ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「GRIT やり抜く力」著:アンジェラ・ダックワース

継続は力なり、というのは日本でも成語になっているので
決して軽んじられているわけではない。
でも、どれだけ大事なのかというのはそれほど具体的なイメージにならない。

この本でそれががっちり裏付けを見せてくれればありがたいのだけど
実のところ、この本の中でもまだふわっとしているとは思う。

とはいえ、十分に説得的な事例は多く出してくれる。
(進化論では適者が生存するのでなく、
生存者こそが適合者であったことを思い起こす)

つまるところ、
才能よりもやり抜く力が大きく成功する者にとっての必要条件だという事例だ。

後半は著者自身の子供達のことも視野にいれて
やり抜く力の教育について書かれている。
しかし、これは社内教育でもありうるし、自己修練でもありうる視点だろうと思う。

原則を掲げた上での自由および、選択への責任。

まぁクサイ物言いではあるのですが、
スジを通してケジメをつけろってことですな。

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

「私はつい、才能をある人をえこひいきしてしまうんです」などと認める人はいないだろう。それどころか、自分の心のなかですら認めないかもしれない。しかし私たちの選択を見れば、そのような偏見を持っているのは明らかだ。(p.46)

これはプロフィールだけ天才タイプと努力家タイプと交換して
同じプレゼンを聞かせた時の実験による結果を見て言っている。
面白いこと考えるものだが、そのバイアスを乗り越えられる人は有能な投資家になりそう。

エイミー・レズネスキーの研究は、「天職」というのは、職務記述書の中身とはほとんど関係ないことを示している。(p.212)

どんな職業でも「仕事」「キャリア」「天職」のそれぞれの割合が変わらないから
天職を無理に探しに行かなくてもよい、という話なのだが、これは逆に不思議である。
いつも3割は怠けている蟻のようだ。

仕事を天職にせずにいることで幸福になる人もいるのではないだろうか。
これは別の話だけれどもね。

「マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック」著:ナボコフ

素晴らしい装丁でナボコフコレクションが出ていたので
つい買ってしまった。

以下ではさくっと6割くらいネタバレしますが、
話の筋は焼き鳥の串のようなもので味わうべきは串ではないです。
とはいえ、読む楽しみが失われるようなネタバレは避けているつもりです。

マーシェンカは下宿でのお話で
ちょうどバルザックゴリオ爺さんと読む時期が重なっていたので
オーソドックスな設定から入ったのだというのが分かる。

人妻になった昔の恋人に会えるかもしれないと
今の恋人を振るろくでなしのお話ではあるけれど、
愛の幻想よりも遠く不滅のものを見つめながら書かれているようである。

本筋には直接絡まないはずの詩人の存在が印象的。

ゆるやかなドラマで、映像的な印象も薄いけれど、
何かざわつかせるような小説だ。

キング、クイーン、ジャックは
田舎から出てきた甥が都会で成功している叔父さんにお世話になる。
その奥さんと不倫をするという話で、中々に艶かしい側面はある。

(若いだけでホイホイ人妻に乗せられるフランツ君は駄目なやつだ。)

一方で、生気のない人形たちの描写もあり、
悪夢のような印象もある。
また、書き振りも誰についての話かわかりにくく書くなど
不安を抱えながら読むことになると思う。

そうした仕掛けを施すことで先の小説よりも
スリルの強い物語でありながら幻惑的なものに仕上がっている。

娯楽としての要求を満たしながら、
高い水準で美意識を発揮したナボコフらしい作品だと思う。
これが処女作と第二作とは、さすがですね。

そうそう、あと20ページを越える解説も良かったです。

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

はっきり申し上げましょう、ロシアは滅びたのです。<神を宿す>ロシアの民は、まあ想定の範囲内ではありましたが、ろくでなしどもの集まりで、我々の祖国は永久に滅んでしまったのです。(p.39)

もちろん作中人物の言葉だが
ロシアからの亡命者であるナボコフの生きた時代が垣間見える。

たとえ色あせた二篇の詩であっても、ガーニンにとっては、温かく不滅の実存として咲いた花のようなものだ。安物の香水や、懐かしいとおりにたつ看板が、不滅のものに思われるのと同じように。(p.144)

