ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「税法入門」 著:金子宏・清水敬次・宮谷俊胤・畠山武道

新しい分野を体系的に学ぼうという時に
必要な視点の枠組みを与えてくれる良書です。

租税というものの意義やその他法律、条例との関係など
基礎となる事柄を抑えながら、
各論でもそれぞれの税目の扱われ方の流れを最新のところまで解説してくれている。

てっとり早くなにかを知るのには向かないでしょうが、
本格的に学ぶための入門書として適格ですね。

税法入門 第7版 (有斐閣新書)

税法入門 第7版 (有斐閣新書)

租税回避行為を安易に認めるならば、租税正義ないし租税負担の公平の観点から不合理な結果になる。ここに、租税回避を問題とする理由がある。特に英米では、租税弁護士会計士等が税制上の優遇措置等を複雑に合成、関連させることによって、税負担を軽減・回避する仕組み(スキーム)を考案、活用し、また、それを商品として投資家に勧誘している金融業界等も少なくない。(中略)しかし、租税回避行為が租税正義ないし租税負担の公平からして合理的でないとしても、後述のように租税回避行為を直ちに否認できるかどうかは別の問題であって、この点については種々の議論がなされている。(p.58)

まぁ、グレーゾーンはいたちごっこですよね。
しかし、いろんなスキームあるんでしょうが、
基本的には税金をほっといたらめっちゃ払ってる人以外は
役に立たないので、一般人的には空の上でドッグファイトしてる感じですね。

税務行政は、法律の根拠に基づき、法律の定めるとおりに実施される必要がある。しかし、現実に行政が法律に違反する可能性がある以上、違法な行政活動から納税者の権利を保護する制度を設けることは、法治主義の要請であるといわなければならない。租税法律主義も、権利保護制度が完備されてはじめて意味をもつということができる。(p.183)

当たり前のことではありますが、
執行者ではない立場からの積極的な働きかけが可能であってはじめて
法治主義は自身の正当性を持つのだなぁと。

「魂の燃ゆるままに」著:イサドラ・ダンカン 訳:山川亜希子・山川紘矢

20世紀初頭活躍したアメリカの舞踏家の自伝です。

このタイトルはやや扇情的な書き方ですが、
実際に恋多き女性としての側面も割とあからさまに
そしてさっぱりと描かれています。

なんというか、決してカジュアルセックスなんかではないのですが
ゼウスが女神と交わるくらい、ごくさりげなくかつ必然的に関係をもってしまいます。

それだけでも、すごいですが、
6歳の時に赤ん坊にダンスを教える教室を始めてから
10歳でふつうの学校をやめて自分のダンス教室で稼いで
18歳の時にあてもないのにサンフランシスコからシカゴに飛び出す
こんな無鉄砲な生き方があるものかと、最後のロシア行きまで常に驚かされます。

ただ、恋多き女性には
どうしても別れの悲しみも多くなり、
後半はその悲しみがはっきりと地の文にも溢れていく。
しかし、それでも彼女は踊ることをやめなかった。
そのことは強い印象を与えてくれます。

また、この本はロダンスタニスラフスキーなど
20世紀前後の芸術家の顔ぶれが色々と出てくるので、
時代の空気を感じる楽しみもあると思う。

魂の燃ゆるままに―イサドラ・ダンカン自伝

魂の燃ゆるままに―イサドラ・ダンカン自伝

彼が私にキスしたいという思いを抑えきれなくなって結婚を申し込んで来たとき、私はこれこそ人生でもっともすばらしい恋になるだろうと、信じたのだった。
しかし、夏が終わりかける頃には、私たちは完全に一文無しになってしまった。そこで、私はシカゴには期待できないので、ニューヨークに行かねばならないと決心した。でも、どのように行けばいいのだろうか。(p.42)

どのように行けばいいのだろうか、じゃぁないでしょ。
いや、お茶目さんである。

王立劇場での公演があった夜、眠ることができず、一人でアクロポリスに行ったことを覚えている。私はディオニュソスの円形劇場に行き、そこで踊った。これが最後だと思った。そのあと丘に登り、パルテノン神殿の前に立った。突然、今までの夢のすべてが輝く泡のようにはじけ、自分たちは昔も今も現代人でしかありえないということがわかった気がした。私たちは古代ギリシャ人の感覚を持つことはできなかった。(p.169)

これは挫折ではあっただろうが、制作においてなにかの妨げになったようには見えない。
この後も続けざまに講演旅行を続けていく。
表面上は否定形で語られているこの文章は一方で
彼女の肉体によって肯定的な意味を持ったのだろうと思う。

