ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『サル学の現在』著:立花隆

人と猿の違いはどのあたりにあるのかということは
「人間の条件」についての思索を行うことに近い。

1991年に出版された本なので、
「現在」とは言っても差し引かなくてはいけない部分が多いが
当時の先端の研究員たちに深く広く話を聞いていく。
教授レベルだけでなく、助手たちの研究にも直接話を聞いているあたりに
最先端を聞こうという意気込みが見て取れる。

猿と一口に言っても
チンパンジーからオラウータン、ゴリラ、ヒヒなど様々な種類がある。
そのどれも一定の社会性を持っているが、その中身は多様であり
母系社会、父系社会の分岐は非常に偶然的な要素が強いのではないかと思わされる。

また本書に子殺しという問題が、何度か形を変えて話者を変えて登場する。
ショッキングなことではあるが、そこに考えられるそれぞれの見方は違いがあって見応えがある。
仮説を組み立て、それを裏付けるために次にどのような調査をしたいかなどの
展望を語る研究者たちの言葉からは、研究に対する純粋な好奇心、学究心が伝わって来る。

20年経ってもこの本に良さがあるのは
このような熱意がしっかりと伝わってくるところだろうと思う。

サル学の現在

サル学の現在

  • 作者:立花 隆
  • 発売日: 1991/08/01
  • メディア: ハードカバー

ゴリラとゴリラの間のコミュニケーションを見ていますとね、相手に自分の考えを伝えたいんだが、そういう音声だけでは自分が考えていることを十分に伝えられなくて、困ったなあという表情をしていることがよくありますよ。知的コミュニケーション能力はあるのに、コミュニケーション手段がともなっていないという感じですから、本当に言語一歩手前のところにいるんでしょうね。それからゴリラは歌を歌うんですよ。(p.227)

よく観察している。ゴリラの困ったなあという表情とはどんなものだろう。
ゴリラの歌はヨーロッパの民謡みたいなメロディーらしいがそれも気になる。

ーー全体がわからないにしても、そのわからなさが前とは違うんじゃないか、という気がするんですけれど……。
「それは違うてますやろな。だけど、よう違うてるのか悪う違うてるのかは知らんぞ」(p.35)

超重鎮の今西錦司に対するインタビューの一幕。
分子生物学方面からの積み上げについてすげなく扱う今西。
プライドと嫌悪感がはっきり出ている発言だけれども、
ここまで突っ込む立花も凄い。

そして実際のところ、よく違うのか、悪く違うのか、
それはすぐには分からんことだなぁと思う。
そして「よく違う可能性」自体を否定している訳ではないのは
研究者らしい良い態度だと思う。

『家畜化という進化』著:リチャード・C・フランシス 訳:西尾香苗

人間は動物や植物を自分たちの都合の良いように変えてきた。
今ではどれも当たり前のように見える動物たちの生態そのものが
自然なものではなく、人が関わってきた中で現れたものなのだと気付かされる。

もちろんこの本はそこに善悪を見ているわけではない。
あくまで進化についてのメカニズムを説明する理論の一つとして
「家畜化」というプロセスを観察している。

人に慣れて、警戒心を落とすような進化は同時に
顔の骨格が変わっていったり、尾の変化、あるいは体のサイズの縮小など
関係のなさそうな外的な様相にも影響を与えていく。

それにしても多くの動物が登場する。
章のタイトルになっている動物だけでこのようになる。
キツネ、イヌ、ネコ、ブタ、ウシ、ヒツジとヤギ、トナカイ、ラクダ、ウマ、人間。
そして各章の中でそれぞれまた複数の品種の変遷について語られる。
人間以外は。

この本は家畜化というプロセスがヒトにも適用されるだろうことをイメージしながらも
人間の比較すべきサンプルがない、という点でその限界も提示している。
限界を踏まえた上でしかし、興味をそそられる論点についてもたっぷりと語られている。

