ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「七緒のために」著:島本理生

正直に言って「七緒のために」は星4つで、傑作ですが、
後半の「水の花火」はいかにも習作であって
前のがあるから読めるという体なので
本全体としてはやはり星3つにせざるを得ない。

最高でも星4つなのは
丁寧すぎて繊細すぎるというあたりで
手癖と言うほど雑なものではないけれど
時折これ見よがしなところがある点。

それをのぞけばかなりの濃度でこの時代を描ききっている。
特殊な物語とはまったく思わない。
誠実でないものを用いて誠実であろうとする態度は
小説家としては当たり前の営みで究極の目的であろう。

偉大な嘘つきであることを吹聴するのは
川上弘美で最後になってしまったと思う。
だから島本はこの話をビルドゥングスロマンとしては描かなかった。
思春期の主人公を出しておきながら。

他にもスクールカウンセラーの来栖の関わり方は
本来ならミステリにおける探偵にもなり得たものを打ち捨てた形になっている。

こんな読み方は、叙情性も高く
えぐりに来るようなセリフも多いこの作品の楽しみ方ではないかもしれない。

しかし、誠実さのために闘われた
この作品に敬意を表することを、僕は優先させよう。
作品の面白さは読めばわかるし、読まずにわかるものなら読まなくていい。

七緒のために (講談社文庫)

七緒のために (講談社文庫)

私はいかに転校前の私立の学校が血統書付きのペットみたいに隅々までお金がかかっていたかを悟った。(七緒のために:p.18)

最序盤の毒。もちろんアンチテーゼだが、
ペットでなかったとしたらなんなのか。

この目は、珠紀が残していった目なのか、それともわたし自身の目なのか、今でも正直言って区別がつかない。本当は他の子のおもちゃを欲しがる子供のように、彼女が誰よりも良いと認めた男の子だから自分も良いと錯覚してしまうだけなのかもしれない。(水の花火:p.75)

こうやって要約できてしまうようなセンテンスを
書くようでは我慢が足りない。
いや、デビュー直後の作品というから鍛錬を積んだのだな、という感想はあるが。

「英語の帝国」著:平田雅博

英語の拡散とその需要のされ方についての通史である。

紛れもなく帝国的な広がり方と言えるし、
もしかすると帝国主義とは言語の不均衡な浸透を言うのではないかとも思える。

しかし、当然軍事的な侵略のみで言語の浸透は起きない。
当該地方の積極的な受け入れもあってこその不均衡な浸透である。
つまるところ、それが「役に立つ」から喜ばれるという側面だ。

京都に住んでいると外国からの旅行者を多く見かける。
ヨーロッパだけでなく、アジア圏からも多く来ている。
中国人か韓国人か台湾人か、区別はつかないけれど
土産物屋の店員やホテルの対応は特に困らない。
みんな同じように英語を話すからだ。

これが支配言語があやふやで
日本語を勉強しないと日本に行けないのでは大変だし
受け入れ側も3、4ヶ国語話さないといけないのでは
これはもうほとんど無理だと言っていい。
それを英語だけで来訪客のほとんどをカバーできるなら
これほど役に立つこともない。

これを自発的な植民地化としてとらえるのは真っ当なことだと思う。
真っ当なことだと思うが、この場合、防ぎようはないのではないかと思う。
もしくは勝敗があるとすれば、
言語の植民地化が始まる前から勝敗は決していたのだと言うほかないのではないか。

今の日本語は間違いなく消える。平安時代の日本語はすでに
日本の標準語ではなくて、明治維新からの教育とNHKによって
薩長連合あらため大日本帝国が日本語を征服した。

それとまた同じことが起きるだろう。
そして、教育の力を持ってしても青森の人の話す言葉は
僕には聞き取ることが困難だし、
沖縄の人の言葉は単語からして何か違うが、
同じ日本語を話していることになっている。

200年後ぐらいには京都訛りの英語はねちっこいとか言われたりするんだろう。


「上からの」英語帝国主義は、ウェールズの場合、ある程度は成果があったかもしれないが、報告書に見られたように、イングランド教員(ネイティヴ・スピーカー)の不足から現地のウェールズ人教員で間に合わせること、そこから来る教員の無能さ、そのために必然的となる生徒の達成度の低さ、にもかかわらず親の英語への熱望が見られたことなどから、完成度を見ると、いかにも出来損ないの帝国主義としかならなかったようである。しかし、これらは、ウェールズばかりか、非英語地域に英語教育をもたらす際に、世界的に見られる現象であることを確認しておこう。(p.44)

