ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「数学する身体」著:森田真生

数学が何かというよりは
数学とはどこにあるのかという問いに近い本。

全体的に論旨はやわらかく、妥当なところだとは思うけれど
正直に言って小林秀雄賞という名前からあの人の圧力をイメージすると物足りない。
(ま、本人は別にそれに寄せるつもりもないんだからいいんでしょうが)

もう少し、一歩ずつ踏み込んでもいいのだけれど、
それは数学者らしいはにかみなのだと思う。

彼らは真理や公理を崇拝するので近づきたいと思いながら
急に睨みつけてしまうような無作法だけはしまいと気遣う者たちではあるから。
そうやって、数学と心を通わせるということは
世界そのものと心を通わせることである。

個人的には人間の条件に関して無前提のものがありそうなので
おそらく突き詰めれば僕はそこで反発することになるだろう。

数学する身体 (新潮文庫)

数学する身体 (新潮文庫)

チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を進化的に獲得していたのである。
物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。(p.38)

とある電子回路をコンピュータの自己学習によって最適化させた時の描写である。コンピュータの感受性というものもあり得そうな感じで面白い。

ダニの比較的単純な環世界とは違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的環世界」こそ、人が経験する「風景」である。(p.129)

動物の生態学などで、ここについては現在異論を差し挟めるはずである。
これが人間の特権でないことを認めてから先に進めないといけない。
というか、僕としては人間概念は解体したいのだよなぁ。

「記憶の未来」著:フェルナン・ドュモン

「記憶」と「未来」とはいかにも奇妙な取り合わせである。
しかし、これ以上に今焦点化されるべき問題もあるだろうか。

「物語の共同体」以降、標準の言語、教育は焦点化されて
それらがネーションを作っていること自体は明らかになっているが
無論、それは善悪の判断を伴うものではない。
規格化によって近代化の恩恵をより多く受けられるようになる面もある。

一方で周縁のマイノリティの同化政策という暴力は
フーコー的な生権力を駆使して浸透していく。
しかし、デュモンが問題化しているのはこの問題系ではない。

デュモンはカナダのケベックにあって
フランス系社会を救済しようとしたプロジェクトに関わっている。
この社会はケベックにあってマジョリティであり、
カナダにあってマイノリティである。

このような状況ゆえに、デュモンは権力の不均衡という定数を外して
フラットに記憶と社会を結びつける探求を行う。
多くの誠実な探求がそうであるように本書も性急な答えを持ち出すことはないが
今後も参照項になり得る種が蒔かれているのは間違いなのないことだと思う。

記憶の未来:伝統の解体と再生

記憶の未来:伝統の解体と再生

トクヴィルは、先見の明で私たちのリベラル・デモクラシーの逆説を見通しながら、匿名で柔和な全体主義的な権力の出現を危惧すると述べている。この権力は、「思考する辛さと生きる痛み」を人間から完全に取り除いてくれるような形で、人間の幸福を保証してくるのである。(p.36)

こちらはセルジュ・カンタンによる序文からの抜粋。
この自由の敵に対して明確に抵抗しながら本論は進められる。

今日の個人は、かつての人間とは比べものにならないほど、巨大な社会の全体の動きに巻き込まれている。しかしながら、経済的、政治的、文化的な生産の主導権をほとんど握ることができていない。(中略)匿名のアトムとして状況に埋め込まれているような人間が、どうして自分の参加を必要としていないものを、わざわざ自分の記憶に統合する努力をするだろうか。(p.84)

率直にして、厳しい視点だ。
また、誰も迫害しないうちから、
つまり加害者もいないのに被害を受けた文化だけが増殖しているような絵図である。

私たちがその存在を予感している伝統は、古い伝統の繰り返しではない。今後、歴史のなかでじんるいのさまざまな伝統を解読するということは、それらの伝統を受け入れるのと同じ程度においてそれらを推進するということになるはずだ。記憶は作業が行われる現場となった。(p.120)