マーシェンカはおそらくこの述懐に対する証明として書かれている。

「ベルルスコーニの時代」著:村上信一郎

派手派手しいスキャンダルまみれになって退場した人、
そんな程度の印象でベルルスコーニのことを覚えていた。

しかし、そもそもどうやってそんな乱痴気騒ぎをするような人が
大統領になったりしたのか。

本書はベルルスコーニを通してその時代の
イタリア政治状況を描くもので、実業家時代から追ってくれるが
ライバルの左派の動向や混沌としたマフィアとの関わりなども詳しく書いてくれている。

さて、中身だが、
ポピュリストというにはあまりにもダーティな話が多い。
収賄だけでなく、マフィアを使いながら、
使った下っ端をさらに別にマフィアに消させたり。
法律も特定の仲間を守るために作るなど、お手盛りの手法が目立つ。

恐ろしいのはそうした素性は見えてきたはずの中でも
2度目のベルルスコーニ政権へと2001年に復活を遂げるところだ。
本書ではそこに民放TV局を牛耳る彼のメディア戦術の浸透力の強さを見て取る。

すでにスキャンダルにまみれた状態から政権を取るという
ゾンビのようなベルルスコーニの時代はセックスで終わる。

最初は17歳の少女との援助交際、彼女の夢は国会議員になることだったらしい。
次に自分のテレビ局から選んだ十人の美女を議会選挙に出馬させようとして
その際に、ベルルスコーニの妻から離婚を要求されるという騒動になる。
最後はプロの娼婦とのスキャンダルだが、これは娼婦の側から暴露されたのであった。
なぜか。
彼女は選挙応援を約束されていたのに、ベルルスコーニが支援をしなかったからだ。

要するに、全部セックスで議員になるという話だったのであって
ただのセックススキャンダルというにはあまりにも不純である。
そして、これが応援母体であるカトリックの逆鱗に触れて政治生命は潰える。

マフィアとの癒着では落選しないのにね。

むろん、ここに至るまでに南北の経済格差や、
宗教の分布の仕方、また、歴史的政治状況などが複雑にからまってはいる。

しかし、なんというか、
21世紀になって民主主義は舐められているのではないかと暗澹たる気分になる。
しかし目を背けず、記憶するべき時代なのだとも思う。

マフィアのような犯罪結社がこうした政治家たちの庇護の下で事実上の「治外法権」を享受してきたことは、もはや秘密でも何でもなく、すでに誰もが知っている事実であった。それゆえ、有権者が救いようのない絶望感に襲われるのも、ある意味では当然のことであった。いいかえると、このような究極の政治不信のなかで、北部同盟の荒唐無稽な「扇動」が効果的に機能する環境は、整えられていったのである。(p.102)

扇動とは俺たちの税金が南に使われるのはおかしい、独立しよう!というやつです。よく聞きますね。

自らに誇りを持つ民主主義国であるならば、たとえどんな国であれ、次の総選挙でまちがいなく首相となるとされている人物が、今も捜査の渦中にあるということなど考えられもしないであろう。しかも、どんな容疑かといえば、資金洗浄、殺人の共犯者、マフィアとの癒着、脱税、政治家や判事、財務警察への贈賄といったものなのである。(p.215)

これはイギリスの「エコノミスト誌:2001年4月28日号」からの言葉だ。
これを嚆矢にイタリア国内の知識人も打倒キャンペーンを行なうが、当選を許すことになる。

「親鸞」著:野間 宏

浄土真宗の開祖である親鸞を語ろうとしているようであるが、
どうも、当時の社会的な要請から親鸞で語ろうとした本のようである。

1973年という出版年は政治の時代であったと思う。
とは言っても、それによって歪められた骨子はなく
単に細い道を歩くだけの本だ。
しかし、そんなか細く長い道を歩こうとしなければならない時代だったのだ。

末法の世というのが仏教を捨てる世界のことではなく、
形を変えてでも残るべき仏法の救いがあるという見方は目から鱗だ。

人はどんな世界でも救われ続けるだろう。
それ自体が人間の業であるにしても。

本の出来としては微妙です。
言うべきことの核はしっかりしていますが、
論の道筋は緩めで手当たり次第にぶつかっているように見えてしまいます。

親鸞 (岩波新書 青版 853)

親鸞 (岩波新書 青版 853)

閉ざされた壁を打ち破って、その境界を越えるすべを見出すことがなければ、このすべての人間は救いから見離されたものとするほかなく、それを救いえないというのでは、もはや仏といわれるものも仏ではありえず、そのような仏は捨て去るほかないということになる。そして、親鸞は仏をしてその境界を越えさせるのである。(p.38)

