ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

『大人も驚く「夏休み子ども科学相談」』編著:NHKラジオセンター「夏休み子ども科学電話相談」

科学相談の電話は聞いたことがあるけれど、
電話をかけたことはない。

聞きたいことはあるような気がするけど
電話をかけてまで知りたいことがあるような気がしなかった。
でも、きっと興味深く聞いてたと思う。

こういうところで聞く子どもたちは大抵身近な大人にも聞いているだろう。
それでも納得できなかったり、分からなかったものを聞きに電話をかける。
その好奇心は全く素晴らしいものだ。

そしてさらに素晴らしいのは、その好奇心にまっすぐに応える大人たちで、
彼らは「科学者」として分からないことは分からないと言うし、
身近な大人が間違えていればそれについてもきっちり指摘する。

人間の外の世界が小さくなっているような現代だからこそ
自然科学における対象への謙虚さは美徳として数えられると思う。

読み物としては、意外と思い違いをしていることを発見できたり
あとはともかく、子どもの好奇心が眩しくてほっこりする癒し系でありました。

「本で、働きアリは、すべてメスだって書いてあったんですけど、オスは何をしてるんですか?」
「働きアリは全部メスやねん。アリの巣の中は、女王さんもメスやし、働いているアリも全部メスで、オスは普段はどこにもいないんです」
「おっ、そうなんですか!」

すなおー。

『ファウスト 悲劇第一部』著:ゲーテ 訳:手塚富雄

ファウストゲーテが最初に考えた話ではないらしいと
ベンヤミンの本で知ってがぜん興味が出てきたのであった。

元にあった話を肉付けすることで名声を得るのは
本人の手柄がどこにあるか分からないと難しいだろうと思えるからだ。

果たして分厚い二部のうちの一部はするすると
テンポよく読めて、エンターテイメントとしての質があった。

それにしても筆致が妙に若く、ゲーテ自身の言葉が出るような感じで
少し前の漫画作家のような親しみやすさがある。
(どうやら第二部は違う感じになるようだが)

悪魔に魂を売った男の物語ではあるが、
その悪魔の業はあまり描かれず、
欲望を刺激する言葉の連なりとして悪魔は現れている。
そのことがかえって心理劇としての軸を強くして第二部につなげていくのだろうか。

解説によるとこの作品は非常に長いスパンで描かれたもので
第一部と第二部の間にも20年ほどの中断があったとか。
執筆時期による変化と、それでも手放せなかったモチーフを楽しみたい。

ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫)

ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫)

われわれの陥っているこの間違いだらけの境涯から、
いつかは脱け出せると思い込んでいられるものは、しあわせだ。
われわれは、必要なことはいっこう知らず、
知っていることは何の役にも立てることができないのだ。(p.91)

こちらはファウストの言葉。
箴言のようなものが、
特に「この忌々しい現実」への吐き捨てるような感じは
頭の回転のいい若者のように聞こえる。

まるでつじつまが合わないことは、
智者にも愚者にも神秘らしく聞こえますからね。
(中略)
だが人間というものはたいてい、言葉を聞いただけで、
何かそれにありがたい内容があると思いたがるものですからね。(p.213)

これなんかもなかなか強烈。悪魔のメフィストの言葉。
フェイクニュースのことを言ってるようでもある。

わたしはあなたのものでございます、神さま。お救いくださいまし。

罪人として囚われたファウストの思い人は
最後、逃しに来たファウストを拒絶する。
メロドラマのようであり、宗教の問題でもあるようだが、
宗教とメロドラマは同じものなのかもしれない。

『インド夜想曲』著:アントニオ・タブッキ 訳:須賀敦子

インドでの抒情的なエッセイのようなタイトルであるが
非常に企みの上手い作家らしく、あれよあれよという間に
抜き差しならない場所に連れ込まれてしまう。

それにしても
「抜粋集(アンソロジー)には御用心」とか言われるし、
そもそも訳者の須賀敦子が解題をしてくれているので
ほとんど僕が何かを言えることなんかないのである。
困った本だ。

だから物語について話すことは諦めて旅について話したい。
一人旅、それも目的もあるようでないような旅というのは
それを好む人と好まない人がはっきり分かれる。

(僕はとても好きです。場所についてから観光案内所の看板から面白そうなところを探したり
駅についてから裏口に進んでみたり、不思議な看板を見ればとりあえず中に入ろうとしたり)

しかし好むと好まざるとに拘らず、
目的を失って放り出されることがある。
それは達成したから、というわけではない。
目的にしていたものが、
今そうする必要がないと分かってしまうような不安定な状態のことをイメージしている。
(目的設定の適切さ故に、こうなることすらあるはずだ)

宙ぶらりんの隙間のような時間、
眠りに落ちる寸前の時間あるいは眠りに落ちている時間。
無作為な瞬間には予感が詰まっている。
トランスと呼ばれるような大仰なものでなくても、
初夢ですら未来への予知や期待をもたらす。

