ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「夜想曲集」著:カズオ・イシグロ 訳:土屋政雄

イシグロは語り手の人称を意識しながら巧みに
遠くへ連れ出す誘拐犯である。

この短編集でもその読者攫いの技量はいかんなく発揮され、
今回は遠くではないかもしれないが、
壁ひとつ向向こう側の、見えずに漏れ聞こえていた物語へと誘われる。

音楽と夕暮れの物語、と記されたサブタイトルは
余韻について考えさせる。
鳴り響いた反響は楽曲が終わった後も別の揺れを揺らしている。
呼び起こされた拍手たちと輝く星空のきらめきは
別の大きな輝きの終わりによってもたらされている。

それぞれの人生の余韻であるように見える5つの物語ではある。
しかし、夜もただの1日だ。
生きる人にとって物語の前も後もない。

シンプルにセンチメンタルな匂いであっても
どれもポジティブな愛を感じる。気持ちのいい読後感である。

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

結局、ぼくはまた同じ間違いをしたわけだ。ヘンドリックスへのなり方が足りない。
ぼくは四つん這いになり、雑誌に向かって頭を下げると、そのページに歯を食い込ませてみた。ちょっと香水のような香りもあり、不快な味ではなかった。(p.109)

「降っても晴れても」から。友人の家で留守を任されている時に部屋を汚してしまったのを犬のせいにしようとする主人公が割と真面目にまぬけで笑いそうになるが、必死すぎて笑うのも悪いような気分になる。

リンディの体が、前のように音楽に合わせて揺れはじめた。だが、今度はバースを過ぎても止まらなかった。むしろ、音楽が進めば進むほど、われを忘れて溶け込んでいき、両腕までが架空のパートナーに向かって差し伸べられた。終わるとプレーヤのスイッチを切ったまま部屋の端に立ち、おれに背中を向けてじっと動かなかった。ずいぶん長くそのままだったように思う。ようやく振り向いて、ソファーに戻ってきた。(p.220)

夜想曲」から。これもユーモラスなシーンが多いが、
このリンディの姿は全体を通して見えるイシグロが描こうとした姿ではないかと思う。

「小さな会社のはじめてのブランドの教科書」著:高橋克典

ブランドは小さい会社こそ大事にしようという話ですね。

特に今は検索性が高くなっているので、
何かオンリーワンであれば検索された時にもオンリーワンです。

方向性として、地域性を出すことも示唆していますが、
地域性はそれ自体が記名性の高い検索タグになります。
もちろん、その中に競合がないわけでもないでしょうが、
世界中でオンリーワンである必要もないわけです。

ただ、細部としてみるといまいち体系化しているわけでもないし
個別の事例が少なくもないが、多くもない。
ちょっと総花的で食い足りないかなという気もしました。

ブランディングは、会社の方針や将来への方向性を明確にしてくれます。そしてブランディングで社員のベクトルが同じ方向に向けば、人間関係のトラブルも減ります。(p.8)

未然に減らせるかはわかりませんが、
少なくとも公平なジャッジをしやすくなりますよね。
明言されていない部分でも指針があれば、動きやすくなるというのはあります。
ただ、それは具体的に社員がそのような方針で動いていると
実感しないといけないのでここのマネジメントが社長には求められます。

中小メーカーなら、できるだけニッチな部分を手がけると、スイッチングコストが高くなり、発注元はおいそれとメーカーを替えられなくなります。このスイッチングコストをいかに上げるか?が、OEM生産で高い利益率を確保し続ける一つのコツと言えるでしょう。(p.72)

ここはひとつの肝になる部分。
ただ、ニッチな商品を作る以外にもスイッチングコストの上昇には方法がある。
そうしないと、ニッチな商品は需要構造の変化が変わった時に脆弱だから、
ニッチさだけを追求するのはリスクが高い。

「一発屋芸人列伝」著:山田ルイ53世

ネタ見せ番組というのはなんというか、
バラエティが行き詰まった時に代わりの突破口として現れ
一発屋芸人はそれとともに社会に溢れ出た。

売れるべくして売れたというよりは
売るものがない中で、探し当てた一つの水脈が噴出したという形で
社会構造というか、マーケティング的な情勢の中で巻き起こった現象に思える。

この本は、著者自身一発屋芸人として、一発屋芸人にインタビューしている。
こういう形での語りと聴き取りはほっておけば消えてしまっただろうから
とてもよい企画だと思う。

本人の努力もなければそもそも板の上に立てないのだから、
みんな頑張っている。それでも、前述の通りの印象から
社会現象に巻き込まれてしまった人のようにも見える。

それが、このミクロな聴き取りでは非常に多様で自由なあり方が見える。
最終的にはやはり翻弄されてはいるんだけれど、
どっこいそれでも生きている、という感じのするこの
一冊はとても民衆的な芸能風俗を描いている。