行為の現場こそが記憶を回復するという視野から「ユートピア」は描かれる。
しかし、ここは目指されるべき地点の一つではあるだろう。

「帳簿の世界史」著:ジェイコブ・ソール

ひと昔前、武士の家計簿がヒットしていましたけれど、
どうやってお金を使ってきたかというのは誰しも興味があるものでしょう。

本書は会計が生まれたローマ時代から現代までの歴史を紐解くものだ。
中世の宗教的規範と会計のマッチングの問題や、
18世紀に株式会社がすでに投機バブルを引き起こしていたこと
19世紀初頭のイギリスにおいても国家予算は収支を合わせられなかったこと、
興味深い事例に事欠かない。

明らかに必要であるにもかかわらず、その重要性ゆえに
すぐに打ち捨てられてしまう。

正しく会計を把握することは大きな組織を運営するのに特に重要だ。
しかし、その重要性とは特に問題や不調の発見に役立つのであって、
誰かが責任を負わされる類のものだ。故に正しい会計帳簿は嫌われる。

しかし、嫌われてもごまかされても最後に求められるのは正しさである。
そうでなければ、時代は先に進まず、滅びるだけだと歴史が告げている。

帳簿の世界史

帳簿の世界史

ダティーニの帳簿の収支尻がつねに黒字であることは、神に対する負い目は増える一方であることを意味した。(中略)協会は、富を貧者に分け与えるようダティーニを諭した。友人たちは、そんなことをすれば坊主を喜ばせるだけだと忠告したが、ダティーニは遺産をプラートの教会に寄進することをきめる。(中略)いよいよ死を迎えるその日、ダティーニはなぜ死ななければならないのかと考えたらしい。それなりに信心もしたし神に気前よくあれこれ捧げたというのに、会計の達人としては、これでは帳尻が合わないと感じたのかもしれない。(p.58-59)

14世紀イタリアの商人ダティーニに関する記述だけれど、
概ねこの振幅の中に今もいるんじゃないだろうか。

「GRIT やり抜く力」著:アンジェラ・ダックワース

継続は力なり、というのは日本でも成語になっているので
決して軽んじられているわけではない。
でも、どれだけ大事なのかというのはそれほど具体的なイメージにならない。

この本でそれががっちり裏付けを見せてくれればありがたいのだけど
実のところ、この本の中でもまだふわっとしているとは思う。

とはいえ、十分に説得的な事例は多く出してくれる。
(進化論では適者が生存するのでなく、
生存者こそが適合者であったことを思い起こす)

つまるところ、
才能よりもやり抜く力が大きく成功する者にとっての必要条件だという事例だ。

後半は著者自身の子供達のことも視野にいれて
やり抜く力の教育について書かれている。
しかし、これは社内教育でもありうるし、自己修練でもありうる視点だろうと思う。

原則を掲げた上での自由および、選択への責任。

まぁクサイ物言いではあるのですが、
スジを通してケジメをつけろってことですな。

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

「私はつい、才能をある人をえこひいきしてしまうんです」などと認める人はいないだろう。それどころか、自分の心のなかですら認めないかもしれない。しかし私たちの選択を見れば、そのような偏見を持っているのは明らかだ。(p.46)

これはプロフィールだけ天才タイプと努力家タイプと交換して
同じプレゼンを聞かせた時の実験による結果を見て言っている。
面白いこと考えるものだが、そのバイアスを乗り越えられる人は有能な投資家になりそう。

エイミー・レズネスキーの研究は、「天職」というのは、職務記述書の中身とはほとんど関係ないことを示している。(p.212)

どんな職業でも「仕事」「キャリア」「天職」のそれぞれの割合が変わらないから
天職を無理に探しに行かなくてもよい、という話なのだが、これは逆に不思議である。
いつも3割は怠けている蟻のようだ。