目的のない旅はそのような予感によって作動する。
予感がなければないで、雲を見ながら本でも読めばいい。
何か意味のあるものでなくてもいい。旅は旅であることで十分なのだ。

また、この本の最初には
現れるホテルなどのスポットが実在のものであることを示す
簡単な註がついている。
だから、この本を読むことは旅行ガイドとして機能する。

旅で得られるものは断片でしかないが、
私自身のサイズより少し持て余すような断片である。

「それでも、その人は旅に出たんでしょう」医者は言った。
「そのようです、結果的にはね」(p.33)

何気なく差し挟まれるメタっぽい会話。
しかし、それを超えて状況がどんどん転がり込んでくるのが
この物語の面白いところだ。

「気にすることはない」、老人はまるで僕の考えを読みとったように言った。「わしにはたくさん情報員がいる」(p.103)

12の断章で構成されているが、
各章ごとに映画の予告編が作れそうなシーンがある。
こうしてまんまと最後まで連れ去られてしまうというわけだ。

ないようについて話すことは無いけれど、旅が好きな人もそうでない人もぜひ。

それと、この本について書きながら別の本を思い出していたので
それも紹介しておく。

『空気の名前』
著:アルベルト・ルイ=サンチェス
訳:斎藤文子

こちらもエキゾチックな旅で
さらに細い路地を通り、ウェットである。

『カミと神』著:岩田慶治

タイトルになっている対比は
学術的な対象としてのカミと現に信じられている神
または、体系立てられる前のカミと教理とともにある神
2つの対比がイメージされているように思う。

帯にも「原初のカミをたずね、カミと出逢うために!」とある。
この本に書かれているのは「神」を遠景に見やりながら
「カミ」をたずねる旅行記のようなものだ。

曼荼羅としての図を描こうとしているが
この図は特に完成させられることはない。
カミ所在は確かなものの、その姿が鮮明にあるわけではないからだ。
しかし、それは手抜きではなくて、
そもそもそのような似姿を描くことに意味がないから描かれないのだろう。

筆者のフィールドは主に東南アジアにあるようだが
仏教の言葉が添えられることが多く、
アニミズムを通して仏教を再解釈しているとも読める。

1989年出版ということもあって、
ニューエイジ的な韜晦の匂いは否めないけれど
旅としての読書と考えれば上出来である。
旅は何かを得るためのものではないが、何か人の心に残すものがある。

『カミと神』著:岩田慶治 1989年出版 講談社学術文庫

かれらの文化のただなかに参与して、かれらとともにかれらのカミ観念を、観念としてでなくカミとして受けいれたとき、かれらの文化はウソ、虚構を核に形づくられたものでなく、ホンモノの体系になる(p.48-49)

これは啓蒙とは真逆の相対し方である。
そのようにしか現れないからこそ虚像だと言っても構わないだろうが、
しかし、現に彼らにとって存在していることも間違いのないことである。

そして、そのカミは人との関係性の中で遍在しているという直感を筆者は確かめ続けている。

そこに歩み寄って花の美しさにうたれたリルケが、「薔薇!」と呼びかけた時、薔薇自身が「おお!」と応じた。だから「おお!」は薔薇語である。(p.136)

リルケの詩に対する注釈の補足。
言葉は響く、映す。このような関係を筆者はつぶさに拾っていく。
ここに発語された言葉は存在するもののの、誰がというのが一旦空に浮いているから
このようなユニークな発想になる。
とはいえ、誰の言葉であるかは確かに自明というには非常に心細くて
主張するためには強く主張しているのも明らかだ。

自分が自分に出会う。文化の衣装をぬいで自分が自分の本来の姿を見つめる。うちなる自己を外なる自然のうちに発見する。内部にあると思っていた自分の魂が実は外部にあったことを発見する。そういう時の感じ。自分の存在の根拠、つまりアイデンティティーを外なる他者のうちに発見したときの驚きとよろこび、そういう「折れ曲がった事態の直感」が宗教の出発点ではなかろうか。どうしても私にはそう思われるのである。(p.180-181)

これは出発点にして急所なんではなかろうか。
ここで、宗教の、と言っているのはかなり踏み込んでいて
一神教多神教もひっくるめて信仰の起源について語っているはずである。
遠い記憶への旅だ。

『不在の騎士』著:イタロ・カルヴィーノ 訳:米川良夫

中身のない鎧が一人で勝手に動いてたらホラーなんだろうけど
それがちょっと間抜けなくらい生真面目で、
手のかかる道連れに頭を悩ますとか、
カルヴィーノらしいユーモアのある楽しい小説でした。

とはいえ話の全体の作りはなかなか込み入っていて
ユーモアだけではない企みのある作品だ。

不在なのはこの騎士だけではなくて、
父親が不在であったり、物語の所以が不在であったり
あらゆるものはほとんど空振りに終わる。

けれどもカルヴィーノのユーモラスな筆致は
それをヒロイックに描くのではなくて、
はじまりが空虚であっても続いていく物語そのものの愉しみに誘ってくれる。

それにしても、一番最初は異教徒の軍勢と戦ってたような気がしたんですが
結局どうなったんですかね。ま、いっか。

不在の騎士 (白水Uブックス)

