ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「最高殊勲夫人」著:源氏鶏太

昭和軽薄体の母体になっているような文章で書かれた
ガッチガチの王道ラブコメで今更驚くようなことは特にございません。

ただ、このサラリーマン社会と家社会の
濃厚な昭和感は久しぶりに感じたもので
もはや資料的な価値があるとすら言えると思います。

ご都合主義的な展開なので、
あからさまな当て馬がいっぱいいてもやっとする人はいると思う(笑)

ただ、この人、1912年生まれで
1930年から会社勤めしながら小説を書き続けて1951年に直木賞をとって
本作自体は1958年からの雑誌で連載したものです。
戦争をくぐってここまで影のない作品を書くのは
かえって信念の人ではないかと、これしか読んでないけど思うのです。

最高殊勲夫人 (ちくま文庫)

最高殊勲夫人 (ちくま文庫)

隅におかれる娘よりも、隅におけぬ娘の方がいいような気がしていた。これからの娘は、大いに、隅におかれないようにしなければならぬのだ。堂々と真ン中に出ることである。(p.85)

こんなこと書いてあるけど、フェミニズムの人が見たら
ツッコミどころは多いと思う。ここでの意味合いはせいぜい主役として
前に出ることであっても、意思を行使するとかいうこととは無関係なのよね。

「いえね、奥様。今や、杏子さんは、家中で話題の中心でありまして、それで、昨夜、大島からご主人に、今後のご交際を許していただくようにお願いしたんですよ。」
桃子はいらいらしていた。千代子夫人は、見かけの十倍くらい、ふてぶてしい女に思われて来た。ニコニコしながら、自分のいいたいことは、全部、いってのけている。(p.160)

こういう会話は強い。どんな人が話しているのか見える。
それにしても、自分の旦那を苗字で呼ぶなんてのは今ではもう聞かないなぁ。
下々のものだからかしらんけど。

「実録 アヘン戦争」著:陳舜臣

戦争が始まってしまった理由というのには興味がある。

人を殺す許可を互いに出すのが戦争であり
それは端的に倫理的ではない。
それに値する何かがあると考えてするのか、
倫理などというのは糞の役にも立たないのか。

さて、本書は言わずと知れたアヘン戦争である。
世界の帝国の一つであるイギリスが貿易で阿片を持ち込むようになってから
それに反発をした中国を逆に武力でやり込めて香港を割譲させたのが
この戦いのあらすじで、これが覆るわけではない。

ただし、その際に中国側の役人がどのような覚悟で向かったか、
その際の筋の通し方など、中国人の士大夫の強さが見えるし、
結局こじれた時に、首をすげ替えたところどんどん後手に回ってしまう
官僚主義的な問題の延焼の仕方とか、示唆に富む。

また、イギリスも開戦にあたって戦費の支出を議会にかけた時に
賛成 271
反対 262
であって、「不名誉な戦争である」と言った演説もあったことは
十分に記憶すべきで、それは
そこまで言っても別に止められなかったということを記憶したいと思う。

実録アヘン戦争 (中公文庫)

実録アヘン戦争 (中公文庫)

禁令を嘲笑するように、アヘンの輸入はますますふえる一方であった。もちろん密輸なのだ。
あきらかに、これは為政者の怠慢である。
彼らは人民が時を廃し業を失っても、それほど痛痒をかんじない。むしろ人民が賢明になることをおそれた。為政者にとって、愚民政策は魅力に富んでいる。(p.42)

為政者にとって国を治めることが簡単に見える時、
その国は傾いているのだろう。

アヘンこそは、疲弊したベンガル政庁の財政にとって、命の綱ともいうべき収入であった。清国がアヘンを買わなくなれば、英国のインド支配は揺らぐのである。イギリスは、どうしてもアヘンのために戦わねばならなかった。(p.198)

そうでなければならなかった戦争などほとんどないが
払うコストのためにかえって高い価値があるかのように称揚されることがほとんどだと思う。

「南ア共和国の内幕」著:伊藤正孝

古い本なので現状の話にはならない。
ただ、それでも読むに値する。

どのように差別が起こって
どのように維持されていくのかのひとつのケーススタディ

差別は制度と社会的規範によるところが大きいだろうが
個別の差別構造は歴史的なものと分かち難くある。
このレポートは十分とは言えないまでも
そうした視点も持ちながら当地の人々の声を集めている。

