ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『シン・エヴァンゲリオン』庵野秀明

特に熱心ではないけれど、
一応新劇場版は全部見てきたので世代の嗜みとして感想を言い置いておこうと思う。

ネタバレは特に気にしないのでそのつもりで。

序盤の戦闘シーンはQでもあったけど
導入のために作成された派手な立ち回り。

シューティングゲームの趣きで爽快感はあるがそれはあくまで前菜。
エッフェル塔をねじ込むあたりの動きの意外性は
アニメーション作家としての力量を誇示していてドヤ顔が見えるがさすがだと思う。

けれどもここで一番おっと思ったのは
敵の砲撃を受けるに当たって艦艇を盾にするあたり、
この「身を投げ出す」感じは今回の一つのポイントだろうと思う。

全体に死に近くて、そして死に意味を与えようとする物語が意図されていると思う。
終戦に近づけば無数のエヴァシリーズが出てくるけれど、
使徒の無機質なもののイメージよりも死骸やゾンビの方が近く見えた。

あと、ここでマリが敵エヴァンゲリオンを足止めしている間に戦っているのは
バックヤードにいるであろうスタッフチームで、
シン・ゴジラは見てないけど、そこで描かれていたと聞いている
裏方の戦い、主人公でない人たちのドラマもここにある。


1、死への接近
2、他者の存在

冒頭にはこの二つがすでに提示されていて
そのうえで、場面は転換する。

農村の風景で、これは加地のすいか畑を思い起こさせるけど
シンジはまだ立ち直らない。変わって綾波が農作業をするシーンが続く。

綾波とシンジの関わりは結局のところ
エヴァの元々の本筋と言っていい。
ボーイミーツガールとオイディプスの筋のデッドロック
今回も優しくしてくれた綾波が溶けてしまってシンジが発狂するかと思いきや
いい加減終わらせるためにはそういうわけにはいかなかった。

終わったことは受け入れるしかなかったのだから、まぁそうなのだが。
デッドロックはなかったことにしてしまうのだな。
いや、歩みを進めればそのように見えるだけか。ともあれ、シンジ君は戦場に戻る。

この農村のシーンはデッドロックのお話を終わらせた上で
彼らのために戦うんだよ、というモチベートの部分で燃料の積み替えが意図されているだろう。
一方で、これは庵野のモチベートが実際にある程度積み替えられたものとも同じ動きだろうと思う。

限られた人々のための物語であるわけにはいかない。
アスカの言葉なら日常を支える仕事はしないが世界を守る仕事をするということになる。

さて、いよいよ最終決戦というところで
モヨコデザインと思われるプリッとした唇のスタッフがやたら
「ありえない」とか「変」とか「気持ち悪い」とか言ってるのは
この作品が作品のために自然な感情よりも優先させているものがあることのセルフツッコミかと思う。

この辺からどんどんやりたい放題になってくる。

それにしてもネルフ側は二人しかいないのにすごいよね。
気がついたらゲンドウ父さん直接乗り込んでくるし。

そして頑張ってお父さんとの対面をしたと思ったら今度は
女の子二人に銃口を向けられるモテモテぶり。

これも一応今までのお話の裏返しであって、ボーイミーツガールなんで
他に男のスタッフがいてもこの場面では空気になる。
シンジ君は女の子の注目を一心に集めるけど、欲しいのはお母さんなのです、って
まだその話続いてんの?


そして4thインパクトが起きるけど明らかに津波
どこからどう見ても津波
前作Qでは直後すぎて消化できなかった
東日本大震災をどうしても描きたかったんだろう。

1、死への接近
2、他者の存在

というモチーフは結局そこにリンクしていると思う。
死に意味を持たせようとしすぎてヒロイックにだいぶ偏ったものの
それでも生き延びたことに対してポジティブであろうとする意思は感じた。

まぁ、しかし親子喧嘩に巻き込まれて一人責任を取らされる
ミサトさんは本当に損な役回りであるな。

また最後にリアリティラインをずらしながらの最終盤は
サービスカットの意味合いも強いだろうけど
そろそろ目を覚ましなさいよというあたりでもあるか。

レイの髪の毛が伸びた描写は僕はとてもよかったと思う。
レイがアニマであることから逸脱して、一人の他者として言葉を発することができたのだから。

それにしても最後のエンディングに急に
リクルートスーツのCMが入って終わるのは摩訶不思議ではあるけれど
まぁ、スポンサーの皆さんに支えられてのエヴァシリーズだししょうがないね。