「サッカー監督はつらいよ」著:平野史

架空のクラブ監督に密着する形で
「サッカー監督」というお仕事がどういうものか教えてくれる本。

一応、時系列的なものは含まれているけど
小説仕立てとかではないので、そんなにセンセーショナルではない。

それでも単純に知らないことも多く、興味深く読めた。
最後はシンプルに歴代日本代表監督の素描みたいなのもあって、
サービスもいいんじゃないかな。(岡田監督まで)

ちなみに戦術の話はほとんどないからあしからず。
試合後の監督インタビューの表情が少し陰影つくようになるかも。
そんな感じの軽い読み口の本です。

サッカー監督はつらいよ (幻冬舎文庫)

サッカー監督はつらいよ (幻冬舎文庫)

J氏は監督に誘ってくれた知人のGMに数日中に返事をするつもりだった。返事は先ほど決めた。引き受ける。OKだ。
むろん不安も不満もある。だが、自分に都合の良い完璧なクラブなどありえはしない。そんなことは当たり前のことだ。どこかで妥協はする。(p.20)

解説をしているJ氏への監督就任依頼から話は始まる。

J氏のクラブでは社長の座というのは栄転でも左遷でもない。サラリーマンとして最後の一仕事的な意味合いが強く、親会社に戻ってもしばらくすると定年退職を迎えるケースが多い。つまり「上がり」なのである。(p.147-148)

サッカークラブも浮世の渡世と変わらんところあるんやなという話も。

「勝ち切る頭脳」著:井山裕太

井山は囲碁で史上初7冠になった人だ。
今はAIの絡みもあってこうした棋士の話は非常に興味深い。

話の流れは自分の半生を踏まえて
勝負の心得や判断など、そしてAIや世界の囲碁界との戦いまで幅が広い。
率直に言うとやや散漫な印象はある。

ただ、1989年生まれの若者なのだと思うと
この年でよく研ぎ澄ましてこれたという感慨はある。
(原稿の初出は2017年)

将棋でもそうだと思うが若いうちから
シビアな競争をする中で、いかにして自分を信じられるかというのが
間違いなくひとつの焦点になっているのだろう。
信じたからといって成功するわけでもないだろうが、
自分を信じずに勝負により多く勝つということはできないはずだ。

勝ちきる頭脳 (幻冬舎文庫)

勝ちきる頭脳 (幻冬舎文庫)

こちらの形勢が良くなり相手が勝負手を打ってくると、つい「安全に」という気持ちが浮かんでいることも多々ありました。
そうした自分の感情に気づき意識的に軌道修正を施します。「いや、違う。守りに入ってはいけない。自分が最善手と信じる手を打つのだ」と気持ちを入れ替える葛藤が対局中に続きました。(p.40)

勝負事は相手を上回る必要があるので、ここでの気持ちの入れ替えは相手の予想を超える可能性を探すことに貢献している。しかし、自分が安全志向になっていることに気づくのは、大胆さよりも冷静さが必要だ。

ミスをしたことはわかっていても、なんとかその手に意味を持たせたい、完全に見捨てたくないという心理で「顔を立てたい」と思ってしまうのです。
しかしこれは、傷口をさらに広げる結果となる可能性が大と言わざるをえません。(p.122)

ここにもその冷静さは発揮される。
盤面の形勢を判断するより先に、己の心の動きをよく見ることが根底にあるようだ。

「数学する身体」著:森田真生

数学が何かというよりは
数学とはどこにあるのかという問いに近い本。

全体的に論旨はやわらかく、妥当なところだとは思うけれど
正直に言って小林秀雄賞という名前からあの人の圧力をイメージすると物足りない。
(ま、本人は別にそれに寄せるつもりもないんだからいいんでしょうが)

もう少し、一歩ずつ踏み込んでもいいのだけれど、
それは数学者らしいはにかみなのだと思う。

彼らは真理や公理を崇拝するので近づきたいと思いながら
急に睨みつけてしまうような無作法だけはしまいと気遣う者たちではあるから。
そうやって、数学と心を通わせるということは
世界そのものと心を通わせることである。

個人的には人間の条件に関して無前提のものがありそうなので
おそらく突き詰めれば僕はそこで反発することになるだろう。

数学する身体 (新潮文庫)

数学する身体 (新潮文庫)

チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を進化的に獲得していたのである。
物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。(p.38)

とある電子回路をコンピュータの自己学習によって最適化させた時の描写である。コンピュータの感受性というものもあり得そうな感じで面白い。

ダニの比較的単純な環世界とは違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的環世界」こそ、人が経験する「風景」である。(p.129)