しかし、何よりも自分の動揺までさらけ出して
より誠実なレポートであろうとした点が評価できると思う。

日本人が所詮有色人種で、
差別される側であったことをこんなに
強く感じさせられたことも久しぶりである。

事実ある日本人駐在員の奥さんは、デパートのエレベーターで「中国人が来た」というささやきが起るたびに「ノー、私は日本人よ」といい返したという。気丈な彼女はそれを三年間実行した。だがその言葉の裏には危険な意味が潜んでいる。「私はいやしい者ではない。人間以下でしかない中国人や黒人と同等にみないでくれ」(p.34)

南アには三つの黒人大学がある。だから大学を出ることは不可能ではない。かりに地方生まれの黒人少年が苦労して大学を出たとしよう。しかし彼は就職口をみつけようとする段階でパス法にはばまれる。原則として都市への移住が禁止されているうえ、下層労働者しか白人は受け入れようとしないからである。もう一歩さがって、彼が下層労働者に甘んじて移住許可をとったとしよう。もう一つの壁が立ちふさがる。「職業確保(ジョブ・リザーベーション)」とよばれる地方条例である。この場合の「確保」は白人のための確保であり、つまりは黒人の締出しを意味する。(p.101)

能力についていえば、黒人はまさに優秀だから差別されるのである。南アの白人はよく知っている。黒人を少し教育すれば、自分たちと同じ能力にらくらくと達することを。その結果、職業や経済的地位を奪われることを。だから職業確保制(ジョブ・リザーベーション)が必要なのであり、黒人は先天的に知能劣等という神話を必死にぶちあげる。(p.163)

「人事屋が書いた経理の本」著:共和発酵工業(株)

経理について経営の視点で抑えるべきことをまとめた本である。

細かい仕訳の実務にはさほど役には立たないだろうけれど
数字の説明をする人間からしたらどのように説明すると
分かってもらえるだろうかという点では勉強になる。

古い本なので最新のテクニックなんかもあるでしょうけれど
ここで掴める情報の整理の仕方だけでも7割は間違えないはず。

説明する立場でなくてもそれまで数字に縁のなかった
部署の人が大局的に理解するためにも有用な内容だと思います。

人事屋が書いた経理の本

人事屋が書いた経理の本

カネの恐さの第1は、カネには”待った”が効かないこと。損益が赤字になってもすぐ倒産することはないが、カネが間に合わなければ直接命取りになることになる。(p.171)

キャッシュは最強。

「七緒のために」著:島本理生

正直に言って「七緒のために」は星4つで、傑作ですが、
後半の「水の花火」はいかにも習作であって
前のがあるから読めるという体なので
本全体としてはやはり星3つにせざるを得ない。

最高でも星4つなのは
丁寧すぎて繊細すぎるというあたりで
手癖と言うほど雑なものではないけれど
時折これ見よがしなところがある点。

それをのぞけばかなりの濃度でこの時代を描ききっている。
特殊な物語とはまったく思わない。
誠実でないものを用いて誠実であろうとする態度は
小説家としては当たり前の営みで究極の目的であろう。

偉大な嘘つきであることを吹聴するのは
川上弘美で最後になってしまったと思う。
だから島本はこの話をビルドゥングスロマンとしては描かなかった。
思春期の主人公を出しておきながら。

他にもスクールカウンセラーの来栖の関わり方は
本来ならミステリにおける探偵にもなり得たものを打ち捨てた形になっている。

こんな読み方は、叙情性も高く
えぐりに来るようなセリフも多いこの作品の楽しみ方ではないかもしれない。

しかし、誠実さのために闘われた
この作品に敬意を表することを、僕は優先させよう。
作品の面白さは読めばわかるし、読まずにわかるものなら読まなくていい。

七緒のために (講談社文庫)

七緒のために (講談社文庫)

私はいかに転校前の私立の学校が血統書付きのペットみたいに隅々までお金がかかっていたかを悟った。(七緒のために:p.18)

最序盤の毒。もちろんアンチテーゼだが、
ペットでなかったとしたらなんなのか。

この目は、珠紀が残していった目なのか、それともわたし自身の目なのか、今でも正直言って区別がつかない。本当は他の子のおもちゃを欲しがる子供のように、彼女が誰よりも良いと認めた男の子だから自分も良いと錯覚してしまうだけなのかもしれない。(水の花火:p.75)

