ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『断片的なものの社会学』著:岸政彦

単純に美しいエッセイ集として読んでも差し支えない。
ここには破調があるけれど、それらは選ばれており、
選ぶことは美に接近することだ。

写真は撮影技術以上に編集力がものをいうと僕は思っている。
どのように並べるか、引き延ばすのか、切り取るのか。
脈絡のない跳躍こそが、動悸息切れをもたらし、求心の売り上げにつながる。

本書には挿絵に街の見過ごされたような写真が使われていて、
この本が編集で成り立っていることに自覚的であることがわかる。
編集とは断片のつなぎあわせであり、器用仕事としての社会学の系譜であることを知らしめている。


ところで
「断片的なものの社会学」があるなら
「断片的でない社会学」もそれほど美しくはないけれど、当然にある。

社会学は方法の学問として成立している。
だから、対象ごとに「教育社会学」だの「犯罪社会学」だのがある。

けれどもここでの「断片」「編集」「器用仕事」は
さらに別の方法を使っていることを示唆している。
それでもなお「社会学」であることが揺らがないとすれば
いったいその学問の方法とは何を指しているのか。

その方法への信頼があるからこそ、
「断片的なもの」が「断片的でないもの」に取り込まれずに、
けれども伝わることを確信してこのような本が出来上がったのだと思う。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 単に、階下の住民が何かを勘違いしただけなのだろう。真相も何もはっきりしない、特にドラマチックなこともない。ただこれだけの話だが、それにしても、自分では見てない、話に聞いただけの「からっぽの部屋」のイメージが、妙にいつまでも印象に残っている。(p.61)

私たちは香港の刑務所で過ごした十年というものを、想像することはできるが、それと同じ長さの時間をそれとして実際に感じてみることはできない。目の前で訥々と、淡々と語る男性の話を聞きながら、私はその十年という時間の長さになんとかして少しでも「近づく」ためにはどうすればいいのかを考えていた。
 だがその十年は、当たり前の話を書いているようだが、よく考えれば私のなかにも流れていた。その男性がその十年を過ごしているころ、私にもまた同じ十年という時間が流れていた。この、ほんとうに当たり前のことに、インタビューがおわってこのことを何度も考えているうちに、ふと気づいたのである。(p.143)

 いつまでも人は惑う。その時に人は隣あっている。

『交渉術の基本』著:グロービズ

交渉というとずる賢く立ち回るような印象もあるが
本書は交渉をもっとよいものとしてとらえている。

そもそも交渉が発生するのは情報が非対称である時でしかない。
つまり、互いに相手がどういう状況で何を求めているかの情報が完全に共有されている時、
それは交渉ではなくて純粋な意思決定の場所になるだろう。

立場の強弱に関係なく、交渉のテーブルにつくという時には
情報の不均衡があるという前提が共有されている。
もちろん、それはカサにかかっている場合もあるだろうが、
立場が弱くとも相手の前提条件を転換させるような提案があれば
単純に押し負けるわけではない。

また、自らの前提条件も相手の情報を受けながら柔軟に対応することで
当初想定されていた結末よりも、互いによりよい価値に近づくことがあることを本書は提示している。

勝利条件の変更を考慮せずに勝ちに行こうとする交渉は
騙し合いであり、それも交渉のひとつではあるが、
本書が「基本」として据える「価値創造型交渉」こそは
なにかと板挟みになりやすいビジネス上の交渉人たちに誇りをもたらすものだろう。

 交渉において、もしこの交渉が決裂したらどうなるか、自分はどう行動するか、相手はどう行動するかを、あらかじめ見極めておくことは極めて重要です。
 これは交渉に関する最も重要な古典的概念の一つで、BATNA(Best Alternative To Negotiated Agreementの略)と呼ばれています。直訳すれば「交渉で合意することに次ぐ最前の代替案」ということで、「交渉で合意が成立しない場合の最善の案」という意味です。(p.27)

基本にして最重要ポイント。
これは相手のBATNAを知るだけでなく、自分のものもきちんと把握できているかが問われる。

 多様な利害関係者の存在と彼らの間の力関係を整理する手法として、マッピングをしてみることをおすすめします。
 マッピングする際には「考えられる登場人物は全部書く」、つまり交渉を取り巻くさまざまな利害関係者たちを可能な限り書き込むようにしましょう。書き込むにあたっては、簡潔にそれぞれの立場を書き添えてもよいし、固有名詞だけでもかまいません。大切なのは「視野に入っている」ことです。(p.142)

 テーブルの前だけでは打開策のない場合に、見えていない利害関係者を想定すること。
ここで立場を書かなくてもいいというのは、先入観をもってあたるべきではないからだろう。
視野の広さと、柔軟さが必要だ。