一人のエゴだけでずっとやって行くわけにはいかないし
でもエゴもなけりゃなんでやってるか分かんないしで
庵野監督も大変だったと思いますが、いやまぁほんとお疲れ様でした。

『思想をつむぐ人たち』著:鶴見俊輔 編:黒川創

1922年生まれの知識人である。
戦争をしっかりと焼きつけた世代だ。

しかし、そのために考えた人ではないと思う。
もっと柔らかく、生き残った人々の、
生き続ける人々と共に考えようとした人だろう。

この本には多数の人物評が記されている。
洋の東西を問わず、けれど、近現代の何か重なるような人びとについて。

その書き振りは中に乗り移るようなことはなく
あくまでも、違う個性の人間として眺めていて
それゆえに個性を尊重しようとする意思を感じる。

この優しい寄り添い方が、
苛烈な時代を過ごした後に生まれたということを考えると
鶴見の芯の強さをかえって感じさせる。

言葉の喋れない者は知恵のない者だという、そういう信仰を片っ方が持っていることがわかった。知恵とは、そんなものではないのだ。(p.25)

これは自身のアメリカの寄宿舎での体験。十分に強い宣言だが、この後に別のエピソードをすぐに繋げる。

私の子供が、幾つの時だったか、遊びをやめてやって来て、「お父さん、お母さんが死んだら、僕はどうなるんだ」と、ものすごい恐怖をこめて言う。私は、「いや、死んだらこの頭の後ろの熱い感じになって残っているから、いつでもいるから心配ないんだ」と言った。それはうそじゃない。私が、今もっている感覚だ。(p.25)

これは純真な問いと哲学との接近について語る文脈であり、
本編はネイティブインディアン(いや、この言い方もよくないのだったか)の知恵と生き方についてだった。

どちらもただの例示である以上に、
なぜ鶴見が言葉を費やしているかの
ひっそりとした答えになっているように思う。

彼は強い確信を持っている。
けれどもその確信のために書くのではない。
その優しい手つきが鶴見を信頼に足る書き手だと分からせてくれる。

『名指しと必然性』著:ソールA.クリプキ 訳:八木沢敬、野家啓一

同一性について考える手がかりがあると思って、読んでいったが
固有名の指示とは何によってその固有性が担保されているのか、という問いだけではなく
一般的な指示語についても語るし、指示語との必然的なつながりと
アプリオリな繋がりなど思った以上に丁寧な議論である。

話としては非常にややこしいものではあるけれども
クリプキはかなり段階を踏んで腑分けをしているので
そこから先に行くまでの分類、見取り図としての力を持つ書物であるのは間違いないところだと思う。

この手の難解な書物では訳者解説などに助けを求めたいところで
今回のあとがきも哲学的な潮流の中での位置付けを行なっており
十分にサポートしてくれている。
しっかりとした参照点になる書物と思う。

たとえば、アリストテレスはそもそも存在したか否かと問うことによって、その名前はいったい指示対象をもいつのかどうかという問題を提起してもよい。この場合問われているのは、この物(男)が存在したかどうかということではない、と考えることは当然だと思われる。われわれがひとたびその物を捉えてしまえば、それが存在したことを知っているのである。実際に問い糾されているのは、その名前にわれわれが結びつけている諸性質に照応する物があるのかどうかということ(p.32)

指示対象が所定の性質を持たないとした場合に、そもそも指示自体が不成立になってしまいかねない。
にも関わらず、このような言明が可能であるなら所定の性質とは独立に指示が成立している。
これが一つのテーゼだ。