熱烈な原理主義の匂いを感じる。
まぁ、原理主義でない宗教は株式会社と特に変わらんだろうけど。

それでは親鸞がそれまで寺院などで用いられていた阿弥陀三尊の絵図をすべて捨て去り、そこにただ「南無阿弥陀仏」「南無無碍光如来」などという言葉だけが書かれている掛軸を掲げることにした、その重大な意味をまったくとらえることのできないところへと落ち込むほかないだろう。親鸞は旧仏教のなかにあった呪術的なものを徹底的に排除しようと全力を傾けたのである。(p.76)

ここにある神秘主義の拒否というのはおそらくクリティカルな問題。
ただ、本書では深く取り上げられない。よく引かれる曾我量深をあたる方がよさそう。

「森へ行きましょう」著:川上弘美

別の生き方があったかもしれないと考えることは誰にでもあるだろう。
それは選択の結果とかそういうのではなくて、
ただ単に別様に生まれて、伴走しているのかもしれない。

この小説は互いに互いの伴走者として1966年の誕生から
2027年の60歳までの愛の物語となっている。

こっぱずかしいけれど、これは愛の物語と言わなくてはならない。
主人公の名前はルツ/留津といい、これは旧約聖書から採られたと説明がある。
(そうではない世界もある)

また、森へ行きましょうという言葉はかの童謡を思い起こさせ、
それはつまり恋人が恋を語らう聖域としての森である。
一方で、単純にヨーロッパの森ということにもなるが、
ヨーロッパの森はキリスト教によって切り開かれるべき野蛮さの象徴である。

ほとんどキリスト教という言葉は出ていないし、
宗教的な救いの話はまったく関係がないのは確かだ。
しかしこれだけ参照させるのは救いとはまったく関係のない愛の話として
これを成立させようという企みがあるからに違いない。

川上弘美がこんなにもハイコンテキストなのを書くというのは、
はっきり言って驚いている。もっとささやかな主体のとろけを描く作品が多いのに
この作品はこうした象徴性以外にも出来事の時系列を整理して、
あきらかに実際の社会とコンタクトしようとしている。

いや、おそらく逆なのだ。川上弘美は震災の揺れを起点にして書いている。
伴走していたはずのパラレルワールドは掟を破るし、2つが並列しているように見えて
無数の主人公が押し込められていることがそこを起点に暗示されている。

これは揺れによるブレが引き起こした感覚であり、
このようではなかったかもしれない、という仮想が
人の選択の域を超えていることとして表現されていることにつながっている。

救いとは無関係にただこうあることを歓ぶ、人生を愉しむこと、
悲壮感ではなく、運良く/悪くこうあることを受け入れる姿勢は愛なのだろう。

パラレルワールドの中でも同じ人名が違う形で出てくるが、
幾人かは必ず親友として側にいたりするそうした描き方は
ロマンティックなイメージでもあるが、著者の人生への感謝を感じる。

まったく楽じゃないのに不思議と明るい気分になるような読み味のよい本だ。

森へ行きましょう

森へ行きましょう

林昌樹はたぶん、ほんとうに、よくわからなかったのだ。なぜ留津にキスしてしまったのか。(中略)林昌樹は、たちすくんでいたにちがいない。あんなになめらかに世界に対処しているように見えた若き林昌樹だったけれど、あれはきっと、林昌樹がようやく編み出した、世界への処し方だったのだ。(p.132)

「日下と暮らすのもいいな、なんて考えることも、たまに、ある。いや、おれたち
気が合うし、日下って間抜けだから、楽ちんだし」
何よ、その間抜けって。ルツは笑った。笑いながらも、林昌樹の言葉はそくそくとルツの身に迫ってきていた。
人生に参ってしまった時には、誰かと暮らしたくなる。(p.290)

林君はどちらの世界でも永遠の親友です。
前者は24歳の留津。後者は41歳のルツ。

「ハイファに戻って/太陽の男たち」著:ガッサーン・カナファーニー 訳:黒田寿郎/奴田原睦明

短編がいくつか入っているが、
やはり「ハイファ」が一番小説としてよくできている。
小説的フィクションを強度に転換することが巧みに行われている。

そう思うのは要するにほかの短編が
ざらりとしたナマの感触のまま突き出されているように感じるからだ。

特に密入国を描いた「太陽の男たち」は描写としてはほとんど
ハードボイルドのようである。
感情に入り込むのではなく、淡々と行動とひたすらな暑さが描かれている。

感情としての内面はない。ただひたすらな暑さとともに
クウェートに向かわなくてはならない状況だけがある。
そしてそれが正規の方法などあらかじめありえず、
また何が最善であるかも分からないという状況。