『西欧の東』著:ミロスラフ・ペンコフ 訳:藤井光

原題は "East of the West"という
シンプルに人を惑わせるような語彙だ。

東欧の作家には苦しい状況を反映したものが多いが、
彼は確かにそれが反映されたうえで、
もう一歩抽象化されたモチーフを扱っているように思う。

多様なパーソナリティ、複数のオリジン、
こういった複層的なあり方はありふれたものだ。
けれども、そのどれでも選べるということは稀である。
最悪の場合、複層的であるがために「おまえは何者でもない」とされることもある。

ここまでは現状認識の話だ。
ペンコフのモチーフは、その絶望を描いているのではなくて
何者かではなかった時の、そこに残る希望に賭け金を置いている。

あまり楽しい話はないかもしれない。
それでも読後感は息苦しくはない。
そのようにして受け入れてもよい、という人生への態度がここに描かれている。

西欧の東 (エクス・リブリス)

西欧の東 (エクス・リブリス)

「減量のための食事法とか男女関係の相談には少しばかり飽きてきてな。デートの三つの必勝法、細身になるための三つのステップ。なあ孫よ、今じゃ世の中は何でも三つの簡単なステップになっているな」
もうレーニンは読んでないってことかい?と僕は尋ねた。(p.92)

もちろん、詐欺商品だった。でも詐欺じゃないものなんてあるだろうか。僕は「今すぐ購入」をクリックして、注文を確定した。共産主義のカモ一九四四さん、おめでとうございます、と確認メッセージが出てきた。あなたはレーニンを購入しました。(p.102-103)

『異文化理解力』著:エリン・メイヤー 訳:樋口武志

副題に「ビジネスパーソン必須の教養」とあるけれど、
これの意味するところはこれが実用書であるということだ。

なので、繊細な各文化の記述を期待してはいけない。
あくまで、どのような形でギャップに足をとられることがありうるか、
ということをまとめた本である。

カルチャーギャップが起きる8つの軸の取り方一つをとってもそうだ。

1、コミュニケーション(ローコンテクスト、ハイコンテクスト)
2、評価(直接的なフィードバック、間接的なフィードバック)
3、説得(原理優先、応用優先)
4、リード(平等主義、階層主義)
5、決断(合意志向、トップダウン
6、信頼(タスクベース、関係ベース)
7、見解の相違(対立型、対立回避型)
8、スケジューリング(直線的な時間、柔軟な時間)

これは何故この8つなのか、どこにも根拠はない。
かぶっているところはないのか?これ以外にも考えられないか?
という点はある。

しかし、実用、というのは実際にこれで困ったことがあるから
こうなるのだ、ということでまったく問題無い。

そして、大雑把に受け入れてみてしまえば、
確かにそれぞれの段階で行動パターンが違いそうだということも分かる。

この本の良い点は、たとえば、
1と2のような関連していそうなものでも別個に考えるべきだという事例を示すことで
先入観による付き合いを戒めるところだ。

(たとえば、ローコンテクストで直接的な言い回しをすることが多いが、
マイナス評価に関しては間接的になるアメリカなど)

また、ギャップは国対国だけでないと思えば
自分の行動様式と相手の行動様式の違いに気を使うことで
多くの物事をスムーズにする可能性がある。

価値観の多様化が避けられない状況の中で
こうしたギャップについての実用書は特に求められるものだろう。

誤解によって行き詰まったりいら立ちを感じた時は、自分を下の立場に置き、自分自身を笑い、相手の文化をポジティブな言葉で表現するのがどんなときでも効果的な方法だ。(p.74)

自分のコミュニケーションスタイルを説明するべく文化の違いに言及しよう。(p.110)

違うことをポジティブにするためにも、
穏やかに違いに自覚的であることが大事だ。

『パタゴニア』著:ブルース・チャトウィン 訳:芹沢 真理子

祖母の家に飾られた恐竜の皮から話ははじまる。

それがあったと言われる南米のパタゴニアへと旅は進んでいくのだが、
なぜか話はすぐにそれていく。
無数のならずものたちが大西洋を渡り、南米で暴れまわっていた。

足跡は重ね合わされて、地理と時代は互いに引きずり合うように進んでいく。

歴史的事実から、現在の会話、資料、および書簡など
様々なスタイルが混ぜこぜになりながら読者を飽きさせないように
旅をナビゲートしてくれる。

ただ、実のところを言うと僕はうまくついていけなかった。
リズムが早すぎて像を結べないままに次の話に行ってしまう印象だ。
いや、それは意図的であるかもしれない。

冒険の意味が分かるのはそれが終わってからのはずで、
この本がひとつの冒険であるように作られているのなら
意味などわからないままに出来事は山積していくのだ。

パタゴニア (河出文庫)

パタゴニア (河出文庫)

死んだおじさんというのは、一九〇〇年九月十日、ネヴァダ州ウィネムッカのファーストナショナル銀行に強盗に入ったワイルド・バンチ・ギャング団のことをいう。手紙を書いたのはロバート・リーロイ・パーカー、当時ピンカートン探偵事務所のおたずねもののリストのトップに名を連ねていた男で、むしろブッチ・キャシディという別名で世間に知られていた。(p.82)

