ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「異邦の香り」著:野崎歓

これ、ネットレビューとしてはどうかと思いますが、
装丁がとてもよろしくてですね、開く前から乳香の香りがするような作りなんですよ。
(嗅いだことないけど)

土煙と甘やかさを感じさせる象牙色の表紙に金箔押しの優美な英字、
端正なタイトル、ついで(失礼)に訳者じゃない堂々たる野崎歓の文字。

めくればアラビア海をイメージさせる彩度を抑えた青色の見返し。
扉は表紙とほとんど同じ文字組ですが、
金箔押しだった英字が薄いザクロ色となっており
青色との補色の関係でトーンが抑えられているにもかかわらず
はっとさせる飛び込み方をしています。

そうこれはエキゾチックな作りをしています。
異国情緒とは非常に誘惑的なものです。
帯も扇情的で「東方の甘美な香りに誘われ、女性探求の旅が始まる……」と書いてあります。
しかし、誘惑と女性と異国情緒の結びつきなんてのは近代以降はっきりと拒否されています。

野崎はその辺も当然踏まえた上で、それでもなお
このネルヴァルの旅がどのように読みべき価値を持つか語りかけます。

しかし、堅苦しい話は抜きにして、知らない街は魅惑的だ。
ネルヴァルの旅人とともに路地裏から怪しげな秘教の話まで迷い込んで行く
それは野崎の読書の体験自体が酩酊と没入に近づいているのときっと相似なのだと思う。

異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論

異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論

群衆の中に匿名の人間として素知らぬ顔で一人、紛れ込む。自己を消し、他者の渦に身を溶かし入れるこのスタンスの取り方こそがネルヴァル的な旅の基本姿勢となる。(p.33)

本当の自分なんてのも抜きにして
カメラモードで現実を夢遊病者のように歩くのは、これはこれで面白いものだ。

オリエントにおいて、奴隷は奴隷ではないという事実を、旅人は家に女奴隷を連れ帰ることで、具体的に学んで行く。(中略)旅人としては、ゼイナブに料理をはじめもろもろの家事をやらせようともくろんでいたのに、そういいつけると彼女は「自尊心を傷つけられ、というか尊厳を踏みにじられて」怒ってしまう。「わたしはカディーヌ(奥様)であってオダルーク(下女)ではない」(p.167)

ゼイナブというのが旅人が買った女奴隷であるが、
なるほどそりゃぁそうだ、ふさわしい扱いでなければ怒られるだろう。
ここに野崎はキリスト教世界の相対化を見ている。それはそうなんだけど
なんというか、風俗失敗談みたいなニュアンスも感じなくはない。

問題となるのは常に、自らを超える力の奔流を前にしてあっさりと身を投じる覚悟であり、波にさらわれることを辞さぬ積極的な受動性である。(p.271)

個人的にめちゃくちゃ頷いた。

不吉な夢に脅かされた「私」は、現実にオーレリアが死んだことを知る。そのときから彼は、オーレリアとのあいだに真の絆を結ぼうともがき始める。なぜなら彼女は、いまや「精霊」たちの世界におり、悪霊に奪い去られる危険に晒されてもいるのだ。「<霊>の状態」にある「私」には、その脅威がひしひしと感じ取れる。「私」自身、ある種の夢の中では「私の外部にいながら私自身である」(69)ような精霊を相手に戦うことを余儀なくされる(p.388-389)

これは東方紀行とは別の物語だが、
手遅れになっている感覚と、旅で当事者でないまま歴史に居合わせることは似ている。
現実世界でも目の前で進行していることすら、常に手遅れであるようにも見えるのだ。
しかし、それは困難であっても交信し、戦うこともできる。