ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「猫を抱いて象と泳ぐ」著:小川洋子

ちょうどナボコフの「ルージーン・ディフェンス」を読んでいるところであったので、
チェスの話というところに興味が湧いて手にとった。

どちらもチェスをモチーフにした
素晴らしい作品だということは言うまでもないが、簡単に比べてみると
ナボコフは幻惑的なところがあるが、
出来事としてはあり得そうなことが並んでおり、
小川のこれは映像としては明晰でありえそうであるものの
都市伝説のように思える出来事が起こっている。

この都市伝説的な、というのは
いかにも象徴的な空気感を漂わせるもので
小川の得意なところではあろう。

壁に埋まってしまったミイラ、
デパートの上から降りられなくなった象。
動かなくなったバスを住処にしているチェス指し。
主人公は地下の秘密チェス倶楽部でからくり人形の中に入って
怪しげな大人たちと対戦をする。

繰り返し現れるものは隘路であり、行き詰まりである。
しかし、その奥の奥にある場所に64マスのチェス盤がおさまっており、
もっとも狭い場所でありながら、もっとも自由を享受する。

リベラル・アーツとしてのメディアがここに開かれている。
物語の後半は老人ホームでのチェスとなる。
誰にでも訪れるどん詰まりではあるが、そこにおいても
開かれている自由がここに響きとして著そうとしたものだろう。

爽やかな読後感でとてもよかった。

「心の底から上手くいっている、と感じるのは、これで勝てると確信した時でも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力が、こっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。(中略)その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。(p.103)

主人公の少年のセリフである。この審美眼は終始少年の中に
マスターや周囲の力添えを得ながら基準として存在するのだけれど、
決して正しいことのために物語を進めたわけではなく、
この物語が正しくなるように小川は首尾よく仕上げたと思う。

「経営危機時の会計処理 レオパレス21は難局をどう乗り越えたか」著:日野原克巳

レオパレスは今も全国に住宅賃貸のネットワークを展開しているが
2018年に施工内容についての不備が判明してその修繕や補償などをしなければいけない状況に追い込まれた。
それは単発のものではなく、調査をするにつれ、類似の事例も発覚するなど
かなりの負担をもたらすものだった。

本書は、その当時にレオパレス経理部にいた企業会計士が
どのように課題を受け止め対応していったかを記録したものである。

あくまで会計上の課題を中心なのでそこまで


ドラスティックなものではないかもしれないが
決算で「継続企業に前提に関する注記(GC注記)」を書かなければいけないというのは
読んでるこちらも胃がキリキリしそうだ。

投資家に正当に判断してもらうためには必要だからとはいえ
「コレコレの事由で潰れるかもしれない可能性がありますよ」なんてできれば書きたくはない。
しかし、同時にそういうところをきちんと抑えるからこそ
リスクを抑えながらどのように復帰していくかの道筋が見えてくる。

また、この決算書ならびに有価証券報告書は外部の会計監査もありその中でのやり取りも描かれる。
全般的に淡白な書きぶりではあるが、著者の実直な仕事ぶりが表れているようでもある。
一般向けの話題ではないがあまり遭遇したくなく、かつ貴重な事例ではあると思われるので
会計人にはよいかもしれない。

資金繰りを含めて、会社の危機的な状況を詳らかにすることにより、会社全体でそのような状況を共有することこそが、資金繰り対策を確実に遂行するにあたって、極めて有効な手段と考えられた。しかしながら、危機感をあおってしまうことで、かえって従業員のやる気を削いでしまい、会社の雰囲気まで悪くしてしまうリスクもあり、痛し痒しの状況であった。(p.104)

こういうジレンマも特有のものだが、やはりトラブルというのは顕在化してからの対応は難しくなりがちだ。

「シン・物流革命」著:鈴木邦成功、中村康久

物流はBtoB、BtoCどちらでもその重要さ、
存在感のあるテーマになってると思うので読んでみた。

IOTの浸透によってタグやセンサーが有効活用され、
倉庫の中がそれ自体で考えるシステムとして再構築されているという話は
非常に興味深い。

また、ロジスティクスドローンなどの話や、シェアリングサービスなど
物流分野の関わる広さは見える。が、全体的に過渡期の状況の中で
まだまだこうした設備やシステムの変更は実証段階であるものが多く、
それゆえに具体例としての踏み込みはもう少し読みたかった。