固有名の連なりは神話的星座の描き方に近い。

一八九〇年代、かつてパタゴニアで芽吹いたダーウィニズムが、残酷な形でパタゴニアに戻り、それがインディオ狩りに拍車をかけることになったようだ。(p.206)

 それに直接追悼の意を示すことはないが、語る言葉を持たないうちに虐殺された現地人についての言及は多い。

「唯一合法的な武器は拳骨だよ。へっ!俺にたてついたやつは全員地面の下で眠ってるぜ。ここにいるのは神じゃなくて権利だ」(p.338)

 会話はなんというか、映画的である。

『重力と恩寵』著:シモーヌ・ヴェイユ 訳:田辺保

重力とは悪しき惰性のことであり、
恩寵は神から求められることなく与えられる奇跡のことだ。

思想家というよりは
はっきりとキリスト教に近い神学の特性を持っている。
しかし、彼女はキリスト教者ではない。
ユダヤ人の左派闘士であるという肩書すらついている。

しかし、一神教の真髄をストイックに追い求めた彼女の姿勢は
宗教家といって差し支えがない。
それは神を問わない。

自らを完全に放棄することは、宗教家にとって
誤りの多い俗世から切り離すための基本であり、極意であろう。

しかし、同時にこの滅私は誰を上に据えてもありがたくかしづくものであるかもしれない。
これは不遜な物言いととられかねないが、
自らを羊にしてしまう行為と紙一重だ。
もちろん、愚かな重力には耐えなければならない。
きちんと自らの足で立つことは大前提であるが、恩寵を一方に据えて
その奇跡の光が大きく強く見える時ほど難しくなるように思う。

知性ほどに真の謙遜に近いものは何ひとつない。知性を実際に働かせているときには、自分の知性を誇るなどということはありえない。そして知性を働かせているときには、人はそれにしばられていない。(p.212)

人間は、エゴイストでありたいと思っているのだろうが、そうであることができない。これこそ、人間の悲惨の何にもまして胸をうつ特長であり、そして、人間の偉大の源泉である。(p.105)

奴隷の状況とは、永遠からさしこむ光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。(中略)それがなければ、強制と利得だけが、労働へとかりたてる刺激剤になってしまう。強制には、民衆の抑圧ということが含まれている。利得には、民衆の堕落が含まれている。(p.294)

断章の最後は「労働の神秘」で締め括られ、実際の横顔を映し出す解題につづく。
ここには彼女の思想がその形而上的な強度を
つねに現実的な地平と結んでいたことを示そうとするものだろう。

『メルケルと右傾化するドイツ』著:三好範英

メルケルは確かに希有な人物だ。
しかし、歴史は適した人間を連れてくるのであって、
メルケルでなくても、同じような人物がドイツに現れたに違いない。

筆者の筆致も彼女の特性を抑制的に描いている。

ここでバランスをとるように現れているのは
「右傾化する」大衆である。

社会主義的な動きに反発しながら
ナショナリズム新自由主義の融合というのは
もはや、どこででも見てきたものだ。

そのトリガーはそしていつも難民だ。
この反応は事前に押さえ込むことは難しいのかもしれない。


また、「半覇権国家」という言葉で表現されるドイツのポジションは
ヨーロッパ世界の隠然たるバランサーであることを示している。
これは日本にも近いものがあるが、真に覇権を狙おうとする国同士が動く局面では
もはや大した力を持ち得ない気がする。

今はギリギリのタイミングではあるが、
追随することではドイツも日本も呑まれるだけのように思う。

メルケルと右傾化するドイツ (光文社新書)

メルケルと右傾化するドイツ (光文社新書)

  • 作者:三好範英
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2018/02/15
  • メディア: 新書

「私は決定的な瞬間には勇敢だと思う。しかし私は助走にかなりの時間が必要だ。決断の前にできるだけ慎重に考えることを試みる。突発的に勇敢であるのではない」(p.69)

政治家には決断が付き物だが、そこに至るにはそれぞれのスタイルがある。
メルケルはこうらしい。いかにもトランプとは反りが合わない感じだ。

 メルケルの振る舞いは理想の旗を降さないことで、大量流入の事態に直面しても難民受け入れに肯定的な3〜4割の世論の支持をつなぎとめつつ、現実的な政策で難民政策に不満を持つ層にも支持を広げるしたたかなやり方に見える。(p.281)

理想主義と現実主義の折衷は幾度も彼女の特性としてあらわれる。
はっきりとは書いてないけれど、現状は拒否している最右翼のAfdとの何かしらの妥協も
現実主義的に飲み込むことがある、ことを匂わせている。

そうなった時はそうなった時かもしれない。
しかし、政治家のパーソナリティーとはその程度のものであるような気がする。
歴史に名を残すのは彼らかもしれないが、その決断のすべては彼らの内側とは限らない。