ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「シュメル神話の世界」著:岡田明子、小林登志子

シュメル神話についての予備知識はまったくないが
おとぎ話の詰め合わせとしてまずは読ませてもらえる。

ギルガメシュと言えばビッグブリッジの死闘
怪しげな深夜番組かと思っていましたが、ここで出てくる
英雄の名前だったのですね。

半神半人の英雄は神話の世界ではありふれていて
王権の正統性の源泉をこうしたところに
持たせることができるので、ギルガメシュもそうした英雄の一人のようです。

ギルガメシュの冒険の話も面白いのですが、
個人的にはイナンナが戦いと愛と豊作の女神とされつつも、都市に着く神である
というのが一番のふむふむポイントですね。
というのも神は理念や現象に結びつくことが多いのですが、
それは不変であり普遍であるからです。

神が滅びてしまうかもしれない都市につく、その帰結としての物語も
ちゃんと用意されています。
都市が破壊されて異民族に占領されて嘆くイナンナに
「神々が合意して決めたのだから、その国を捨てなさい」と諭すのです。
そして、また別の王権の都市として復興するだろうと。

ここには政治とは別にそこに暮らす営み自体は
なくならないという諸行無常な都市住民の信仰心が見えるようです。

他にも黄泉の世界への冒険などお約束な物語も含めて
色々詰め合わせで、お得感のある本に仕上がってます。
(しかし、これもまたバチっとした理論はないのよね。
ケレーニイあたりとか読まなかんかね)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

エンキ神は女神に(引用者注:イナンナ)「喜ばしい声で語る女性らしさ。優美な衣装と女性の魅力。女性らしい話術」を授け、さらに「戦場では卜占によって吉兆をもたらし、また凶兆をも伝えさせよう。真っ直ぐな糸をこんがらかせ、こんがらかった糸を真っ直ぐにするのだ。滅亡させずともよいものを滅亡させ、創造せずともよいものを創造させ、哀歌用のシェム太鼓から覆いを外させよう。乙女イナンナには聖歌用のティギ太鼓を家にしまわせよう」と約束した。(p.94)

この対句的な表現や、列挙は神話によく見られる表現手法だけれど、
これは言葉の意味合いを「対句である」や「同クラスである」と言った
統語法的な制約から字義をより正確にしていこうとする作用もあるように思う。
ただ、結果あらゆるものの女神になってしまいそうだが。

神話とか昔話の多くは「天地の分かれしとき」とか「むかしむかし」のように、漠とした表現でも「いつ」のことから話がはじまる作品が多い。ところが、『エンリル神とニンリル神』はそうではない。
「都市があった」(シュメル語で「ウル・ナナム』)とはじまる。(p.142)

この歴然たるシティボーイとしての自覚がすごい。
4000年前、最古の文明ではありますが、
文明とはこの人の集積によって物語が始まったのだと言うのは
かえって徹底したリアリズムのように感じます。

最初に言葉があっても書き留められなければ、かき消えてしまう。
その意味で言葉の前に都市があった。

「ボン書店の幻」著:内堀 弘

とある詩の出版社として短い間に印象を残した個人の肖像です。
著者が古書店主でもあり、装丁や書誌情報の流れは
網羅的でツボを押さえており、図版も充実していて
それを眺めるだけでも楽しい。

ただし、後書きがズルすぎる。

表には出なかった人だから直接に聞き書きをするわけではない。
各種出版物の足跡や、交友のあったであろう人への取材、
他の同人誌への寄稿や出身学校へのアプローチなど
著者の取材は熱意を持って、近づこうとしていく。

けれど、1930年代に活動していた小出版社の
一人事業主なんて足取りが掴めなくても当然である。
結局生まれなどもはっきりしないまま、
おそらく最後の住まいになったであろうところを訪れて終わる。
これだけでも十分に力作なんですけれど、ね。

冒頭に申し上げた通り、後書きがズルすぎるのであります。
初読のときはうっかり後書きから読まないようにしていただきたい。

それにしても日中戦争も始まっている中で、
詩人は詩をこねくりまわしていたのだという事実。
別に希望を見出すようなことではなくて、
そうするしかできない人たちはやはり、そうしているのだな、と思う。

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)

『ウルトラ・ニッポン』の同人消息にも鳥羽はふんわりしたオカッパ頭で女にもよくもてると紹介されている。もちろん、陰鬱なオカッパ頭もいていいのだが、ここでのイメージはとても軽やかだ。(P.56)

プロデューサーたるもの軽薄でなくてはならない。
そういう気がする。

「神の民俗誌」著:宮田 登

これは本書の後書きにも書かれているが、
いまだまとまり切ってないまま研究ノートを提示されたような本だ。

とは言っても、新書ならそういうことがむしろ挑戦として許されるのだから
向いてる方向さえ意識できていれば問題はなかろう。

そして、この本はケガレと血/出産の関係性、
ハレとケ、ケガレ、この関係性の揺らぎを見つめようとしている。

まず、ケがあり、ケガレという
危険な状態を経てハレによってケに戻す。
そんなサイクルが示唆されている(p.97)

