ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『子どものための文化史』著:W.ベンヤミン 訳:小野寺昭次郎、野村修

ラジオ放送用の原稿として書かれた本書の断章たちは
普段の彼の占星術士のような予感に満ちた文章とは趣が違うけれども
優雅にエピソードを渡っていく手つきは、どれも惚れ惚れとする。

ドイツ、というよりはベルリンについて語られるその空気は
日本ではなくて、東京が固有の磁場を持っていることを踏まえて
現れている文化放送にも似ているような気がする。
まーどっちも聞いとりませんが。

しかし、子どもと文化というものの距離といえば
どんどん切り離しがいものになるでしょう。
私たちの出生率は下がり続けて、成人になるまでの時間は長くなっていきます。

遺伝子を中心に進化を語ろうとすれば、
人間の進化が多様になる可能性は低くなっているし、
将来に渡って変化していく速度も遅くなっていると言えます。

それでも、人間は未だしばらく環境の変化に適応しながら生きると思われるのは
遺伝子によって環境に適応するのではなくて、
文化と技術によって適応するからです。

技術は直接的に必要なものであればほとんど
自動的に保守の動きが起動します。

しかし、人間の社会のパターンを形作る文化は語られなければ残りません。
しかも魅力的でなければならないのです。
ベンヤミンは意識的に語られなければ忘れられるだろうテーマを選んで
王冠を授けるように(もちろんそれは子ども向けのサイズだが、しかし、儀式としては本式で)
電波に乗せて届けていったのだと思う。

扱われたものは
ジプシー、ドイツの昔の強盗団、ブートレッガーたちなどのアウトロー
リスボン地震、広州の劇場の火事、一九二七年のミシシッピー川の氾濫などの事件・事故。
それから最後にベルリンの方言、ベルリンのおもちゃの旅などのベルリン風俗。

どれもこれも強い印象を与える。
フラッシュを焚いた瞬間の明るさを感じた後に残る映像のように
読み終わった時には、現在の像とすれ違いながら重なるものにそれぞれの感じ方が現れると思う。

ブートレッガーたちが彼らの酒類を確保するために、ありとあらゆる手を編み出したことはあきれるばかりである。かれらは警察に仮装し、ヘルメットの中にウィスキーを忍ばせて国境を越える。かれらは葬列を仕立て、柩のなかに酒瓶を詰めこんで、国境を通過する。かれらはゴム袋でできた下着に酒をみたして、それを着込む。かれらは酒の小瓶を仕込んだ人形や扇を作らせ、それらをレストランで売らせる。そうこうするうちに、雨傘や写真機や靴型といったいかにも無害な品物の中にも、ウィスキーが隠されているのではないかと、税関や警察が気を廻すようになった。(「ブートレッガーたち」p.119)

禁酒法は誰のためにあったのか、何かを禁ずるという時に何が起こったか。
面白げなエピソードだけれど、ほとんどゼロ距離だね。2020年と。

ライプツィヒからドレースデンへの鉄道が通じたとき、これに対して、ある粉屋が訴訟を起こした。風車への風が鉄道によって奪われる
、というのだった。(「テイ川の河口での鉄道事故」p.158)

テクノロジーの一番初めの恐怖は滑稽かもしれないけど、皆真剣だし、
実際にやってないことの問題は、やってみるまで分からなかったよね。

その頃中国の皇帝は、異常に高い家々の絵を初めて見せられたとき、かれはひどく軽蔑的に言ってのけた。「ヨーロッパはひじょうに小さい国にちがいない。だからそこの人間たちは地上に住むだけの場所がなくて、空中に住まなければならぬのだ。」(「賃貸集合住宅」p.301-302)

土地があっても、高層建築になってしまったベルリン。
だから皇帝のこの言葉は的外れなのだけれど、僕らもきっとそう思ってしまうだろう。

『ワールド・カフェをやろう!』著:香取一昭、大川恒

ワールド・カフェというのは
多人数型のワークショップに近いミーティング形式のことです。

ミーティングの参加人数が多い場合に
意見が偏ってしまったり、
参加者のコミットメントが下がることに
課題感を感じることがあると思います。

ワールド・カフェは
テーブルを分散した上で意見を出しやすくしつつ、
複数のラウンドに分けて、
テーブル間移動を促すことで意見の広がりを得ようとするのが特徴だと思われます。

ただ、広がりを得ることが目的なので
課題探索のシーンで使うことをメインで考えるべき手法でしょう。
また、このようなフレームだけでなく
楽しいリラックスした雰囲気づくりも推奨されていて
参加する分には楽しそう、やるのはちょっと大変そうな感じかな。

ワールド・カフェをやろう

ワールド・カフェをやろう

人は他人に共感してもらえると、自分が大切にしている価値や自分に対する価値を見出すことができます。逆にこのような会話がなければ、人は生命としての躍動感を持って生きることはできません。(p.44)

