ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『カミと神』著:岩田慶治

タイトルになっている対比は
学術的な対象としてのカミと現に信じられている神
または、体系立てられる前のカミと教理とともにある神
2つの対比がイメージされているように思う。

帯にも「原初のカミをたずね、カミと出逢うために!」とある。
この本に書かれているのは「神」を遠景に見やりながら
「カミ」をたずねる旅行記のようなものだ。

曼荼羅としての図を描こうとしているが
この図は特に完成させられることはない。
カミ所在は確かなものの、その姿が鮮明にあるわけではないからだ。
しかし、それは手抜きではなくて、
そもそもそのような似姿を描くことに意味がないから描かれないのだろう。

筆者のフィールドは主に東南アジアにあるようだが
仏教の言葉が添えられることが多く、
アニミズムを通して仏教を再解釈しているとも読める。

1989年出版ということもあって、
ニューエイジ的な韜晦の匂いは否めないけれど
旅としての読書と考えれば上出来である。
旅は何かを得るためのものではないが、何か人の心に残すものがある。

『カミと神』著:岩田慶治 1989年出版 講談社学術文庫

かれらの文化のただなかに参与して、かれらとともにかれらのカミ観念を、観念としてでなくカミとして受けいれたとき、かれらの文化はウソ、虚構を核に形づくられたものでなく、ホンモノの体系になる(p.48-49)

これは啓蒙とは真逆の相対し方である。
そのようにしか現れないからこそ虚像だと言っても構わないだろうが、
しかし、現に彼らにとって存在していることも間違いのないことである。

そして、そのカミは人との関係性の中で遍在しているという直感を筆者は確かめ続けている。

そこに歩み寄って花の美しさにうたれたリルケが、「薔薇!」と呼びかけた時、薔薇自身が「おお!」と応じた。だから「おお!」は薔薇語である。(p.136)

リルケの詩に対する注釈の補足。
言葉は響く、映す。このような関係を筆者はつぶさに拾っていく。
ここに発語された言葉は存在するもののの、誰がというのが一旦空に浮いているから
このようなユニークな発想になる。
とはいえ、誰の言葉であるかは確かに自明というには非常に心細くて
主張するためには強く主張しているのも明らかだ。

自分が自分に出会う。文化の衣装をぬいで自分が自分の本来の姿を見つめる。うちなる自己を外なる自然のうちに発見する。内部にあると思っていた自分の魂が実は外部にあったことを発見する。そういう時の感じ。自分の存在の根拠、つまりアイデンティティーを外なる他者のうちに発見したときの驚きとよろこび、そういう「折れ曲がった事態の直感」が宗教の出発点ではなかろうか。どうしても私にはそう思われるのである。(p.180-181)

これは出発点にして急所なんではなかろうか。
ここで、宗教の、と言っているのはかなり踏み込んでいて
一神教多神教もひっくるめて信仰の起源について語っているはずである。
遠い記憶への旅だ。

『不在の騎士』著:イタロ・カルヴィーノ 訳:米川良夫

中身のない鎧が一人で勝手に動いてたらホラーなんだろうけど
それがちょっと間抜けなくらい生真面目で、
手のかかる道連れに頭を悩ますとか、
カルヴィーノらしいユーモアのある楽しい小説でした。

とはいえ話の全体の作りはなかなか込み入っていて
ユーモアだけではない企みのある作品だ。

不在なのはこの騎士だけではなくて、
父親が不在であったり、物語の所以が不在であったり
あらゆるものはほとんど空振りに終わる。

けれどもカルヴィーノのユーモラスな筆致は
それをヒロイックに描くのではなくて、
はじまりが空虚であっても続いていく物語そのものの愉しみに誘ってくれる。

それにしても、一番最初は異教徒の軍勢と戦ってたような気がしたんですが
結局どうなったんですかね。ま、いっか。

不在の騎士 (白水Uブックス)

不在の騎士 (白水Uブックス)

「だが、貴公は存在せぬとすれば、どのようにして奉公しようというのかな?」
「意志の力によって」と、アジルールフォが答えた。「また我らの聖なる大義への信念によって!」(p.11)