まぁ、シン・エヴァのパクリ装丁をやっとるのですから
普通に新しい話ではなくて、現状のリメイクを実験的にアプローチする
ということは示唆されとったんかな。

自動化はひとつのテーマだが、
AIの前にRPAをあげ、その導入についてのリスクやハードルについて触れられている。

①現場の不信感・経営陣の無理解(中略)
②システム停止の際のサポート体制の充実(中略)
③自動化による作業のブラックボックス化(中略)
④継続的な手順ミスの発生(中略)
クラウドなどからの情報漏洩・流出(中略)
(p.80~81)

こういうところはどの業界でも同じような課題としてあるだろう。
同時にこれらもひとつのビジネス領域となるんだろうか。

我が国でもロジスティクスドローンによる配送が本格的に検討されている。たとえば内閣府国家戦略特区に千葉市を指定し、「千葉市ドローン宅配等分科会」がドローン宅配の実用化のフレームワークを検討している。(p.105)

お、日本でも具体的に進めているのだね。

ちなみに千葉市幕張新都心地区が東京湾に近接し、臨海部に物流センターが集約しているのに加えて、電線が地中に埋められているということがドローン宅配を行う上での好条件の立地となっている。(p.105)

電線は確かにネックになりそうだ。一律に導入するにはハードルが高いね。
新しいテクノロジーを広く導入する時は、街の形自体もそれに合わせて変化する必要がある。
しかし、投資をおこなって整備するまでの間にさらなる新技術や需給の変化などの影響がないとも限らない。
難しいところである。

「祈れ、最後まで サギサワ麻雀」著:鷺沢萌

少年たちの駆け抜けるような青春を
繊細に書き綴ってきたイメージのある鷺沢が近代麻雀で連載していたとは知らなかった。

ここにいる鷺沢は豪快で、酒を飲み、煙草をふかして
大きく勝ちを狙う勝負師(そして負ける)の姿であった。

この勝ちを狙うというのは理想主義的であり、
ロマンティックなところがあると見ればジュブナイルに通じるところも確かにある。
エッセイらしく、七転八倒する筆者の姿で笑っちゃうけど
ことの顛末を思うと、かえってナイーブにも感じられる。

ギャンブルはロクなものではないんだけど、
人生がそれよりマシだって話もなくって、大差ないんだとしたら
彼女のこの真剣さは、人生に対する真剣さに通じている。

望む牌をツモることが
ただ並んだ順に取っている以上のことだと確信して
一喜一憂する鷺沢の姿は、くっきりと目に浮かぶ。
雀荘でなくても、望むものを呼び込もうと祈る人を今までたくさん見てきたはずだから。

最後に未発表の小説がおまけで載っています。
本当はもう少し尺を伸ばす予定だったのかもしれないけど、鷺沢らしいよいものでした。

「麻雀必勝法」も実はあるのだ。それは麻雀をしない、ということだ。(p.10)

これがエッセイの一発目のシメ。
やらなきゃ負けないのに、ということを一番最初に言っておいて
ずっと辞められないから連載が続いていく。

「あ、めめちゃ〜ん?」
聞き慣れた声は作家のS・T先生だ。(p.58)

大体イニシャル・トークだけど、交友関係も垣間見えて楽しい。

よく行く雀荘の常連客小田原ユキが私に言った。
「きのうどうでしたー?」
「やあ、なんか知んないけど何度振っても出る出るヒフミ。負けたわー、●万円ばかし」
小田原が目を剥く。
「アンタ何の話してんのっ?きのうはデートだったんでしょっ?」
「うん、そうだけどそのあとチンチロしちゃったわけよ」(p.132)