こうやって要約できてしまうようなセンテンスを
書くようでは我慢が足りない。
いや、デビュー直後の作品というから鍛錬を積んだのだな、という感想はあるが。

「英語の帝国」著:平田雅博

英語の拡散とその需要のされ方についての通史である。

紛れもなく帝国的な広がり方と言えるし、
もしかすると帝国主義とは言語の不均衡な浸透を言うのではないかとも思える。

しかし、当然軍事的な侵略のみで言語の浸透は起きない。
当該地方の積極的な受け入れもあってこその不均衡な浸透である。
つまるところ、それが「役に立つ」から喜ばれるという側面だ。

京都に住んでいると外国からの旅行者を多く見かける。
ヨーロッパだけでなく、アジア圏からも多く来ている。
中国人か韓国人か台湾人か、区別はつかないけれど
土産物屋の店員やホテルの対応は特に困らない。
みんな同じように英語を話すからだ。

これが支配言語があやふやで
日本語を勉強しないと日本に行けないのでは大変だし
受け入れ側も3、4ヶ国語話さないといけないのでは
これはもうほとんど無理だと言っていい。
それを英語だけで来訪客のほとんどをカバーできるなら
これほど役に立つこともない。

これを自発的な植民地化としてとらえるのは真っ当なことだと思う。
真っ当なことだと思うが、この場合、防ぎようはないのではないかと思う。
もしくは勝敗があるとすれば、
言語の植民地化が始まる前から勝敗は決していたのだと言うほかないのではないか。

今の日本語は間違いなく消える。平安時代の日本語はすでに
日本の標準語ではなくて、明治維新からの教育とNHKによって
薩長連合あらため大日本帝国が日本語を征服した。

それとまた同じことが起きるだろう。
そして、教育の力を持ってしても青森の人の話す言葉は
僕には聞き取ることが困難だし、
沖縄の人の言葉は単語からして何か違うが、
同じ日本語を話していることになっている。

200年後ぐらいには京都訛りの英語はねちっこいとか言われたりするんだろう。


「上からの」英語帝国主義は、ウェールズの場合、ある程度は成果があったかもしれないが、報告書に見られたように、イングランド教員(ネイティヴ・スピーカー)の不足から現地のウェールズ人教員で間に合わせること、そこから来る教員の無能さ、そのために必然的となる生徒の達成度の低さ、にもかかわらず親の英語への熱望が見られたことなどから、完成度を見ると、いかにも出来損ないの帝国主義としかならなかったようである。しかし、これらは、ウェールズばかりか、非英語地域に英語教育をもたらす際に、世界的に見られる現象であることを確認しておこう。(p.44)

グレートブリテン内ですらこのような体たらくである。
そして、その不完全さとは関係なく普及するものが言語なのだ。

『新財務諸表論 第5版』著:田中 弘

それぞれの会計基準について、
会社法との差異や国際会計基準の流れなどをわかりやすく解説してくれる。

ただし、この著者の方の見方というものがしっかり出ているので
初学者としてはどこまで採用すべきかは他の本も読むべきかと言う気もする。
ただ、この本に関して言えばそういった立場を明言した上で
論点を明確にしているので、十分にフェアな本だろう。

会計原則の歴史的な扱われ方など
直接現在の会計に反映しないあたりの話も興味深く読めた。

各章ごとの用語解説も充実しています。

新財務諸表論 〔第5版〕

新財務諸表論 〔第5版〕

前者は「財産の変動」を測定するのが会計(財産計算説)だというし、後者は、「利益の計算」こそ会計の仕事(利益計算説)だという。これだけ違った会計の定義が、現在の会計学で、2つとも堂々と通用しているのである。(p.19)

この2つはぱっと見それ程違わないようにも見えるけれど、
ここら辺に例えば粉飾の余地があったりするわけで。くわばらくわばら。

「企業の財政に不利な影響を及ぼす可能性がある場合には、これに備えて適当に健全な会計処理をしなければならない。」
これを一般に保守主義の原則と呼んでいる。正直にいって、この一文を何回読んでも、わたしには何をいっているのか理解できない。(p.151)

理論系でここまではっきり理解できないという人も珍しい。
学者らしい頑固さで、好感は持てる。