「家畜化」というと「隷属」のようなネガティブなイメージがありそうだが、
寛容さ、コミュニケーションへの志向性、ということであればどうだろうか。
それらを選択するような世界をヒト自身が創り続けてきたのは間違いのないことだ。

もちろん、いろんな動物が出てくるので
ヒト以外の生物進化の歴史をのぞく本としても面白いです。

イエネコは「尾を立てる」という新しい行動を進化させている。友好的であることを相手に示すシグナルだ。ヤマネコは社会性が低く、この行動はまったく見られない。だが、ライオンはイエネコと同じように尾を立てる。これは収斂進化の一例だが、ライオンとイエネコは共通祖先を持っているので、収斂が起こるのも当然ともいえる。尾を立てる行動は、ネコ科動物のなかでも社会性のかなり高いものだけが進化によって獲得できる行動のレパートリーの一つなのである。(p.102)

最後の一文は完全にスキルツリーの考え方みたいで面白い。
いや、しかし、取れる行動の幾らかは生物学的に予め選ばれているという話で、それ自体も非常に興味深い。

人間はまた協力するという意図をもって非言語コミュニケーションを行う能力でも、チンパンジーより優れている。(中略)チンパンジーはさまざまなジェスチャーを行う。しかし、指さしをして他の個体の注意をそちらに向けさせるという行動は、いまだかつて報告例がないのである。人間の子どもは、一二ヶ月までには指さしによって自分が何をしたいのか示すだけではなく、大人が欲しがっていると思われるもののありかを示すこともあるのだ。(p.375)

言われてみれば確かに!となる。
しかし、一方で警戒を群に伝える行動などはある。
ここには他者のコミュニケーションと言っても種類があって
それぞれに可能になる、ならないの条件があるということだろう。面白い。

『武器としての交渉思考』著:瀧本哲史

ツールという言い方をせずに武器というのは
まったくもって穏当ではない。
けれども、そうしたものを探している人に配りたいからこそこの本のタイトルであろう。

しかし、交渉は明らかに戦いではない。
戦いは敵に敗北を突きつけることだが、
交渉はそれ以外の道があることを期待してのコミュニケーションになる。

(戦争は外交の一環だという時に、
一方でそれが下策なのは自明だ。
コミュニケーション放棄のコミュニケーションだからだ。)

中身はそれをちゃんと反映しているし、
故に相手を叩くような交渉術ではなく、
先に進むための、より広いフィールドに出るための
きっかけとして交渉が据えられている。

いっとき、著者の「武器」シリーズは清新なイメージで売られていたが
しかし、この現状認識に基づく「武器」という言葉選びは
著者が日本の若者の状況をのっぴきならないものと感じているからではないか。
もろもろ崖のふちかもしれないが、しかし、何かをすることはできる。
その時の助けになる本だろう。

武器としての決断思考 (星海社新書)

武器としての決断思考 (星海社新書)

 複数の人が集まってひとつの目標に進むときには、大きなビジョン(ロマン)と、それを実現させるためのコスト計算(ソロバン)の両方が大切になるわけです。
 そして、交渉こそが、そのロマンとソロバンをつなぐ役割を果たしてくれるのです。(p.69)

ロマンは大事。人が自我を持って生きるならロマンを失っては生きられない。

 相手がどれほど非合理であっても、大切なのは、その交渉によってどれだけ大きな実りのある合意を結べるかです。
 交渉は相手とケンカをしたり仲良くなるために行うのではありません。(p.239)

非合理的な人間との向き合い方についても一章を割いている。実用を意識した配分だと思う。
そして、そこでもそれ相応のやり方がある。
もっとも、こちらから相手の合理が見えない場合も多いので、そこを先に考えたいところだ。
だから後ろの配置だろうね。

『アイデンティティが人を殺す』著:アミン・マアルーフ 訳:小野正嗣

アイデンティティという言葉が市民権を得たのはさほど古いものではないでしょう。
一方で、すでに古くなっているような気もします。

今ならダイバーシティと呼ぶような気がします。
私のアイデンティティの問題ではないという立ち位置を取ることで
問題の先鋭化を避けるような振る舞いから出てきたのではないでしょうか。