少々ベタなツッコミも多いが、その辺も含めて、
軽さが翻弄される僕ら自信を少し楽にしてくれる気がする。

一発屋芸人列伝

一発屋芸人列伝

一発屋の人なら分かると思うんですけど……」
道連れにしたいのか、会話の合間に時折差し込む波田
(共感したら終わりだ!)(p.139)

ギター侍とのサスペンス溢れる会話。

「失敗して、『見えてしまった!あちゃー』……やるのは簡単ですけど、それをやると僕の場合、先がない気がする。どれだけ見せずに色々遊べるか……そこを突き詰めたい」
頑固な職人、あるいはアスリートと話しているような錯覚を覚え、無意識に背筋が伸びる。(p.184)

とにかく明るい安村の話だが、全般的にそれぞれのプロ意識が垣間見える。
お仕事本としては外せないやつです。

「人文学と批評の使命」著:E.W.サイード 訳:村山敏勝・三宅敦子

もはや教養というものが欲されることも求めらることも少なくなっている。
そうした中で人文学の擁護者であるためにはいったいどのような資格がありうるだろうか。

イードは文化的でありながら政治でしかありえない領域で闘ってきた人だ。
この本はしたがって、ただの文学史の概観などではなく、
現在も熱を持っている地点でのレポートのようになっている。

安易な言辞への逃避を許さない彼の姿勢は
抵抗するそのまさにその場所が人文学の領域であることを示している。
何から抵抗するのか?
優しい死と絶望に抵抗するのだ。よく生きるために。

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

変化こそ人間の歴史であり、人間の行動によって作られ、それに従って理解される歴史こそが人文学の基礎である。(p.14)

反響する歴史のイメージ。

平凡なものと非凡なものを、並みのものと特異なものをより分けられることこそ、人文学的学識、読解、解釈のしるしである。人文学とはある程度、紋切り型への抵抗であり、ありとあらゆる類の月並みな考えや頭が空っぽの言語に抵抗する。(p.53)

この「選り分けられる」というのは実は問題をはらんでいる。
しかし、それは不用意であるというのではなくて、ここにしがみつかなければならない。

正典作品を読み、解釈することは、それを現在において蘇らせ、再読の機会をもうけ、現代の新たなものを広い歴史の領野へと位置付けることであり、この領野の有用さとは、歴史をとっくに完結したものとしてではなく、いまだに闘われ続けている闘技の場として示すことなのだ。(p.30)

ここでキャノンはバッハに見られる音楽的意味合いを引き出されている。
繰り返し、重ね合わせられる声と響き。

「わたしたち」という代名詞の戦略配備は、抒情詩や頌詩、葬送歌や悲劇を作る材料でもあり、だから責務と価値観について問うこと、プライドと以上なほどの横柄さについて問うこと、驚くべき道徳的盲目さについて問うことは、わたしたちの人文学者としての訓練からすれば当然である。(中略)どこかでじっくりとわたしはこの「わたしたち」ではないし、「あなたがた」がやることはわたしの名前でやっているのではないと、述べることができなければならないのだ。(p.99)

どこかでじっくりと、というのはユートピアのような感触だが、
隠れ家的なバーでしっぽりというわけにはいかなさそうだ。

頭においておくべきは、べつの言語が使えるわけではないこと、わたしが使う言語は、国務省や大統領が、人権やイラク「解放」戦争を唱えるときの言語と同じものであるしかないことだ。だから、わたしはその言語を使って、主題を捉えなおし、主張しなおし、圧倒的に有利な立場にある敵たちが、とてつもなく複雑な現実を単純化し、裏切り、ときには貶め解消すらしているなかで、現実に結びつけなおさなければならない。(P.164)

結びつけるものは想念ではない。
現実的な闘争として言葉はメディウムの役割を果たす。
そのようにする時に見せる手つきが人文学の手技として示されてきたものだ。

「知りたいレイアウトデザイン」著:ARENSKI

古い入門書は持ってたけど、
必要もあったので、最近のものを入手。

基本的な考え方やルールをわかりやすく明示するだけでなく、
似た素材を違うアプローチで作るとどうなるかという比較が多くて、
手法の選択にとても役立ちます。

また、レイアウトのパターンの中には紙モノ以外にも
web媒体を意識したレイアウト例もしっかり抑えてある。

こういうサンプルが多いものだと自分の実作だけじゃなくて
企画のすり合わせの時に、「それってこういう形でいいですかね」
と提案しやすいのでありがたい。

初心者でも制作しなくちゃならない、そんな人への強い味方になる本ですね。

知りたいレイアウトデザイン (知りたいデザインシリーズ)