ほとんどとんち合戦のような閲兵式での一幕。
ユーモラスな中にも存在せぬもののプライドを感じる。
存在せぬものは虚業と呼ばれることもある文筆業ともどこかで重なっている。

「それで、君は、将軍クラスであった父上、ロッシリヨーネ侯爵の仇を討ちたいというのかね!どれどれ、将軍一人の仇を討つのには、最良のやり方は少佐三人を槍玉にあげることだ。簡単なやつを三人、君にふり当てることができるがね、それで君も文句なしというわけだ」(p.27)

仇討ちの直訴に行った若武者ランバルドを出迎えるセリフ。
戦場で彼は父親の仇を探し回るけれど、仇の眼鏡係までしかたどり着けない。
ランバルドは生身代表として散々振り回される感じだけど、
物語の主観は不在の騎士にあるというのが面白いバランスでもある。

『月次決算書の見方・説明の仕方』著:和田正次

実務者向けのと言うことで、中級者レベルの本ではあると思いますが
必要以上に難しくはしてるわけではないので、ある程度基礎的な知識があれば読めるかなと思います。

そして毎月の月次決算からわかることと、
キーになる指標の解説はしっかりしていると思います。

ただ、見方や分析の仕方がわかる事と
それを説明することにはいくらかギャップがあるように思うのですが
この本の説明のままでは、まだ砕いて欲しい人もいるんじゃないかなと思います。

もちろん、分かりやすく説明するときに
間違えた省略をしたりしないために、
きちんと内容の理解を深めることは大事ですが、
何で引っかかるか、あるいは知りたいことに答えているかということを
コミュニケーションしながらクリアしていくことが実際の説明ではもう少し必要になるかと思います。


月次決算書の見方・説明の仕方

月次決算書の見方・説明の仕方

月次決算報告で会計データを説明する場合の数字の読み方には注意が必要です。説明を受ける相手が数字をできる限りイメージしやすいような工夫が必要です。
 その工夫とは、“最後の一行までは読まない”ということです。(p.24)

説明はこういう地道なところから。ここにも気を配るなら、きっといくらでもあるんです。

『七つの夜』著:J・L・ボルヘス 訳:野谷文昭

いかにもロマンチックなタイトルだ。
夢十夜とか、千一夜物語
夜の数を数えて一体どうするのだろう。

数えることで何かが変わることはないが、
しかし、人は数えてしまうのだ。
例えば夜が明けた時にかつて蒔いた種が芽吹いていないかと期待しながら。

本書はボルヘスの文学に対する愛情が溢れた七つの講演録だ。
いや、最初の「神曲」はともかく「悪魔」やら「仏教」やらも文学なのか?
というとそれは確かに文学ではない。

しかし、全編に溢れ出ているボルヘス自身の情熱は全て
文学に対する信頼と慕情と敬愛によるものとしか受け取れない。

「悪魔」や「仏教」について語るときは
それらを分析しようとして語るのではない。
ただそこにある概念がどのような地平に存在しているのかを描き出そうとしている。
意味と意味の結びつき、言葉の星座を描くことは文学という方法で語っているのであって
文学について語っていないときも彼は文学に対する絶大な信頼と愛情を示しているのです。

本人の作品より先にこういう講演集から読んでしまったことは
間違えてしまったかと思ったが、ボルヘスという人の存在の大きさは
これでも十分すぎるほど感じられるものでした。

七つの夜 (岩波文庫)

七つの夜 (岩波文庫)

私の考えでは、ユリシーズの逸話は『神曲』の中で最も謎めいている以上に、おそらく強度も最高でしょう。ただし、どの逸話が最高峰であるかを知るのは非常に難しい。『神曲』は最高峰の連なりでできているのです。(中略)『神曲』は私たちの誰もが読むべき本です。これを読まないと言うのは、文学が私たちに与えうる最高の贈り物を遠慮することであり、奇妙な禁欲主義に身を委ねることを意味します。(p.34-35)