これは実在が属性の集合によって成り立ってないということでもある。

辞典のこの記述を満足するものは何であれ必然的に虎である、ということは真なのだろうか。そうではないと私には思われる。ここで記述されたような虎の外見をすべて備えてはいるが、内部構造が虎とは全く異なる動物を発見したとしよう。(中略)虎にそっくりに見えながら、調べて見ると哺乳類ですらなかったことがわかるような動物が、世界のどこかで発見されるかもしれない。それらは実際は、極めて特殊な外見をもつ爬虫類であったと仮定しよう。その場合、この記述に基づいてわれわれは、何頭かの虎は爬虫類であると結論するだろうか。しないのである。(p.142)

面白い思考実験である。これは固有名詞だけでなく、ある種のカテゴリーについての指示について話している。循環論法でないかは非常に微妙に見えるが、言明による指示は支持されたと同時に先立って成立する内容があるようでもある。

一読してスッキリ分かるというものではないが、とてもスリリングなところのある本だ。

『秋本治の仕事術』著:秋元秋本治

言わずと知れた「こち亀」の作者の本である。

長寿連載というだけでも十分に偉大なことだけれど、その間ただの一度も落とさないというのは
やはり並大抵のことではない。

とはいえ、ビジネス本として見れば取り立てて大きなことはないと思う。
それは要するに「当たり前の水準を高く保つ」ということで
そこに至るためのディティールが欲しいならあまり役には立たないかもしれないですね。

連載中を振り返っての率直な言葉などもあるので
そういうところも込みで楽しむのが良い本かと。

“座ったら描く”。この名言は、尊敬するさいとう・たかを先生の言葉です。座ったら仕事をするだけ……、非常にシンプルですが、漫画家だけではなくあらゆる仕事に使える心構えなのではないかなと思います。(p.148)

孫引きになってしまうけれどもさいとう・たかを先生は作風と一緒になったプロフェッショナルなのかと驚き。

集中力が切れるのは、ひとつの仕事が終わったとき。それが恐いので僕は終わった次の日から、すぐ次の仕事をはじめるようにしています。(p.30)

全般的におおらかな印象なんですが、この「途切れる」ことに対する恐怖心は著者の中でも
珍しい怯えで、ほとんどここから始まっているような気がします。
これを核にしながらも、それが前面に出る前に対処できているのが彼の仕事の良さでしょう。

『大人も驚く「夏休み子ども科学相談」』編著:NHKラジオセンター「夏休み子ども科学電話相談」

科学相談の電話は聞いたことがあるけれど、
電話をかけたことはない。

聞きたいことはあるような気がするけど
電話をかけてまで知りたいことがあるような気がしなかった。
でも、きっと興味深く聞いてたと思う。

こういうところで聞く子どもたちは大抵身近な大人にも聞いているだろう。
それでも納得できなかったり、分からなかったものを聞きに電話をかける。
その好奇心は全く素晴らしいものだ。

そしてさらに素晴らしいのは、その好奇心にまっすぐに応える大人たちで、
彼らは「科学者」として分からないことは分からないと言うし、
身近な大人が間違えていればそれについてもきっちり指摘する。

人間の外の世界が小さくなっているような現代だからこそ
自然科学における対象への謙虚さは美徳として数えられると思う。

読み物としては、意外と思い違いをしていることを発見できたり
あとはともかく、子どもの好奇心が眩しくてほっこりする癒し系でありました。

「本で、働きアリは、すべてメスだって書いてあったんですけど、オスは何をしてるんですか?」
「働きアリは全部メスやねん。アリの巣の中は、女王さんもメスやし、働いているアリも全部メスで、オスは普段はどこにもいないんです」
「おっ、そうなんですか!」

すなおー。

『ファウスト 悲劇第一部』著:ゲーテ 訳:手塚富雄

ファウストゲーテが最初に考えた話ではないらしいと
ベンヤミンの本で知ってがぜん興味が出てきたのであった。

元にあった話を肉付けすることで名声を得るのは
本人の手柄がどこにあるか分からないと難しいだろうと思えるからだ。

果たして分厚い二部のうちの一部はするすると
テンポよく読めて、エンターテイメントとしての質があった。

それにしても筆致が妙に若く、ゲーテ自身の言葉が出るような感じで
少し前の漫画作家のような親しみやすさがある。
(どうやら第二部は違う感じになるようだが)

