀式としては本式で)
電波に乗せて届けていったのだと思う。

扱われたものは
ジプシー、ドイツの昔の強盗団、ブートレッガーたちなどのアウトロー
リスボン地震、広州の劇場の火事、一九二七年のミシシッピー川の氾濫などの事件・事故。
それから最後にベルリンの方言、ベルリンのおもちゃの旅などのベルリン風俗。

どれもこれも強い印象を与える。
フラッシュを焚いた瞬間の明るさを感じた後に残る映像のように
読み終わった時には、現在の像とすれ違いながら重なるものにそれぞれの感じ方が現れると思う。

ブートレッガーたちが彼らの酒類を確保するために、ありとあらゆる手を編み出したことはあきれるばかりである。かれらは警察に仮装し、ヘルメットの中にウィスキーを忍ばせて国境を越える。かれらは葬列を仕立て、柩のなかに酒瓶を詰めこんで、国境を通過する。かれらはゴム袋でできた下着に酒をみたして、それを着込む。かれらは酒の小瓶を仕込んだ人形や扇を作らせ、それらをレストランで売らせる。そうこうするうちに、雨傘や写真機や靴型といったいかにも無害な品物の中にも、ウィスキーが隠されているのではないかと、税関や警察が気を廻すようになった。(「ブートレッガーたち」p.119)

禁酒法は誰のためにあったのか、何かを禁ずるという時に何が起こったか。
面白げなエピソードだけれど、ほとんどゼロ距離だね。2020年と。

ライプツィヒからドレースデンへの鉄道が通じたとき、これに対して、ある粉屋が訴訟を起こした。風車への風が鉄道によって奪われる
、というのだった。(「テイ川の河口での鉄道事故」p.158)

テクノロジーの一番初めの恐怖は滑稽かもしれないけど、皆真剣だし、
実際にやってないことの問題は、やってみるまで分からなかったよね。

その頃中国の皇帝は、異常に高い家々の絵を初めて見せられたとき、かれはひどく軽蔑的に言ってのけた。「ヨーロッパはひじょうに小さい国にちがいない。だからそこの人間たちは地上に住むだけの場所がなくて、空中に住まなければならぬのだ。」(「賃貸集合住宅」p.301-302)

土地があっても、高層建築になってしまったベルリン。
だから皇帝のこの言葉は的外れなのだけれど、僕らもきっとそう思ってしまうだろう。

『ワールド・カフェをやろう!』著:香取一昭、大川恒

ワールド・カフェというのは
多人数型のワークショップに近いミーティング形式のことです。

ミーティングの参加人数が多い場合に
意見が偏ってしまったり、
参加者のコミットメントが下がることに
課題感を感じることがあると思います。

ワールド・カフェは
テーブルを分散した上で意見を出しやすくしつつ、
複数のラウンドに分けて、
テーブル間移動を促すことで意見の広がりを得ようとするのが特徴だと思われます。

ただ、広がりを得ることが目的なので
課題探索のシーンで使うことをメインで考えるべき手法でしょう。
また、このようなフレームだけでなく
楽しいリラックスした雰囲気づくりも推奨されていて
参加する分には楽しそう、やるのはちょっと大変そうな感じかな。

ワールド・カフェをやろう

ワールド・カフェをやろう

人は他人に共感してもらえると、自分が大切にしている価値や自分に対する価値を見出すことができます。逆にこのような会話がなければ、人は生命としての躍動感を持って生きることはできません。(p.44)

正直、筆は滑り気味だと思うけれども、
基本思想としてはこう。

『春宵十話』著:岡潔

数学者の書く数学の本は読めないのだから
こういった本を読むことになる。

だいぶ戦前の道徳的すぎるところが
鼻についてしまうけれど、
真理に向かおうとする時の進み方は特徴的で面白い。

コツコツした積み上げよりも
ハーモニーに近い捉え方で証明を得ようとしているようだ。

過去の学説を改めて解く時に
現代の方がおよそ簡単に解けてしまうのも
その調和の度合いが高まったからだと説明する。

分かるようで分からなない話だけれども
人類の積み上げてきたものだという過去の人への尊敬と、
未来に渡すものの意味合いということが感じられて
いかにも真面目な人であったろうことはわかる。

1963年刊行という戦後の雰囲気の
ひとつとしても面白く読めるかもしれない。

今はギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。(中略)月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです。(p.193)

人間の大切な部分が眠ると、
動物に近くなると多分岡潔は考えている。
けれども、別の動物になる可能性もある。
それはさておき、こういう超然とした感覚で学者はいた方が面白い。

日本は滅びる、滅びると思っていても案外滅びないかもしれない。というのは、日本民族は極めて原始的な生活にも耐えられるというか、文明に対するセンスが全くかけているというか、そういうところがあるので、自由貿易に失敗して、売らず買わずの自給自足となっても、結構やっていけそうにも思えるからである。(p.153)

さて、今はどうか。
存外そうかもしれぬが、個人的には嫌だ。絶対に嫌だ。