こんな熱烈なラブレターもなかなかないだろう。
読むべき本が増えるからご勘弁ください。うひー。

ある真昼時、ブッダは砂漠を越えなければならなかった。すると神々が、三十三の天空から、それぞれがひとつずつ影を投げかけてやるのです。ブッダは神々を誰ひとりないがしろにしたくなかったので、三十三に分かれます。そうやって、それぞれの神が上から見ると、一人のブッダが自分が投げかけた影に守られていると見えるようにしたのです。(p.116)

神に対して配慮するなんていうのはとても面白い。
ヨブの神とは大違いだ。

『サル学の現在』著:立花隆

人と猿の違いはどのあたりにあるのかということは
「人間の条件」についての思索を行うことに近い。

1991年に出版された本なので、
「現在」とは言っても差し引かなくてはいけない部分が多いが
当時の先端の研究員たちに深く広く話を聞いていく。
教授レベルだけでなく、助手たちの研究にも直接話を聞いているあたりに
最先端を聞こうという意気込みが見て取れる。

猿と一口に言っても
チンパンジーからオラウータン、ゴリラ、ヒヒなど様々な種類がある。
そのどれも一定の社会性を持っているが、その中身は多様であり
母系社会、父系社会の分岐は非常に偶然的な要素が強いのではないかと思わされる。

また本書に子殺しという問題が、何度か形を変えて話者を変えて登場する。
ショッキングなことではあるが、そこに考えられるそれぞれの見方は違いがあって見応えがある。
仮説を組み立て、それを裏付けるために次にどのような調査をしたいかなどの
展望を語る研究者たちの言葉からは、研究に対する純粋な好奇心、学究心が伝わって来る。

20年経ってもこの本に良さがあるのは
このような熱意がしっかりと伝わってくるところだろうと思う。

サル学の現在

サル学の現在

  • 作者:立花 隆
  • 発売日: 1991/08/01
  • メディア: ハードカバー

ゴリラとゴリラの間のコミュニケーションを見ていますとね、相手に自分の考えを伝えたいんだが、そういう音声だけでは自分が考えていることを十分に伝えられなくて、困ったなあという表情をしていることがよくありますよ。知的コミュニケーション能力はあるのに、コミュニケーション手段がともなっていないという感じですから、本当に言語一歩手前のところにいるんでしょうね。それからゴリラは歌を歌うんですよ。(p.227)

よく観察している。ゴリラの困ったなあという表情とはどんなものだろう。
ゴリラの歌はヨーロッパの民謡みたいなメロディーらしいがそれも気になる。

ーー全体がわからないにしても、そのわからなさが前とは違うんじゃないか、という気がするんですけれど……。
「それは違うてますやろな。だけど、よう違うてるのか悪う違うてるのかは知らんぞ」(p.35)

超重鎮の今西錦司に対するインタビューの一幕。
分子生物学方面からの積み上げについてすげなく扱う今西。
プライドと嫌悪感がはっきり出ている発言だけれども、
ここまで突っ込む立花も凄い。

そして実際のところ、よく違うのか、悪く違うのか、
それはすぐには分からんことだなぁと思う。
そして「よく違う可能性」自体を否定している訳ではないのは
研究者らしい良い態度だと思う。

『家畜化という進化』著:リチャード・C・フランシス 訳:西尾香苗

人間は動物や植物を自分たちの都合の良いように変えてきた。
今ではどれも当たり前のように見える動物たちの生態そのものが
自然なものではなく、人が関わってきた中で現れたものなのだと気付かされる。

もちろんこの本はそこに善悪を見ているわけではない。
あくまで進化についてのメカニズムを説明する理論の一つとして
「家畜化」というプロセスを観察している。

人に慣れて、警戒心を落とすような進化は同時に
顔の骨格が変わっていったり、尾の変化、あるいは体のサイズの縮小など
関係のなさそうな外的な様相にも影響を与えていく。

それにしても多くの動物が登場する。
章のタイトルになっている動物だけでこのようになる。
キツネ、イヌ、ネコ、ブタ、ウシ、ヒツジとヤギ、トナカイ、ラクダ、ウマ、人間。
そして各章の中でそれぞれまた複数の品種の変遷について語られる。
人間以外は。