悪魔に魂を売った男の物語ではあるが、
その悪魔の業はあまり描かれず、
欲望を刺激する言葉の連なりとして悪魔は現れている。
そのことがかえって心理劇としての軸を強くして第二部につなげていくのだろうか。

解説によるとこの作品は非常に長いスパンで描かれたもので
第一部と第二部の間にも20年ほどの中断があったとか。
執筆時期による変化と、それでも手放せなかったモチーフを楽しみたい。

ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫)

ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫)

われわれの陥っているこの間違いだらけの境涯から、
いつかは脱け出せると思い込んでいられるものは、しあわせだ。
われわれは、必要なことはいっこう知らず、
知っていることは何の役にも立てることができないのだ。(p.91)

こちらはファウストの言葉。
箴言のようなものが、
特に「この忌々しい現実」への吐き捨てるような感じは
頭の回転のいい若者のように聞こえる。

まるでつじつまが合わないことは、
智者にも愚者にも神秘らしく聞こえますからね。
(中略)
だが人間というものはたいてい、言葉を聞いただけで、
何かそれにありがたい内容があると思いたがるものですからね。(p.213)

これなんかもなかなか強烈。悪魔のメフィストの言葉。
フェイクニュースのことを言ってるようでもある。

わたしはあなたのものでございます、神さま。お救いくださいまし。

罪人として囚われたファウストの思い人は
最後、逃しに来たファウストを拒絶する。
メロドラマのようであり、宗教の問題でもあるようだが、
宗教とメロドラマは同じものなのかもしれない。

『インド夜想曲』著:アントニオ・タブッキ 訳:須賀敦子

インドでの抒情的なエッセイのようなタイトルであるが
非常に企みの上手い作家らしく、あれよあれよという間に
抜き差しならない場所に連れ込まれてしまう。

それにしても
「抜粋集(アンソロジー)には御用心」とか言われるし、
そもそも訳者の須賀敦子が解題をしてくれているので
ほとんど僕が何かを言えることなんかないのである。
困った本だ。

だから物語について話すことは諦めて旅について話したい。
一人旅、それも目的もあるようでないような旅というのは
それを好む人と好まない人がはっきり分かれる。

(僕はとても好きです。場所についてから観光案内所の看板から面白そうなところを探したり
駅についてから裏口に進んでみたり、不思議な看板を見ればとりあえず中に入ろうとしたり)

しかし好むと好まざるとに拘らず、
目的を失って放り出されることがある。
それは達成したから、というわけではない。
目的にしていたものが、
今そうする必要がないと分かってしまうような不安定な状態のことをイメージしている。
(目的設定の適切さ故に、こうなることすらあるはずだ)

宙ぶらりんの隙間のような時間、
眠りに落ちる寸前の時間あるいは眠りに落ちている時間。
無作為な瞬間には予感が詰まっている。
トランスと呼ばれるような大仰なものでなくても、
初夢ですら未来への予知や期待をもたらす。

目的のない旅はそのような予感によって作動する。
予感がなければないで、雲を見ながら本でも読めばいい。
何か意味のあるものでなくてもいい。旅は旅であることで十分なのだ。

また、この本の最初には
現れるホテルなどのスポットが実在のものであることを示す
簡単な註がついている。
だから、この本を読むことは旅行ガイドとして機能する。

旅で得られるものは断片でしかないが、
私自身のサイズより少し持て余すような断片である。

「それでも、その人は旅に出たんでしょう」医者は言った。
「そのようです、結果的にはね」(p.33)

何気なく差し挟まれるメタっぽい会話。
しかし、それを超えて状況がどんどん転がり込んでくるのが
この物語の面白いところだ。

「気にすることはない」、老人はまるで僕の考えを読みとったように言った。「わしにはたくさん情報員がいる」(p.103)

12の断章で構成されているが、
各章ごとに映画の予告編が作れそうなシーンがある。
こうしてまんまと最後まで連れ去られてしまうというわけだ。

ないようについて話すことは無いけれど、旅が好きな人もそうでない人もぜひ。

それと、この本について書きながら別の本を思い出していたので
それも紹介しておく。

『空気の名前』
著:アルベルト・ルイ=サンチェス
訳:斎藤文子

こちらもエキゾチックな旅で
さらに細い路地を通り、ウェットである。