「トーラーの名において」著:ヤコヴ・M・ラブキン 訳:菅野賢治
イスラエルは非常に問題を孕んだ国家として立ち現れている。
その際にユダヤ教とイスラム教の、つまり宗教と宗教の問題として外部からは見えてしまう。
しかし本書はイスラエルという国家がユダヤ教とはつながりを持たないものだとして拒否する。
本書の主張としては徹頭徹尾、
イスラエルがユダヤ教を裏切っているというのだという証言で彩られる。
おそらく実際にそうだろうと思う。宗教的理解を正しくすれば
誰かを追い落としての建国などあろうか、ということだ。
イスラエルの建国はメシアによる宗教的奇跡を待たなければならず
そのような兆候などなかったのだ。
しかし、これらの主張は同時に現実的な苦しさも感じないでもない。
あらゆる角度からの批難、拒否にもかかわらず、尽くされる言葉の多さが
どのように見られているかをよくよく理解してのことだと思う。
弁明の書、というよりは諸国に散らばるディアスポラの同胞に向けての
旗のようなものかもしれない。
しかし、ユダヤ教的伝統をイスラエルが簒奪し、歪めているのだとして、
どのように振る舞うべきなのか。日々を正しく、慎ましく、隣人と生きるだけでよいのか。
その責任を問おうなどというのは、
果たして僕自身の不本意な同胞についての考えも無傷ではいられない。
ただ、本書のエネルギーはそのような葛藤と無縁とも思えないのだ。
シオニストたちが、パレスティナの地に定住を始めた最初のユダヤ人であったわけでは断じてない。<イスラエルの地>におけるユダヤ教の現存は、<神殿>の破壊以来、今日まで一度も途切れることがなかった。(中略)
現地のアラブ人住民が、当初しばらくのあいだ、シオニストたちからの経済的な申し出に対して同調的な姿勢を見せたのに対し、元からパレスティナに居住していたユダヤ教徒たちは、これらロシア出自の非宗教的ユダヤ人たちの到来に恐怖感と嫌悪感をあらわにした。(p.89-90)
これだけでもシオニズムがとてもアンビバレントな試みであったことが分かる。
シオニストたちは入植するユダヤ人たちからユダヤ教の行いを取り除き、非宗教化していく。
シオニストの教育者たちは、イエメン出身のユダヤ人子弟に安息日のオレンジ摘みを強制したり、外出時の帽子の着用を禁じたり、長く伸ばした鬢(ぺオット)ーー古来、イエメンのユダヤ教徒は鬢を長く伸ばしてきたーーを切らせたりしていたらしい。(p.93)
フランスでブルカが問題になったこともあったが、ここで起きていることは何か。
何かの実験場のようである。