タイトルは非常にセンセーショナルな言葉ですが
実際のところアイデンティティには
人が強く固執して、対立を鮮明にしてしまうような力が働いているのは間違いのないところでしょう。

本書はあくまでエッセイとしての書き振りをすることで
アイデンティティを中心に回りながらも
本来の目的を達成することを忘れないように進んでいきます。
それはアイデンティティを二重三重の帰属もあるとした上で
それぞれの誇りとともに生きていくことができる社会を構想することです。

この本の中でとても優れているのはこのような地点への探索に向けて
危険なテーマをあっさりと触れないようにする手つきでしょう。
僕はその振る舞いの中に解決する決意の誠実さを感じました。

即効性のある解決策などあるようなものではありませんが、
考える土台の地平としては良いですし、
彼が避けたエリアもきちんと押さえると地雷マップとしても考えられます。

アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自立したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。(p.36)

この二重性はしかし、個人というもののあり方でそのものでもあり、
クリプキの名指しに関わる話を思わせるものです。
そのことを指摘する含意は、アイデンティティの問題は
近代に生まれた問題のようで、ほとんど原初からあったであろう問題だということです。

誰であれ、本を開くたびに、画面の前に座るたびに、議論し考えるたびに、「故郷から離れる」気がするようなことがあってはなりません。誰もが近代を他者から借用していると感じるのではなく、近代をわがものとすることができなければならないのです。(p.161)

これは宿題だ。
しかし、借用という概念をポジティブに持っていくことは何かできそうな気がする。

『イスラエル』著:臼杵 陽

イスラエルパレスチナ問題とあわせて語られる事が多いと思うが
本書は新書というスペースの中で、イスラエルという国そのものを
なるべく大枠から伝えようとしてくれている。

そもそもの成立の仕方自体が
特殊な国だという気持ちで見ていると
特殊な場所の特殊な出来事のように見える。

いや、そうなのかもしれないけれど
どの点がどの程度特殊なのかということを考えにくくなってしまう。
しかし、人がおり、社会がある。そこは変わらない。

イスラエルは国民の統合をユダヤ教に委ねているわけではない。
ユダヤ教によって統合されている、
という人々もいればそうではないという人もいるし
ユダヤ教が根底であるが、アラブ人を排除する必要はないとする立場もある。

同じユダヤ教の中にもヨーロッパからの移民(アシュケナージ)と
アラブからの移民(ミズラヒーム)での立場の違い。
移民する時期の違いもあるが、
その多くは外面的な特徴の違いがあるだろう。

イスラエルで起こっている出来事は決してイスラエルだけの問題ではない。
いずれ同じ問題を解かなくてはいけない時が来る。
政治的、経済的な繁栄はそうした問題を解く時に猶予を与えてくれるというだけだ。

イスラエル (岩波新書)

イスラエル (岩波新書)

  • 作者:臼杵 陽
  • 発売日: 2009/04/21
  • メディア: 新書

社会主義シオニストマサダ砦の玉砕における集団自決を、降伏せずに最後まで戦った国民的英雄行為の事例として称賛した。イスラエル版の「伝統の創出」である。(中略)
マサダの防衛戦でのユダヤ人の勇敢さが、ヨーロッパのユダヤ人がホロコーストに直面して戦わずして死を選んだという「不名誉」な受動性と対置されていることは明らかであった。(p.72)

これは全く思いもしなかった視点であるが、
勇壮さは統合運動と相性が良いのであろう。シオニズムはそのような積極的な側面があると。

和平の挫折は結局のところ、和平の果実の分配に与れずに不満を蓄積した貧困な社会層が、和平に反対する右翼勢力を選挙で支持したためであり、労働党貧困層の不満に目を向けることができなかったからであった。「和平の配当」に与れなかった社会集団の代表が、貧しいミズラヒームであった。(p.191)