愉快な人たちだ。
ここで出ている小田原は連載の中で鷺沢と同じように
チョンボをしたり負けたりしている仲間で、彼女の文章が追悼文として公式HPに載っている。
短い文章だが、この本を読んだらそれも合わせて読むのもいいかもしれない。

http://meimei.la.coocan.jp

「リベラルとは何か」著:田中拓道

現代においてリベラリズムは政治的に苦境に立たされていることは間違いなく
これは日本だけでなく世界的な潮流であることが、
右派ポピュリズムの各地での湧き上がりを見れば分かる。

本書はここにリベラルの成り立ちから確認しつつ、
いかにしてこの隘路に追い詰められたかを検証し、
そしてそれを打開するための方法の手がかりを模索するものだ。
(局所的な話としてとらえないのは美点ですね)

自由放任からの福祉政策としてのリベラルから
新自由主義というのはおおまかに理解していたが
ワークフェア競争国家という用語は興味深い概念だった。
ウェルフェア(福祉)とかけた言葉ですね。

要は単に小さな政府を求めるというのではなくて、
「人々を市場へと導引する国家の強力な役割」を果たそうとするものらしい。
(そんなのが現れていたら「働いたら負け」という言葉も出るよね。)
福祉政策は保持されるが、それは就労に結びつく場合に限って、ということ。

その名称の中に競争と入っているのは国際競争の環境下を意味しており、
この勢力の考え方はある点では自然に現れるべくして現れたと言ってもいい。

一方で、この思考の中には自由は加味されておらず
権利は条件付きであるように振る舞う。
現実的なリソースの話がそうであるのと、目指すべき場所についての話を分けて考えるなら
彼らに対抗勢力としてのリベラルはやはり必要である。

万能の解決策があるような話ではなく、華々しい結論があるわけでもないが
現在の政治的状況を整理する助けにはなってくれるだろう。

格差の拡大によって社会不安が高まると、新自由主義政権が頼ったのは、保守的な道徳だった。ハーヴェイらが指摘するとおり、個人の選択の自由という新自由主義の原則と、個人を超える集団の権威や伝統を強調することは、本来相容れないはずだった。ところがサッチャーは、福祉に依存する貧困層を道徳的な失敗者というイメージと結びつけ、勤勉の道徳と家族による相互扶助の美徳を強調した。(p.51)

本邦でも覚えのある挙動である。
自由と保守はこのように結びついた。

制度が選別的であればあるほど、市民の間の連帯感情が弱くなり、「我々」と「彼ら」という線引きが生まれやすい。弱い立場になりやすい移民は、福祉にただ乗りする「彼ら」だという意識が強まりやすい。一方、制度が普遍主義的であるほど、中産階級を含めた広い人々が福祉の受益者となる。「我々」と「彼ら」という線引きが生まれにくいため、排外主義は相対的に弱くなっていると考えられる。(p.146)

この考察から導かれるのは弱者を選別して保護するような政策であるアファーマティブアクションなどは
より弱者を孤立させるおそれがあるということであり、
大きな枠組みで社会保障と福祉を作っていく必要があるということだ。

簡単なことではないが、理想は目ざなければ進むこともない。

「ミャンマー現代史」著:中西嘉宏

いまや、ウクライナの方が耳目を集めてしまっているが
ミャンマーは2021年2月に非常事態宣言を出した
軍事クーデターのあとそのままである。

今朝の朝刊では総選挙も回避して現状の暫定的な軍事管理政権が続きそうだという見通しをみた。
予断を許さない状況で、東南アジアという地理的条件をからすると、
ウクライナよりも日本にとってより当事者としての立ち位置が強く現れる問題であろう。

本書はそのクーデターの一年半後に出版されており、
クーデターの起きた背景を説明してくれるものである。

第二次大戦後からミャンマーの歴史を見ると民主的な政党政治が行われていたのは
ごく限られていて、軍が政治に強く関わってきたということが見える。
軍自身も自らを国家を体現するものとして振る舞おうとするようなところがあり、
むしろスーチーが表舞台に立てたことの方が端的に希少なことだったということが言えそうだ。