グレートブリテン内ですらこのような体たらくである。
そして、その不完全さとは関係なく普及するものが言語なのだ。

『新財務諸表論 第5版』著:田中 弘

それぞれの会計基準について、
会社法との差異や国際会計基準の流れなどをわかりやすく解説してくれる。

ただし、この著者の方の見方というものがしっかり出ているので
初学者としてはどこまで採用すべきかは他の本も読むべきかと言う気もする。
ただ、この本に関して言えばそういった立場を明言した上で
論点を明確にしているので、十分にフェアな本だろう。

会計原則の歴史的な扱われ方など
直接現在の会計に反映しないあたりの話も興味深く読めた。

各章ごとの用語解説も充実しています。

新財務諸表論 〔第5版〕

新財務諸表論 〔第5版〕

前者は「財産の変動」を測定するのが会計(財産計算説)だというし、後者は、「利益の計算」こそ会計の仕事(利益計算説)だという。これだけ違った会計の定義が、現在の会計学で、2つとも堂々と通用しているのである。(p.19)

この2つはぱっと見それ程違わないようにも見えるけれど、
ここら辺に例えば粉飾の余地があったりするわけで。くわばらくわばら。

「企業の財政に不利な影響を及ぼす可能性がある場合には、これに備えて適当に健全な会計処理をしなければならない。」
これを一般に保守主義の原則と呼んでいる。正直にいって、この一文を何回読んでも、わたしには何をいっているのか理解できない。(p.151)

理論系でここまではっきり理解できないという人も珍しい。
学者らしい頑固さで、好感は持てる。

『ヨーロッパ退屈日記』

軽いエッセイはいいもんだ。
中身のない会話でも楽しくできるのは
そこにヒューモアがあればこそだと思う。

そしてこの伊丹十三という青年は年頃らしい
高潔さをもって世界を観察している。
本当によいものが世の中には存在するに違いないという期待と、少しの諦め。
人の文化への期待はそのまま信頼感でもあって、
そこが彼のヒューモアの源泉になっている。

それにしても、
香港のここに行ったら美味いぞ、というリストは使えるのかと思って検索したら
今もお店はありそうで、人生の楽しみが増えた。ありがたや。

巻末にこの本の出版を手伝った山口瞳のあとがきと
伊丹のあとがきとの間のちょっとしたやり取りがまたクスリとさせる。良い本だ。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

さて、先日、初めてオープン・セットを見た時、わたくしはなんともいえぬ空しい感じに打たれたものです。
つまり、あまりにも金がかかりすぎている。たかだか娯楽映画の背景に正味何十分か現れるだけで、後なんの利用価値もないのに何十億というお金が使われている。誰にこんなグロテスクな浪費の権利があるのだろう。映画はそれに価いしない。(中略)
ところで、セット自身の出来ばえをいうなら、わたくしは文句なしに、このセットが大好きだといえます。(p.38)

率直ゆえにおかしさがある、そんなツボをおさえてる。

ホーム・シックというものがある。これは一時、人生から降りている状態である。今の、この生活は、仮の生活である、という気持ち。日本に帰った時にこそ、本当の生活が始まるのだ、という気持ちである。
勇気を奮い起さねばならぬのは、この時である。人生から降りてはいけないのだ。成程言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。しかし、それを仮の生活だといい逃れてしまってはいけない。(p.96)

これも力が入りすぎていると言えばそうだけれど、
そうやって自分を奮い立たせて来たと思えば彼の弱さも垣間見える。
そして、その弱さは誰にもあるようなものだと思う。

あまりに多才な人生であったが、彼もただの人間だったのだ。

『豊乳肥臀』(下)著:莫言

なるほどこうやって終わらせるか。
あくまで絵巻物であり、叙事詩として描いたのだから
こうやってもよいだろう。

共産党時代は内戦や戦争の頃に比べれば
死ににくなったかもしれないが毀誉褒貶の激しさは変わらない。

主人公もその荒波の中で、
揺れ動いた中国の上澄みから淀んだ泥水まで転がりながら読者に見せてくれる。

この作家が偉かったのは土地の記憶から離れなかったことだ。
上下巻に渡り一家は離散して、散り散りになるも最後は故郷に戻ってくる。
それというのも常に母親がその土地にへばりついているからだ。
その土地が自分のものでなくなった後も、
自分が死んだ後もその土地に居続けるその有り様は
下巻で明かされる彼女の若き日々とも合わさって壮絶である。

ただ、その派手さとは別に土地の記憶として歴史を描こうとする姿勢は
政治とは独立した中国の歴史を掴み直そうとする誠実さだと思う。
そして、何よりこの筆の膂力とも言うべき書き振りは確かなものだ。