動物の生態学などで、ここについては現在異論を差し挟めるはずである。
これが人間の特権でないことを認めてから先に進めないといけない。
というか、僕としては人間概念は解体したいのだよなぁ。

「記憶の未来」著:フェルナン・ドュモン

「記憶」と「未来」とはいかにも奇妙な取り合わせである。
しかし、これ以上に今焦点化されるべき問題もあるだろうか。

「物語の共同体」以降、標準の言語、教育は焦点化されて
それらがネーションを作っていること自体は明らかになっているが
無論、それは善悪の判断を伴うものではない。
規格化によって近代化の恩恵をより多く受けられるようになる面もある。

一方で周縁のマイノリティの同化政策という暴力は
フーコー的な生権力を駆使して浸透していく。
しかし、デュモンが問題化しているのはこの問題系ではない。

デュモンはカナダのケベックにあって
フランス系社会を救済しようとしたプロジェクトに関わっている。
この社会はケベックにあってマジョリティであり、
カナダにあってマイノリティである。

このような状況ゆえに、デュモンは権力の不均衡という定数を外して
フラットに記憶と社会を結びつける探求を行う。
多くの誠実な探求がそうであるように本書も性急な答えを持ち出すことはないが
今後も参照項になり得る種が蒔かれているのは間違いなのないことだと思う。

記憶の未来:伝統の解体と再生

記憶の未来:伝統の解体と再生

トクヴィルは、先見の明で私たちのリベラル・デモクラシーの逆説を見通しながら、匿名で柔和な全体主義的な権力の出現を危惧すると述べている。この権力は、「思考する辛さと生きる痛み」を人間から完全に取り除いてくれるような形で、人間の幸福を保証してくるのである。(p.36)

こちらはセルジュ・カンタンによる序文からの抜粋。
この自由の敵に対して明確に抵抗しながら本論は進められる。

今日の個人は、かつての人間とは比べものにならないほど、巨大な社会の全体の動きに巻き込まれている。しかしながら、経済的、政治的、文化的な生産の主導権をほとんど握ることができていない。(中略)匿名のアトムとして状況に埋め込まれているような人間が、どうして自分の参加を必要としていないものを、わざわざ自分の記憶に統合する努力をするだろうか。(p.84)

率直にして、厳しい視点だ。
また、誰も迫害しないうちから、
つまり加害者もいないのに被害を受けた文化だけが増殖しているような絵図である。

私たちがその存在を予感している伝統は、古い伝統の繰り返しではない。今後、歴史のなかでじんるいのさまざまな伝統を解読するということは、それらの伝統を受け入れるのと同じ程度においてそれらを推進するということになるはずだ。記憶は作業が行われる現場となった。(p.120)

行為の現場こそが記憶を回復するという視野から「ユートピア」は描かれる。
しかし、ここは目指されるべき地点の一つではあるだろう。

「帳簿の世界史」著:ジェイコブ・ソール

ひと昔前、武士の家計簿がヒットしていましたけれど、
どうやってお金を使ってきたかというのは誰しも興味があるものでしょう。

本書は会計が生まれたローマ時代から現代までの歴史を紐解くものだ。
中世の宗教的規範と会計のマッチングの問題や、
18世紀に株式会社がすでに投機バブルを引き起こしていたこと
19世紀初頭のイギリスにおいても国家予算は収支を合わせられなかったこと、
興味深い事例に事欠かない。

明らかに必要であるにもかかわらず、その重要性ゆえに
すぐに打ち捨てられてしまう。

正しく会計を把握することは大きな組織を運営するのに特に重要だ。
しかし、その重要性とは特に問題や不調の発見に役立つのであって、
誰かが責任を負わされる類のものだ。故に正しい会計帳簿は嫌われる。

しかし、嫌われてもごまかされても最後に求められるのは正しさである。
そうでなければ、時代は先に進まず、滅びるだけだと歴史が告げている。

帳簿の世界史

帳簿の世界史

ダティーニの帳簿の収支尻がつねに黒字であることは、神に対する負い目は増える一方であることを意味した。(中略)協会は、富を貧者に分け与えるようダティーニを諭した。友人たちは、そんなことをすれば坊主を喜ばせるだけだと忠告したが、ダティーニは遺産をプラートの教会に寄進することをきめる。(中略)いよいよ死を迎えるその日、ダティーニはなぜ死ななければならないのかと考えたらしい。それなりに信心もしたし神に気前よくあれこれ捧げたというのに、会計の達人としては、これでは帳尻が合わないと感じたのかもしれない。(p.58-59)

14世紀イタリアの商人ダティーニに関する記述だけれど、
概ねこの振幅の中に今もいるんじゃないだろうか。