知りたいレイアウトデザイン (知りたいデザインシリーズ)

何を伝えたいのか明確にしないままだとターゲットの心に響くものをつくることはできません。しかしながら、伝えたいことを明確にすることは簡単ではありません。なぜなら、多くの場合「伝えたいことを絞れない」「伝えたいことの優先順位を決められない」という悩みにぶつかるためです。(p.16)

ここから書いてくれているのは、実践的であることの証明とも言えるでしょう。
ただのテクニック本ではないのです。

中央揃え
センターに情報を集めて、上から下に目線を誘導させます。繊細さや高級感を感じさせたいデザインに向いています。また、画像の形状に動きがある切り抜き写真と相性がよいのも特徴です。(p.45)

おお、言われてみれば確かにそうかも。
当たり前になんとなく選んでいたものに理由がくっつくのも面白い。

「トマス・アクィナス」著:山本芳久

キリスト教と言っても長い歴史の中で変遷がある。
その中での積み重ねを知ることは今でも十分に意味のあることだろう。

トマスは中世の神学者として活躍した人物である。
宗教改革などをしたわけでもないし、黎明期になにかを決定づけたわけではない。
しかし、それでもなお彼の主著である「神学大全」は偉大な達成である。
本書はそれを中心に、どのようにトマスがキリスト教を整理しようとしたか確認する。

親鸞教行信証の時でもそうであったが、
大きな遺産に対して敬意を払いながら発展的に展開する時の
「引用」および「編集」というのは現在よりも輝きをもった手法に見える。
テクノロジーはどうもこれらに手垢のついた印象を与えてしまう。
アカデミズムも本来はそうした手法を尊ぶものだが、時代につれて変遷はするだろう。

それはさておき、キリスト教
ギリシャ哲学を接続していく流れはなかなか読ませるものがあり、
「善き生きる」ことを率直に肯定する教義へとつながっていくのは
キリスト教に対する認識を少し改めるところがあったように思う。

あるひとつの教義からプリズムように生み出される解釈は
宗教というものの多様性、および豊かさを感じさせてくれる。

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

キリスト教の修道者が性的快楽から距離を置いた純潔な在り方をするのは、性的事柄が醜いことであったり、善からぬことであったり、価値のないことであったりするからではない。正反対だ。善いものであり、価値あるものであるからこそ、それを犠牲にしてまで神にすべてを捧げて生きるところに意味が見出されているのである。(p.97)

なるほどね。

キリスト教の思想史とは、単に、イエス・キリストによって与えられた「答え」を歪めることなくありのままにそのまま受け継いでいくようなものではありえなかった。キリストによって与えられたのは、「答え」というよりは、むしろ、「神秘」だったからである。(p.229)

前半はむしろ神秘主義者であるよりも人間理性や自由意志が強く打ち出されている一方で
キリスト教の根っこに神秘そのものが埋め込まれているというのはとても面白い。

なぜ私が生まれたのかということを考えるのを代替させてしまうような「神秘」だろう。

「空気の名前」著:アルベルト・ルイ=サンチェス 訳:斎藤文子

ここには湿度と匂いが渦巻いている。
港が近いからだろうか。
たしかにそうした湿度はある。

マレビトのための湿度だ。
しかし生臭さはない。
ここには獣の匂いは感じられない。
湿度や匂いはヒトがヒトの為にあつらえたものだ。

これらは紛い物ではなく、それぞれに真正だ。
ヒトが真正であれば。

少女が社会と社会の膜を揺らぎならがら
ヒトに近づいていくというようなモチーフは
今では物議を醸しやすいだろうが、普遍的でもある。
近代的なモチーフではあるが、
むしろフラットなマジックリアリズムによって
この接近は試みられているのが新鮮だ。

何よりこのモガドールの街の陰影の豊かさは非常に魅力的で
主人公のファトマとともにもう少しさまよい続けたくなる。

空気の名前 (エクス・リブリス)

空気の名前 (エクス・リブリス)

女はあらゆるもののなかに存在しながら、存在していなかった。彼女の匂いは空気の匂い、彼女の力は風の力、湿り気は大気の湿り気、その存在は軽やかでありながら、ときに重くのしかかった。つねに彼女なりのやり方で、手加減することがなかった。(p.36)

呪いの描写であるが、魅惑的である。

ときどき彼女は、一冊の本を手にして窓辺に座った。しかし、印刷された文字はしっかりと支え止められているものなので、それらの文字がすぐに文字の存在しない場所を航海するということはなかった。ときに、少なくともその断片において、世界の別の形を半ば目覚めた状態で見つづけさせてくれる文章に出会うことがあった。(p.97)

主題はここにはないけれど、この後半部分の文章こそは作者が目指そうとした文章ではなかろうか。