正直、筆は滑り気味だと思うけれども、
基本思想としてはこう。

『春宵十話』著:岡潔

数学者の書く数学の本は読めないのだから
こういった本を読むことになる。

だいぶ戦前の道徳的すぎるところが
鼻についてしまうけれど、
真理に向かおうとする時の進み方は特徴的で面白い。

コツコツした積み上げよりも
ハーモニーに近い捉え方で証明を得ようとしているようだ。

過去の学説を改めて解く時に
現代の方がおよそ簡単に解けてしまうのも
その調和の度合いが高まったからだと説明する。

分かるようで分からなない話だけれども
人類の積み上げてきたものだという過去の人への尊敬と、
未来に渡すものの意味合いということが感じられて
いかにも真面目な人であったろうことはわかる。

1963年刊行という戦後の雰囲気の
ひとつとしても面白く読めるかもしれない。

今はギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。(中略)月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです。(p.193)

人間の大切な部分が眠ると、
動物に近くなると多分岡潔は考えている。
けれども、別の動物になる可能性もある。
それはさておき、こういう超然とした感覚で学者はいた方が面白い。

日本は滅びる、滅びると思っていても案外滅びないかもしれない。というのは、日本民族は極めて原始的な生活にも耐えられるというか、文明に対するセンスが全くかけているというか、そういうところがあるので、自由貿易に失敗して、売らず買わずの自給自足となっても、結構やっていけそうにも思えるからである。(p.153)

さて、今はどうか。
存外そうかもしれぬが、個人的には嫌だ。絶対に嫌だ。

『アタリ文明論講義』著:ジャック・アタリ 訳:林昌宏

ちょっとタイトルとの齟齬がよろしくない。

文明論についての話ではなくて、
未来予測の意義と方法論を説くものだと読んだ。

そういうものとして読めば別に良いのだけれど
文明についての、ここの評価はないし、
未来予測を使って文明を考えるというようなこともない。

サブタイトルに「未来は予測できるか」とあり
原著もこのタイトルであったようだから、
こちらにしてくれればよかった。

ただ未来について語る、という視点に立って
古代の占い、天気予報、金融工学と辿っていくような整理は
それ自体楽しいものだ。

未来を予測するための方法として紹介されているやり方は
地味ながら、これしかないとも思えるものなので
参考になるところはあるのではないだろうか。

さまざまな未来の発生確率に対して正規分布を用いると、極端な出来事の発生確率は過小評価されてしまう。(p.143)

株価の変動に対する評価に対する話だ。
確かに外れ値を外れ値として処理するのは簡単だが、
それこそ人の期待が組み込まれた現象の評価は安定しにくくなる
真っ当な理由があるように思える。

今日、自分の未来を予測できない、あるいは予測したくない人は、将来の惨事に対する覚悟が必要だ。月並みな例をいくつか挙げると、彼らは、退職後の準備ができていない、返済の見込みのない借金で暮らしている、自分の行動が環境や他者におよぼす影響を無視する。そのようなことをすればどうなるのかわかっていても、彼らはそうした不都合を無視する。(p.24-25)

かなり脅迫めいた言い回しである。
これはアタリがあれやこれや聞かれて、
「こいつら自分で考える気ないんじゃね?このままだと滅亡するんじゃね?」
と思ってきたことの蓄積でないかと思うんだが、どうだろう。

一人ひとりの未来は一人ひとりが予測しながら対応しなくてはならない。
それは許されているし、そうすることは倫理的ですらある。

『1兆ドルコーチ』著:エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アランイーグル 訳:櫻井祐子

ビジネス書と評伝のあいのこのような本だ。

しかし、この書き方になったのは
このビルという「コーチ」が行動そのものよりも
人格に特徴があるということを意識してのことかもしれない。

それは余計に原理原則というような
無機質なものに抽出することもできただろうけれど
それでは伝わらないと思ったということだと思う。

シリコンバレーの名だたる創業者たちに
コーチをしながら渡り歩くなんていうのはどこか
古代中国に現れた賢者のようでもある。

ただ、ビルの表しかたはとても脂ぎっていて
いかにもアメリカンな感じだ。
アメフトのコーチだったという経歴もあるしね。

たぶん、このコーチの仕事は文化ごとに
違う表出のされ方があるはずだと思う。
いかにチームにフォーカスできるかの一つの実践例として読むのがいいだろう。

完全に余談だけれど、
アップル社のソフト、クラリスをめぐるごたごたは
ちょうど僕が一番熱心にMacfanとかを読んでた時だったので
当時を思い出して懐かしかった。

その辺の変遷もなかなかドラマティックで面白いと思う。

次の高みを目指す人たちにとって、個人的な目標を、チームを成功させるという目標と並行して、または優先して追求したい誘惑には相当なものがある。(中略)一方で、個人より集団の業績を優先する人たちのチームは、そうでないチームに比べ、一般にパフォーマンスが高い。したがって、そうした「ライバルたちからなるチーム」をコミュニティに変え、足並みをそろえて共通の目標に向かわせることが重要になる。(p.50-51)