そうであるならば、ハレとケは対立概念ではなくて、
ケとケガレの二択の状態説明があってそこに介入する要素としてのハレということになるし、
サイクルとしてハレが定期的に用意されるのはケガレが
遠ざけたいが避けられない出来事であることを示しているだろう。

女性蔑視に結びついたと批難されることの多いケガレの概念だが
少なくとも始まりは差別のために編み出されたのではないと思う。

気は生命を持続させるエネルギーのようなものだろう。その気がとまったり、絶えたりすることも、「穢れ」だった。そしてこれは死穢に代表されるものであり、不浄だとか、汚らしいという感覚はそこにはないのである。(p.99)

(大事なのは差別のために考えられた訳でないものが、
差別につながることがあるということを直視するほうだろう。
しかしこれはこの本から離れすぎている。)

この後、山の民と平地の民の交流からどのような相互作用があったかなどの
記述もなかなかに興味深い。
それらをキャッチボールする中で女性の立ち位置が
不自由なところに押し込められているようにも見えるが、
さて、その辺は後に続く研究家もそのうち出るかな。

研究としてのまとまりは弱いけれど
伝承と人々の風俗にしっかり寄り添う姿勢は最後まで貫けていると思います。

神の民俗誌 (岩波新書)

神の民俗誌 (岩波新書)

ところで、誰でも知っていることだが、夫がごく親しい友人仲間同志の会話の中で、自分の妻を「山の神」とよぶ場合がある。とくに悪意をもっていうわけではないが、何となく軽んじているようでもある。愛称とでもいってよいが、さりとて妻の前で、「山の神」とよびかけることはない。男同志の会話の中で妻を呼び捨てにするのである。(p.52)

そう言えば小さい頃に一度だけ耳にしたことがあることを思い出した。
しかし、今「山の神」など生きていないだろう。生きていたら
駅伝選手のことをこう呼んだりはしないからだ。

ネット上に墓標を建てたくてここに引用する。

「財布のつぶやき」著:群ようこ

久しぶりに名前を見かけたので手に取った。
思えばこの辺の気楽なエッセイ本は
椎名誠原田宗典、とならんで僕が本を定期的に読み飽きた時に
それでも完全に文字から落ちないためのセーフティネットみたいにあったわけで
つまるところ、ちょっと疲れていたし手に取った。

開けてみれば期待を裏切らないお気楽ぶりで
けなすのではないけれど、いい具合に頭がよろしくない。

とことん直感的で反射的な言葉の連なりだけれど
裏表なくてあっさりしているので、それがこの人のいいところだ。

まぁ、しかし、ご家族の不満は洒落にならなくなるから
愚痴にするのはよしたほうがいいかな。
作家ならもう少しこじれて問題になってから書いた方がいい
というのは僕が性悪すぎるんだろう。

面白いおばさんなので長生きしますように。

財布のつぶやき      (角川文庫)

財布のつぶやき     (角川文庫)

ホームレスのおじさんがにこにこして近づいてきて、無言で私のコートを撫で、またにこにこしながら去っていったことがあった。私はびっくりして立ちつくしていたのだが、気に入って買ったもので、
「おじさんもこのコートを見て、触ってみたくなったのに違いない」
と嬉しかった。(p.58)

このオプティミスティックを通り越した感じ、すごいよね。

組み立て式のダイニングテーブルの金属製の脚がどうしても気になってきたので、木製の脚のみを購入しようと探してみた。メープル材の天板にぴったり合う色ではなくても、私の短い足に合わせた座面の低い椅子のために、脚の長さが短めのものを探した。天然木でちょうどいいものを見つけ、早速購入した。すぐに脚は届き、一人で天板をはずし、購入した脚の上にのせた。私のイメージでは、今までの金属と木といったモダンなタイプではなく、木製の素朴なテーブルができあがるはずだった。ところがただ高さを低く、木製の脚にしただけなのに、デンマーク製の天板なのに、シンプルな形の脚なのに、テーブルがおいてある場所の雰囲気が、一気に居酒屋になってしまったのであった。(p.126)

どうしてうまく行くと思ってしまったのか。
自分で脚だけ変えるとかハードル高すぎることを果敢にやってものの見事に失敗する。
この人の時代にYouTubeがあれば一角のチャンネル持ちになったであろう。

「宅配がなくなる日」著:松岡真宏

今、かなり荒波にもまれている小売、流通業界についての分析だ。
サービスにおいての同時性を排することで
宅配の形が変わるということを言っているが、
正味なところ「同時性」という言葉の定義は甘い。
「時間価値」も何を指しているかはだいぶ恣意的になっていると思う。

最終的に配送されるモノと受け取る人は同時にある。
同時でないのは「サーブする」という動詞である。
動詞と名詞の時勢が一致しなくともヒトとヒト、ヒトとモノが出会うことが肝である。