不在の騎士 (白水Uブックス)

「だが、貴公は存在せぬとすれば、どのようにして奉公しようというのかな?」
「意志の力によって」と、アジルールフォが答えた。「また我らの聖なる大義への信念によって!」(p.11)

ほとんどとんち合戦のような閲兵式での一幕。
ユーモラスな中にも存在せぬもののプライドを感じる。
存在せぬものは虚業と呼ばれることもある文筆業ともどこかで重なっている。

「それで、君は、将軍クラスであった父上、ロッシリヨーネ侯爵の仇を討ちたいというのかね!どれどれ、将軍一人の仇を討つのには、最良のやり方は少佐三人を槍玉にあげることだ。簡単なやつを三人、君にふり当てることができるがね、それで君も文句なしというわけだ」(p.27)

仇討ちの直訴に行った若武者ランバルドを出迎えるセリフ。
戦場で彼は父親の仇を探し回るけれど、仇の眼鏡係までしかたどり着けない。
ランバルドは生身代表として散々振り回される感じだけど、
物語の主観は不在の騎士にあるというのが面白いバランスでもある。

『月次決算書の見方・説明の仕方』著:和田正次

実務者向けのと言うことで、中級者レベルの本ではあると思いますが
必要以上に難しくはしてるわけではないので、ある程度基礎的な知識があれば読めるかなと思います。

そして毎月の月次決算からわかることと、
キーになる指標の解説はしっかりしていると思います。

ただ、見方や分析の仕方がわかる事と
それを説明することにはいくらかギャップがあるように思うのですが
この本の説明のままでは、まだ砕いて欲しい人もいるんじゃないかなと思います。

もちろん、分かりやすく説明するときに
間違えた省略をしたりしないために、
きちんと内容の理解を深めることは大事ですが、
何で引っかかるか、あるいは知りたいことに答えているかということを
コミュニケーションしながらクリアしていくことが実際の説明ではもう少し必要になるかと思います。


月次決算書の見方・説明の仕方

月次決算書の見方・説明の仕方

月次決算報告で会計データを説明する場合の数字の読み方には注意が必要です。説明を受ける相手が数字をできる限りイメージしやすいような工夫が必要です。
 その工夫とは、“最後の一行までは読まない”ということです。(p.24)

説明はこういう地道なところから。ここにも気を配るなら、きっといくらでもあるんです。

『七つの夜』著:J・L・ボルヘス 訳:野谷文昭

いかにもロマンチックなタイトルだ。
夢十夜とか、千一夜物語
夜の数を数えて一体どうするのだろう。

数えることで何かが変わることはないが、
しかし、人は数えてしまうのだ。
例えば夜が明けた時にかつて蒔いた種が芽吹いていないかと期待しながら。

本書はボルヘスの文学に対する愛情が溢れた七つの講演録だ。
いや、最初の「神曲」はともかく「悪魔」やら「仏教」やらも文学なのか?
というとそれは確かに文学ではない。

しかし、全編に溢れ出ているボルヘス自身の情熱は全て
文学に対する信頼と慕情と敬愛によるものとしか受け取れない。

「悪魔」や「仏教」について語るときは
それらを分析しようとして語るのではない。
ただそこにある概念がどのような地平に存在しているのかを描き出そうとしている。
意味と意味の結びつき、言葉の星座を描くことは文学という方法で語っているのであって
文学について語っていないときも彼は文学に対する絶大な信頼と愛情を示しているのです。

本人の作品より先にこういう講演集から読んでしまったことは
間違えてしまったかと思ったが、ボルヘスという人の存在の大きさは
これでも十分すぎるほど感じられるものでした。

七つの夜 (岩波文庫)

七つの夜 (岩波文庫)

私の考えでは、ユリシーズの逸話は『神曲』の中で最も謎めいている以上に、おそらく強度も最高でしょう。ただし、どの逸話が最高峰であるかを知るのは非常に難しい。『神曲』は最高峰の連なりでできているのです。(中略)『神曲』は私たちの誰もが読むべき本です。これを読まないと言うのは、文学が私たちに与えうる最高の贈り物を遠慮することであり、奇妙な禁欲主義に身を委ねることを意味します。(p.34-35)

こんな熱烈なラブレターもなかなかないだろう。
読むべき本が増えるからご勘弁ください。うひー。

ある真昼時、ブッダは砂漠を越えなければならなかった。すると神々が、三十三の天空から、それぞれがひとつずつ影を投げかけてやるのです。ブッダは神々を誰ひとりないがしろにしたくなかったので、三十三に分かれます。そうやって、それぞれの神が上から見ると、一人のブッダが自分が投げかけた影に守られていると見えるようにしたのです。(p.116)

神に対して配慮するなんていうのはとても面白い。
ヨブの神とは大違いだ。