仕事を天職にせずにいることで幸福になる人もいるのではないだろうか。
これは別の話だけれどもね。

「マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック」著:ナボコフ

素晴らしい装丁でナボコフコレクションが出ていたので
つい買ってしまった。

以下ではさくっと6割くらいネタバレしますが、
話の筋は焼き鳥の串のようなもので味わうべきは串ではないです。
とはいえ、読む楽しみが失われるようなネタバレは避けているつもりです。

マーシェンカは下宿でのお話で
ちょうどバルザックゴリオ爺さんと読む時期が重なっていたので
オーソドックスな設定から入ったのだというのが分かる。

人妻になった昔の恋人に会えるかもしれないと
今の恋人を振るろくでなしのお話ではあるけれど、
愛の幻想よりも遠く不滅のものを見つめながら書かれているようである。

本筋には直接絡まないはずの詩人の存在が印象的。

ゆるやかなドラマで、映像的な印象も薄いけれど、
何かざわつかせるような小説だ。

キング、クイーン、ジャックは
田舎から出てきた甥が都会で成功している叔父さんにお世話になる。
その奥さんと不倫をするという話で、中々に艶かしい側面はある。

(若いだけでホイホイ人妻に乗せられるフランツ君は駄目なやつだ。)

一方で、生気のない人形たちの描写もあり、
悪夢のような印象もある。
また、書き振りも誰についての話かわかりにくく書くなど
不安を抱えながら読むことになると思う。

そうした仕掛けを施すことで先の小説よりも
スリルの強い物語でありながら幻惑的なものに仕上がっている。

娯楽としての要求を満たしながら、
高い水準で美意識を発揮したナボコフらしい作品だと思う。
これが処女作と第二作とは、さすがですね。

そうそう、あと20ページを越える解説も良かったです。

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

はっきり申し上げましょう、ロシアは滅びたのです。<神を宿す>ロシアの民は、まあ想定の範囲内ではありましたが、ろくでなしどもの集まりで、我々の祖国は永久に滅んでしまったのです。(p.39)

もちろん作中人物の言葉だが
ロシアからの亡命者であるナボコフの生きた時代が垣間見える。

たとえ色あせた二篇の詩であっても、ガーニンにとっては、温かく不滅の実存として咲いた花のようなものだ。安物の香水や、懐かしいとおりにたつ看板が、不滅のものに思われるのと同じように。(p.144)

マーシェンカはおそらくこの述懐に対する証明として書かれている。

「ベルルスコーニの時代」著:村上信一郎

派手派手しいスキャンダルまみれになって退場した人、
そんな程度の印象でベルルスコーニのことを覚えていた。

しかし、そもそもどうやってそんな乱痴気騒ぎをするような人が
大統領になったりしたのか。

本書はベルルスコーニを通してその時代の
イタリア政治状況を描くもので、実業家時代から追ってくれるが
ライバルの左派の動向や混沌としたマフィアとの関わりなども詳しく書いてくれている。

さて、中身だが、
ポピュリストというにはあまりにもダーティな話が多い。
収賄だけでなく、マフィアを使いながら、
使った下っ端をさらに別にマフィアに消させたり。
法律も特定の仲間を守るために作るなど、お手盛りの手法が目立つ。

恐ろしいのはそうした素性は見えてきたはずの中でも
2度目のベルルスコーニ政権へと2001年に復活を遂げるところだ。
本書ではそこに民放TV局を牛耳る彼のメディア戦術の浸透力の強さを見て取る。

すでにスキャンダルにまみれた状態から政権を取るという
ゾンビのようなベルルスコーニの時代はセックスで終わる。

最初は17歳の少女との援助交際、彼女の夢は国会議員になることだったらしい。
次に自分のテレビ局から選んだ十人の美女を議会選挙に出馬させようとして
その際に、ベルルスコーニの妻から離婚を要求されるという騒動になる。
最後はプロの娼婦とのスキャンダルだが、これは娼婦の側から暴露されたのであった。
なぜか。
彼女は選挙応援を約束されていたのに、ベルルスコーニが支援をしなかったからだ。