それはどのように解消されるかと言えば、
動詞のアーカイブ化と、需要側からのアクティブな
マッチング行動をサポートする技術だ。

ここまでは本書と僕の意見は現象の分析として大差はないけれど
終章にいたって、妙なところに希望を持たせようとする
コンサルさんみたいな話ぶりになってしまう。
っていうか、動くビジネスパーソン以外の生き方にも価値を持たせられるのが
動詞のアーカイブ化だと思うし、結びつけて価値を高めるのは
実は消費者側の嗜みとして新たな領野を拓いていくのだと思います。

とはいえ、実地で経済を見ている人らしく実例はしっかりとしていて
アマゾンゴーの画期性を今更知ることもできて有意義でした。

宅配がなくなる日 同時性解消の社会論

宅配がなくなる日 同時性解消の社会論

カラオケボックスは、カラオケを歌う場所ではなくなった。(中略)
今後は、時間と空間をこまぎれにして他者とシェアリングすることが生産性を引き上げる時代であり、それが結果として消費者の時間価値を引き上げることとなる。(p.138)

カラオケは確かにそのように扱ってる時もあるなと思えば
カーシェアリングでも同じ事態が起こっているらしい。

こうした営業マンのお悩みの解消として、カーシェアリングが使われ始めている。自分の現在地はスマホですぐに確認できるし、そこから最も近いタイムズカープラスの拠点を検索して、30分車を借りることができる。もちろん、スマホでの予約が可能である。現在の価格設定は15分で206円なので、30分借りて412円払ったとしても、カフェ代よりも安いし、密室空間なので大声で電話をすることもできる。何より、他人がいないので静かに仕事ができる。

なるほどね。

「人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?」著:山本一成

将棋の名人を破ったポナンザの製作者が書いたものだが
かなり読みやすく整理されている。

まず、コンピュータは
記憶と簡単な計算しかできない、という
前提から入っているのもいい。
しっかり初心者の視点を押さえてくれている。

自分より優れたものを生み出すために使われている技法は
専門的なようでいて、似た形で
我々自身が自分を教育している方法にも共通するポイントが感じられる。

丸暗記では応用が効かない。
ひたすら実践を繰り返すのもいいが、固定化してしまう恐れがある。
抽象化して捉え直すことで応用力の高い判断ができる。

こういう捉え方をしていると、まだ人間のモノサシで考えているわけだが
もっと考えられないようなやり方で変わっていくことで
進歩のペースは速くなっていくのかもしれない。

まぁ、しかし、巻末を読んでいると
ポナンザによって開拓されたフロンティアで
より人間の将棋が広がったことへの期待感が強く表れている。
製作者の将棋への愛情が感じられるのがこの本のよい所かもしれない。

「サイコロには知能がない」というのは、「脳内のニューロンが、隣のニューロンに信号を伝えていること」を知能がないというのと、私には一緒のことに思えます。この世界には、私たち人間以外の知能が存在するのです。(p.147)

この最後の一文をポジティブに、かつ当たり前のこととして考えることは
僕らが善く生きるためにもよいと思う。

人工知能は、私たちからさまざまなことを学習していくでしょう。倫理観もその1つです。そうなると試されるのは、人類自身ということになってくるのではないでしょうか?(p.198)

なるほどと思える一面と、倫理は人間の中で
何故発生できたのかということを考えないと、
彼らは別個の倫理を持ちうるのではないかという疑義はある。

「最高殊勲夫人」著:源氏鶏太

昭和軽薄体の母体になっているような文章で書かれた
ガッチガチの王道ラブコメで今更驚くようなことは特にございません。

ただ、このサラリーマン社会と家社会の
濃厚な昭和感は久しぶりに感じたもので
もはや資料的な価値があるとすら言えると思います。

ご都合主義的な展開なので、
あからさまな当て馬がいっぱいいてもやっとする人はいると思う(笑)

ただ、この人、1912年生まれで
1930年から会社勤めしながら小説を書き続けて1951年に直木賞をとって
本作自体は1958年からの雑誌で連載したものです。
戦争をくぐってここまで影のない作品を書くのは
かえって信念の人ではないかと、これしか読んでないけど思うのです。

最高殊勲夫人 (ちくま文庫)

最高殊勲夫人 (ちくま文庫)

隅におかれる娘よりも、隅におけぬ娘の方がいいような気がしていた。これからの娘は、大いに、隅におかれないようにしなければならぬのだ。堂々と真ン中に出ることである。(p.85)

こんなこと書いてあるけど、フェミニズムの人が見たら
ツッコミどころは多いと思う。ここでの意味合いはせいぜい主役として
前に出ることであっても、意思を行使するとかいうこととは無関係なのよね。

「いえね、奥様。今や、杏子さんは、家中で話題の中心でありまして、それで、昨夜、大島からご主人に、今後のご交際を許していただくようにお願いしたんですよ。」
桃子はいらいらしていた。千代子夫人は、見かけの十倍くらい、ふてぶてしい女に思われて来た。ニコニコしながら、自分のいいたいことは、全部、いってのけている。(p.160)

こういう会話は強い。どんな人が話しているのか見える。
それにしても、自分の旦那を苗字で呼ぶなんてのは今ではもう聞かないなぁ。
下々のものだからかしらんけど。