ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「寿歌」作:北村想、演出:宮城聰

初演1979年の作品の再演である。
何を今更という感覚はあるかもしれないが、
シェイクスピアをやれるのなら大した問題でもないか。

20年以上前になるが、中学校くらいに
北村想のプロジェクト・ナビをよく観に行っていた。

大げさではったりの効いたチープさや、
朗々たる長ゼリフ、場面転換の暗がりをゆったりと動く影
それら演劇的なものすべてに魅了されていた。

久しく劇場というものから離れていたけれども、
懐かしさを恃んで名古屋に行ってみた。
(2018年3月14日昼公演)

終末の世界にゲサクとキョーコの旅芸人コンビと
行き倒れのヤスオの三人。

ヤスオはヤソ=キリストと明らかに引っ掛けている。
半裸に布の服装もなんとなくそれっぽい。
あからさますぎて脱臼させるつもりのようにも見えるが、
BGMにキリエがかかっているので、割とガチなんだろうと思う。

しかし、ヤスオ自身に聖なる奇跡は特に起きない。
ポケットにいれたモノが増える特技をもっているが
奇跡というより手品の類として消費される。

ゲサクは撃たれて蘇るし、キョーコは処女懐胎するし
そっちのほうが余程奇跡じみているが、それらは
クローズアップされない。
なぜならそれは拒否されることもないけれども
積極的に求めたものでもないからだ。
彼らは次の街に向かう以外のことに目を向けていない。

終末の世界というのは単純に世界が戦争で崩壊したというよりも
歴史の終焉にともなう意味の不毛化が反映されたものに見える。
日本の局地的な面で言えば安保闘争は終わり、バブル経済へ向かう。
世界に関わることを諦めたシニカルなシラケ世代が
現れてきた時代に本作は書かれている。

ゲサクは当然戯作のことだろうが、それが旅芸人であるというのは、
「あんまり小難しいことをおっしゃらないでください」というポーズには違いない。

実際に思わせぶりなパートよりも、旅芸人としての見世物と
「発作」としての夢遊病的チャンバラごっこのほうがボリュームはある。
(個人的にはもっと大げさにしてもらってもよかった)

ただ、それは単にシニカルであるというよりは
見世物にこそ賭けるべきものがあるというか、
そこにすでに賭けてしまったから見て行ってもらうしかねぇべよ、
という感じの開き直りなんだろうと思う。

だから、これで人生のなにかを考えたり
世界の行く末を考えるのはまぁ自由だろうけど、
単純に見世物を面白がることのほうが先なんだろうと思う。
そして、これは一種の芸術至上主義であって、
なんというかナイーブなおっさんだと相変わらず思う。

寿歌とは、しかしここまで述べてきたどこにもないものだ。
祈りと見世物の空白地帯に歌うべき歌はある。
響く伸びやかさはその振れ幅の広さに依るのかもしれない。