この本は家畜化というプロセスがヒトにも適用されるだろうことをイメージしながらも
人間の比較すべきサンプルがない、という点でその限界も提示している。
限界を踏まえた上でしかし、興味をそそられる論点についてもたっぷりと語られている。

「家畜化」というと「隷属」のようなネガティブなイメージがありそうだが、
寛容さ、コミュニケーションへの志向性、ということであればどうだろうか。
それらを選択するような世界をヒト自身が創り続けてきたのは間違いのないことだ。

もちろん、いろんな動物が出てくるので
ヒト以外の生物進化の歴史をのぞく本としても面白いです。

イエネコは「尾を立てる」という新しい行動を進化させている。友好的であることを相手に示すシグナルだ。ヤマネコは社会性が低く、この行動はまったく見られない。だが、ライオンはイエネコと同じように尾を立てる。これは収斂進化の一例だが、ライオンとイエネコは共通祖先を持っているので、収斂が起こるのも当然ともいえる。尾を立てる行動は、ネコ科動物のなかでも社会性のかなり高いものだけが進化によって獲得できる行動のレパートリーの一つなのである。(p.102)

最後の一文は完全にスキルツリーの考え方みたいで面白い。
いや、しかし、取れる行動の幾らかは生物学的に予め選ばれているという話で、それ自体も非常に興味深い。

人間はまた協力するという意図をもって非言語コミュニケーションを行う能力でも、チンパンジーより優れている。(中略)チンパンジーはさまざまなジェスチャーを行う。しかし、指さしをして他の個体の注意をそちらに向けさせるという行動は、いまだかつて報告例がないのである。人間の子どもは、一二ヶ月までには指さしによって自分が何をしたいのか示すだけではなく、大人が欲しがっていると思われるもののありかを示すこともあるのだ。(p.375)

言われてみれば確かに!となる。
しかし、一方で警戒を群に伝える行動などはある。
ここには他者のコミュニケーションと言っても種類があって
それぞれに可能になる、ならないの条件があるということだろう。面白い。

『武器としての交渉思考』著:瀧本哲史

ツールという言い方をせずに武器というのは
まったくもって穏当ではない。
けれども、そうしたものを探している人に配りたいからこそこの本のタイトルであろう。

しかし、交渉は明らかに戦いではない。
戦いは敵に敗北を突きつけることだが、
交渉はそれ以外の道があることを期待してのコミュニケーションになる。

(戦争は外交の一環だという時に、
一方でそれが下策なのは自明だ。
コミュニケーション放棄のコミュニケーションだからだ。)

中身はそれをちゃんと反映しているし、
故に相手を叩くような交渉術ではなく、
先に進むための、より広いフィールドに出るための
きっかけとして交渉が据えられている。

いっとき、著者の「武器」シリーズは清新なイメージで売られていたが
しかし、この現状認識に基づく「武器」という言葉選びは
著者が日本の若者の状況をのっぴきならないものと感じているからではないか。
もろもろ崖のふちかもしれないが、しかし、何かをすることはできる。
その時の助けになる本だろう。

武器としての決断思考 (星海社新書)

武器としての決断思考 (星海社新書)

 複数の人が集まってひとつの目標に進むときには、大きなビジョン(ロマン)と、それを実現させるためのコスト計算(ソロバン)の両方が大切になるわけです。
 そして、交渉こそが、そのロマンとソロバンをつなぐ役割を果たしてくれるのです。(p.69)

ロマンは大事。人が自我を持って生きるならロマンを失っては生きられない。

 相手がどれほど非合理であっても、大切なのは、その交渉によってどれだけ大きな実りのある合意を結べるかです。
 交渉は相手とケンカをしたり仲良くなるために行うのではありません。(p.239)

非合理的な人間との向き合い方についても一章を割いている。実用を意識した配分だと思う。
そして、そこでもそれ相応のやり方がある。
もっとも、こちらから相手の合理が見えない場合も多いので、そこを先に考えたいところだ。
だから後ろの配置だろうね。