内面など何か意味を持つだろうか。
状況においてノーとしか口に出来ない、扉を開けばそこをくぐるほかない、
そんな選択を奪われた状況に内面など意味を持つだろうか。

そうした葛藤を踏み越えて、「ハイファ」はとても情緒的である。
それがなにかの回復を意味する訳ではないだろう。
しかし、奪われたものと奪われようのないものを峻別した地点に現われた
人間こそは語られるに値する人間なのだ。

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)

原因といえばただ一つ、太陽にうちのめされたからなのである。これは紛れもない事実である。だがうちのめされると表現したのは誰だろうか。いずれにせよ、たいへんな才人に違いない。この空虚な砂漠は、まるで焔と煮えたぎるタールの鞭で、彼等の頭を鞭打つ眼に見えぬ巨人のようであった。だが太陽は彼等をうち殺すことはできようが、同時に彼等の胸中にわだかまる卑しいものみなを抹殺することができるだろうか。(太陽の男たち:p.87)

旦那にだって、人がふるえるのをやめさせるわけにはいかないでしょうからね、そうじゃありませんか?今でさえ、これだけはわたしにふんだんに残されている権利なんですからね。(彼岸へ:p.162)

「そうだ。確かにそうだ。われわれはいかなるものも、置き去りにしてはいけなかったのだ。ハルドゥンも、家も、ハイファも。私がハイファの通りで車を走らせている時に、私を襲ったあのゾッとするような感情はおまえを襲わなかったのかい。私はハイファに親密な気持ちを抱いているのに、ハイファはそれを否定するのだ。(p.233)

「セカンドハンドの時代」著:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 訳:松本妙子

ソ連からロシアへの移り変わり。
国家の崩壊と誕生を生き延びた人々へのインタビューから本書は成り立っている。

貴重にしても、ありふれた題材ではある。
国家による抑圧と解放、偽りの国民概念。
実際、本書もその領野からの声をひろっている。

ただ、もっと切実な日々の生存者としての言葉と、
きらめくような共産主義自由主義への憧れの言葉、
そうしたものは国家の変遷とは無関係に充満している。
(憧れとは、そこに在るものであってはならない)

そうして密度を増した人間的時空の中に「ソヴォーク/粗連人」
という不名誉な表現で現れる国民概念はフィクションであったとしても、
真実であることを妨げない強度を持っている。

かつての共産主義者から、兵士、革命にかかわったもの、アルメニア難民、エトセトラ。
本当に幅広く、一人一人粘り強く耳を傾け続けた労作だ。

ロシアの精神を見るとともに
断絶した声の交錯は、どこの社会にも普遍的に見られるものだ。
それは和声としてまとめるべきものでもない。
ただ春雨が来る前の空気と鳥の声を身体が覚えていられるように
こうした声の地鳴りに耳を澄ませてもいいんだと思う。

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

わたしたちには西側の人間が幼稚にみえる。というのも、彼らは、わたしたちのように悩んでいないし、ちっぽけなニキビにだってあっちには薬があるんだからね。それにたいして、わたしたちは収容所で服役して、戦時中は大地を死体でうめつくし、チェルノブイリでは素手で核燃料をかきあつめていた……。そして、こんどは社会主義のガレキのうえにすわっているんですよ。戦後のように。わたしたちはとても人生経験豊かで、とても痛めつけられている人間なんです。(p.42)

列車がベラルーシ駅に近づくとマーチがなりひびき、アナウンスをきくと心臓がばくばくしたものです。「乗客のみなさま、列車はわが祖国の首都、英雄都市モスクワに到着いたしました」。「活気ある、強大な、無敵をほこる/わがモスクワ、我が祖国、わが最愛の……」この歌に送られて列車を降りるのです。(p.110)

ひと月前はみんながソヴィエト人だったのに、いまではグルジア人とアブハジア人……アブハジア人とグルジア人……ロシア人に、わかれちゃった……(中略)
見た目はふつうの若者。長身で、ハンサム。彼は、自分の老いグルジア人の教師を殺した。学校で自分にグルジア語を教えたという理由で殺したのです。落第点をつけられたといって。こんなことができるものなの?(中略)
神さま、お救いください。信じやすく見さかいのない人びとを!(p.308,309)