主題になるのはこのあたりだろう。
ただ、コミュニティといってもビジネス上の課題を追求するコミュニティであることは
はっきりしていて、そこら辺のやり方が
間違いなく構成員の出身文化に影響されるだろう。

『モードの迷宮』著:鷲田清一

これはファッション誌「マリ・クレール」に掲載されたコラムを集めた小論集だが、
そのスタイルは襞の入り組んだ陰影に着目する彼にはちょうど良いかもしれない。

境界は動きとともにある。
完全に固定化された境界はただの図像であり、写真だ。
哲学者の鷲田が境界にこだわるのはそれが自我を包んでいると確信しているからだ。

境界は接点でもある。
鷲田は境界の揺らめきことに誘惑の匂いを嗅ぎつける。
誘惑とは、わたしたちの存在に対する可能性であり、
肯定する熱量の源泉であるように思う。

鷲田の美点はその
人間的な肯定の源泉を信じて掘る代わりに
人間そのものにフォーカスしないところだ。

空虚な人間概念を弄ぶことを避けて
衣服と視線そのものを見つめ続ける。
セクシーでも過剰さのない文体は女性誌に求められた男の視線であったかもしれない。

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

コルセットも靴も、わたしたちの身体的動作を拘束し、制限しようという共通のポリシーで貫かれている。しかし何と言っても、わたしたちはじっと動かないでいるわけにはいかない。歩かないわけにもいかない。そこで、こうした拘束を旨とする衣料品に適合した別の身のこなし方、身体の別の使用法といったものが編みだされることになる。(p.50)

この観察から

ファッションの構造は、<自然>の<文化>への変換、あるいは<文化>への変換、あるいは<文化>の生成そのものと関わっている。(中略)何かを禁じ、抹消してゆく運動が、そのまま、禁じられ、抹消されるはずのものを喚起し、煽りたててしまうという、ファッションのパラドクシカルな運動を切開するための切り口もまた、ここに見いだすことができるとおもわれる。(p.54)

このような帰結が導かれてはいるが、そもそものこの話のアイデアの中核はこちらであろう。

自由を禁じることに対する風当たりは強くなっているが、
これが文化に対する自然の朝鮮などではないことは明らかで別個の文化が戦っている。

ただし、基本的にはプラグマティズムによる反撃に過ぎない。
新しい衣服にあった動きを作るときに新しい文化のひらめく瞬間があり
そこで初めて別の現れをもたらすチャンスがあるということだ。

ヒールを履かないキャビンアテンダント
しかし、制服をきちっと着ながら
マスクをミシン縫いしている姿でニュースに現れる。

『技術の街道をゆく』著:畑村洋太郎

書名のとおり、技術の現場を巡りながら
技術がいかにして受け継がれ、かつ変容してきたかということを見せてくれるエッセイだ。

ただ、正直に言うと話のネタはそれぞれ面白いのだが
本の全体の方向性はあまりうまく作れなかったのではないだろうか。
おそらく最終章の「思考の展開法」がひとつの解答のようにしたかったはずだが
それより多くのものを事例が示していると思うので、
ここは別の本も出していることだから、あえて書かなくてよかった。

筆致は非常に饒舌であるから、編集者はそれに負けてしまったのだろう。
著者の責任よりは僕は編集者の責任と思う。

しかし、取材はしっかりどの場合も現場に赴いたうえでの考察であり、
技術者としての視点は確かなものがあるし、好奇心の広さと鋭さもよい。
もう少し範囲をしぼってこの人が探求したものがあれば面白いのではないか。

技術の街道をゆく (岩波新書)

技術の街道をゆく (岩波新書)

たたら製鉄の反応速度は遅く、現代製鉄の反応速度は速い。現代製鉄が短時間に大量の銑鉄を作れるのは、この反応速度の速さによる。しかし、高温のためにリンやケイ素などが不純物として混ざってしまう。それを第2段階のプロセスである転炉で取り除き、鋼に変えるのである。ただし、完全に取り除くことはできない。成分量で見ると、たたら製鉄による鋼と比べて不純物が1ケタ多い。(p.38)

ほほう。というところだが、このたたら製鉄は一度完全に立ち消えたものを改めて立ち上げたとのことで、著者がこのように取り上げることはその立ち上がった火を残すことに貢献するだろう。

地元の消防団の人は「電気が来ないと閉められないような扉ではいけないのです」と話してくれた。まずは人力、もしもの時は駆動装置の力を借りて閉める。駆動装置は電動ではなくガソリン駆動であった。電気をむやみに信用してはいけないと指摘されて、ハッとしたことを今でも覚えている。(p.58)

岩手県宮古市の田老の防潮扉についての記述であり、先のセリフは大震災の前であった。
誰かを助けた様々な仕組みや知恵は確かにあったのだ。
足りなかったかもしれないが、何もなかったなどということは当然なかった。