弱いものが優先されることは合理的な配慮をすれば当然ありえない。
大多数を占めるものの利便性を図ることは、もっとも効率が良いはずだから。
しかし、それでは社会は自らを危うくすることでしか変われない。

『冷血』著:トルーマン・カポーティ 訳:佐々田雅子

書名は聞いたことがあってもよく分からず読んでみた。

ある事件のノンフィクションということだが、
文体はとても小説的でとてもよく練り上げられている。

具体的な叙述が多いのはそれだけ具体的な内容にあたっているからだが、
主観的であるような言葉が露わになるのはそれだけ
直接の聞き取りを行ったからだろう。

事件のノンフィクションだと中立性や真実性を際立たせるために
警察の取調べ記録や法廷での裁判記録などを中央に据えることもあろうが
この本の場合はそういったものが存在する前に作られたような感じがする。
無害化される前のなるべく生に近い物語を作りたかったに違いない。

この物語には「何故」という視点はない。
しかし、それだけにただ悲しいだけの事件にも
気を惹きつけられるような挿話が多くある。

ただただ人生は、
そうでなければならなかったということはないだろうに
取り返しのつかない事が多すぎる。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

ラップ家はローマンカトリックだったが、クラッター家はメソジストだった。娘と少年がいつか結婚するという夢を抱いていたとしても、その事実だけで夢を断ち切るのに十分な理由になった。(p.21-22)

アメリカはカンザス州、1959年。時代の風俗的なものもしっかりと描かれている。
農業がメインの穏やかな街での事件だった。

彼女に対する態度を一貫させ、貴兄が弱い人間であるという彼女の印象に何かを付加するような真似はしないこと。それは、彼女の善意が必要だからではなく、このような書簡が今後もくると予想されるからであり、そして、それらの書簡は貴兄がすでに有している危険な反社会的本能を増幅させるばかりだからである。(p.267-268)

これは事件を起こした犯人の姉からの手紙を紹介した上で、
それについての刑務所仲間からの批評をそのまま掲載している。
単にシニカルというよりも根が深くねじれたものを感じる。犯人に対してか、または著者に対してか。

『鬼速PDCA』著:冨田和成

PDCAをきっちりやるには継続性とテンポが両立しないといけない。
継続できなければ、フィードバックのないやりっ放しになるし、
テンポが遅すぎれば、チェック機能があっても手遅れ状態からしかできない。

本書はその2つの点をきっちり抑えて
どのように整備していけばPDCAを具体的に回せるかを教えている。

いつの時点で読んでもそれなりに役立つと思うけれど、
できれば就職前に読んでいた方がいい。
なんなら、大学受験前くらいでもいい。

本当にやりたいことを書き出してからの
PDCAへの落とし込みなんてのは
薄ぼんやりとした雰囲気で大学を選んでた
自分には読ませてもよかっただろうなと思う。
(別に大学に不満があったわけではないが)

もっともPDCAの前の時点で自分自身のしたいことに気づくというのは
簡単なようで、意外に難しいので、そこはゆっくりやったらいいんじゃないかと思う。
日頃の仕事をチャキチャキPDCAで流しながら、ね。

鬼速PDCA

鬼速PDCA

こうした思いはPDCAサイクルにおいては検証の対象とならないし、よく見かけるPDCAサイクルの図にもまったく反映されない。
 しかし、実際にPDCAを回すときにこうした思いは、それを回し続けるモチベーションの源になる。だから定性的だからと言ってわざわざ切り捨てる必要はない。(p.68-69)

ツールを紹介する時に限界について確認されているのは、誠実もしくは、良心的であることを示していると思う。

検証フェーズに入ったときは仮説に自信がある人ほど謙虚に、自分を疑ってかかることが重要だ。
 さもなくば、他の可能性が視界から消えてしまう。(p.200)

この辺も落とし穴について書いている。少し大袈裟すぎるタイトルではあるが、
その実、どちらかというと細やかな配慮をする人間が書いたのではないかと思う。