また、135もの土着の民族があって、
主要民族であるビルマ人が68%と多数派を占めているものの
地形的要因で区切られた地域ごとの自治の傾向が強い。
彼らの独立活動の動きというのがあると、
軍隊というものはそれ自体を権力の源泉にしてしまうだろうし、
軍に反抗する勢力も一枚岩とは言い難い構造になってしまう。

そして、こういう独立活動という話は管理者側から見ると
外国勢力がどの程度関与しているかということにも神経を使っているはずで
とどのつまり、彼らは疑心暗鬼ゆえに閉じ籠りたいのだと見える。

たとえば、中国は大きなパートナーだが、そこだけの援助に偏らないように
ロシアを入れてバランスを取ろうとするような動きに現れる。

この本の中で、具体的な方策が示されるものではないけれど、
ミャンマーが抱えている問題をより具体的に見るにはよい本だと思う。

軍にとって国家顧問ポストの設置が脅威に映ったことはいうまでもない。こうしたことが繰り返されると、憲法改正に実質的な拒否権を持つ軍の権限の意味がなくなってしまう。初っ端からスーチーはレッドラインを踏み越えたのだ。(p.140)

民政化までの道のりが長かっただけに、
スーチーも急いでしまったところはあったようだ。
それにしても同じく国の中で互いに譲れない仇同士になってしまうというのは、
ひどくつらいことのように思う。特に中で暮らす人たちがあんまりである。

「酔っ払いの歴史」著:マーク・フォーサイズ 訳:篠儀直子

人の振る舞いほど興味深いものはない。それが酔っ払ってるならなおさら。
絡まれずに観察だけできるのはこちらの本です。

酒の歴史でなくて酔っ払う人の歴史というのは面白い着眼点。
確かに、サッカーボールの歴史も興味深いが、それにも増してプレーの方が気になるもんね。

厳密で網羅的な歴史でないことはあらかじめ断られているけれども
実際のところ、「振る舞い」なんてのは形に残りにくいから余計に難しいのも仕方あるまい。
ただ、その困難な旅の中でもこの著者のユーモアは活発に動き回り
いくらかの皮肉(イギリスっぽく少しブラックだ)をともなって
ぐいぐい引っ張ってくれる。

エピソードはどれも意外性を持っていて
ついつい人に話したくなりそうなものが多い。

ひたすらべろべろに酔わせてから
ご来光に合わせて神官が叩き起こして
神の顕現を感得させるエジプトの儀式とか、
家に呼んで友達同士で飲み会だと思ったら、
あからさまに客人にランクづけがされて、
最下位のものは呼ばれたのに無視されるローマの話とか、

(あ、これは席順もちゃんとあって日本だけの風習じゃないんだと思ったり。)

もちろん、禁酒法のバーの話もあります。店内で銃を撃たないで。

つまみ食い的なトピックの選び方だけど、それでも
アジアからは中国、中近東でシュメール、エジプト、イスラム
それからアステカにオーストラリアなどそれなりに幅広くエピソードは取られている。

いろんな付き合い方を試してきたけど
結局縁は切れないお酒の歴史。
その試行錯誤の様子はルールと無法のあいだを行き来する
あまりにも人間らしい姿となって立ち現れる。
とても楽しい冒険でした。

人になる以前、われわれは酒飲みだった。アルコールは自然に生まれる。ずっと前もいまも。四十何億年か前、生命が誕生したころ、原始スープのなかでは単細胞生物がのどかに泳ぎまわり、単純な糖を食べてはエタノール二酸化炭素を排出していた。実質的にビールを排泄していたわけだ。(p.13)

これが書き出しである。いかに優秀なほら吹きであるかが分かるだろう。

ソクラテスは大量に酒を飲んだが決して酔わなかった。魂が非常に秩序立っていて、飲んだところで露わになるのは彼の合理性だけだったのかもしれない。あるいは怪物的に有能な肝臓を持っていたのかもしれない。いずれにせよ飲んでも酔わないという変な理由から称賛される、多くの男たちの先駆けが彼であるように思われる。(p.70)

これなんかはちょっとブラックですね。
酔いを愛する著者はこの後に「じゃぁなんで飲むんだ」と。なるほどね。