星3つだが、人生に無力感や倦怠感を覚えている人には勧めておこう。
救われない人生としても、いつかどこかで誰かに会える気がする。
報われるかどうかは別にしても、
一瞬に世界の色合いが変わるような出会いは確かにあるような気がする。

豊乳肥臀 下 (平凡社ライブラリー)

豊乳肥臀 下 (平凡社ライブラリー)

「どれ、お祖母ちゃんに触らせておくれ。痩せたか、肥ったか、見てあげよう」
母親の手が、司馬糧の頭を撫でた。
「なるほど、わしの糧児じゃ。人間はの、どんなに変わっても、頭の骨は変わりようがないのじゃ。生涯の運がぜんぶここに刻まれておる。よかろう、この肥え具合ならよかろう。おまえも、どうやらましな暮らしをしておるとみえ、メシにはありつけるようじゃの」(p.282)

ついさっき家を取り上げられ公務執行妨害として逮捕されかけたところを
孫にあたる司馬糧が偉くなって助けに来たところ。
親が気にすることなんて、つまるところこの一点なんだろう。

『日本の神々』谷川健一

幅広く神々を取り扱っているが
少々散漫な印象的はあるかもしれない。

最初は言葉のつながりから語彙にイメージを与えていき。
中盤では歴史的な趨勢をおさえながら
神や霊的なものがどのような意味を持っていたか見せる。
終盤では実地の取材に即して展開する。

どうも、それぞれの部分だけでも
ひとつの本に出来るだろうという気がするので
新書にまとめようとしたのが間違いかね。

八幡信仰のあり方から
沖縄の尚氏が九州から来たのではないかという話は
面白いけど、やっぱり脱線してるんじゃないかな。

とはいえ、沖縄でのユタの事例などは
死のあまりの近さを考えると
取材する信用を得るだけでも大変なものだろうと思う。
実直で地道な学者だ。

日本の神々 (岩波新書)

日本の神々 (岩波新書)

アイヌの熊狩歌(イコイキシノツチヤ)は、熊狩に行って熊の穴を見つけた時、熊の穴の入り口に立って槍をかまえながら歌ったものである。歌の文句はまず自分の素性を名乗り、先祖代々自分の家と山の神(熊)との間には特別に友好関係のあった所以を述べ、熊の神がその本来の姿である霊に帰って山を降り、ふもとの村を訪ねてくれるように懇請する内容のものだった。(p.68)

アイヌも結構やってくれるので今ならゴールデンカムイクラスタも面白いんでないか。

百十踏揚にあっては、妻の身分でありながら、神女でもあったということである。南島にあっては聖俗を厳密に分けることはなかった。聞得大君も多くは琉球国王の妻がその地位についた。それら高級神女も神がかりをしたという事実は重要である。(p.126)

高級神女という言い方はそうでない神女もいるということで、
それらもひとつの霊そのものとして祀られもすることを考えると、
男尊女卑的な世界が今持ち上がっているのは
偶然霊的な世界が敗北しただけだという気もする。

「経営の心得」著:小山昇

一貫して中小企業の経営者の視点をとっており、シンプルで分かりやすい断章形式の本です。


中小企業とは経営資源に余裕のない会社と思ってもらえば差し支えはないでしょう。
そういう会社では特にコミットメントを求めないと
すぐにガタガタになってしまうわけで、
ブラック化する風土の現れやすい状況です。


小山氏もそうした中で、当然
強烈な会社を経営していると思うのですが
それなりに社員の方は納得感を持って働いているだろうとも思います。


それは評価に関して次のような方針が見られるからです。
「見えるものを評価する、それも結果よりも行動を評価する」
「評価の基準は明確にして社長も含めて一律に適用する」
「評価の結果は賞罰問わず形にして広める」


他のティップスは企業規模によっては
使いにくいものもあるかもしれませんが
評価の方針はどこにでも適用できるものかと思います。

経営の心得 ?最高の社員を育てるリーダーの決断と行動?

経営の心得 ?最高の社員を育てるリーダーの決断と行動?

甲乙つけがたいという時点で、
甲にも、乙にも違和感を抱いているはず。
甲も乙も不採用が正解。

なるほど、大企業はここで両方いけるんでしょうな。
ちなみに、小遣いの使い方もこれでいいでしょう。

ほとんどの会社はできの悪い人を動かすが、
できの悪い人はどこへ行っても結局ダメ。

続いているのはじっくり同じ仕事で教育したほうがいいということですが
それは正直に言えば原因次第でしょう。
ただ、異動自体にコストがかかることは間違いないうえに
動かせば解決に近づくだろうというのは甘い見通しでしょうから
小さい企業でアレコレ動かすなということにはなるか。