要するに、全部セックスで議員になるという話だったのであって
ただのセックススキャンダルというにはあまりにも不純である。
そして、これが応援母体であるカトリックの逆鱗に触れて政治生命は潰える。

マフィアとの癒着では落選しないのにね。

むろん、ここに至るまでに南北の経済格差や、
宗教の分布の仕方、また、歴史的政治状況などが複雑にからまってはいる。

しかし、なんというか、
21世紀になって民主主義は舐められているのではないかと暗澹たる気分になる。
しかし目を背けず、記憶するべき時代なのだとも思う。

マフィアのような犯罪結社がこうした政治家たちの庇護の下で事実上の「治外法権」を享受してきたことは、もはや秘密でも何でもなく、すでに誰もが知っている事実であった。それゆえ、有権者が救いようのない絶望感に襲われるのも、ある意味では当然のことであった。いいかえると、このような究極の政治不信のなかで、北部同盟の荒唐無稽な「扇動」が効果的に機能する環境は、整えられていったのである。(p.102)

扇動とは俺たちの税金が南に使われるのはおかしい、独立しよう!というやつです。よく聞きますね。

自らに誇りを持つ民主主義国であるならば、たとえどんな国であれ、次の総選挙でまちがいなく首相となるとされている人物が、今も捜査の渦中にあるということなど考えられもしないであろう。しかも、どんな容疑かといえば、資金洗浄、殺人の共犯者、マフィアとの癒着、脱税、政治家や判事、財務警察への贈賄といったものなのである。(p.215)

これはイギリスの「エコノミスト誌:2001年4月28日号」からの言葉だ。
これを嚆矢にイタリア国内の知識人も打倒キャンペーンを行なうが、当選を許すことになる。

「親鸞」著:野間 宏

浄土真宗の開祖である親鸞を語ろうとしているようであるが、
どうも、当時の社会的な要請から親鸞で語ろうとした本のようである。

1973年という出版年は政治の時代であったと思う。
とは言っても、それによって歪められた骨子はなく
単に細い道を歩くだけの本だ。
しかし、そんなか細く長い道を歩こうとしなければならない時代だったのだ。

末法の世というのが仏教を捨てる世界のことではなく、
形を変えてでも残るべき仏法の救いがあるという見方は目から鱗だ。

人はどんな世界でも救われ続けるだろう。
それ自体が人間の業であるにしても。

本の出来としては微妙です。
言うべきことの核はしっかりしていますが、
論の道筋は緩めで手当たり次第にぶつかっているように見えてしまいます。

親鸞 (岩波新書 青版 853)

親鸞 (岩波新書 青版 853)

閉ざされた壁を打ち破って、その境界を越えるすべを見出すことがなければ、このすべての人間は救いから見離されたものとするほかなく、それを救いえないというのでは、もはや仏といわれるものも仏ではありえず、そのような仏は捨て去るほかないということになる。そして、親鸞は仏をしてその境界を越えさせるのである。(p.38)

熱烈な原理主義の匂いを感じる。
まぁ、原理主義でない宗教は株式会社と特に変わらんだろうけど。

それでは親鸞がそれまで寺院などで用いられていた阿弥陀三尊の絵図をすべて捨て去り、そこにただ「南無阿弥陀仏」「南無無碍光如来」などという言葉だけが書かれている掛軸を掲げることにした、その重大な意味をまったくとらえることのできないところへと落ち込むほかないだろう。親鸞は旧仏教のなかにあった呪術的なものを徹底的に排除しようと全力を傾けたのである。(p.76)

ここにある神秘主義の拒否というのはおそらくクリティカルな問題。
ただ、本書では深く取り上げられない。よく引かれる曾我量深をあたる方がよさそう。